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第2章 碓氷 雫
#33
しおりを挟む昨日の夜とは違い、隣のバッターボックスには小学校高学年くらいの男の子がいる。後ろのバックネット裏には先生の視線を感じる。緊張感が体の可動域を狭くしているように感じながら私はバットを構えた。次の瞬間。パシュッと乾いた音がしたかと思うと、小さな白いボールが私の方へ飛んできた。両手で握った黒い金属バットを思いっきり振り抜いてみせた。
きいぃいん。
聴き心地の良い金属音が響き、私が打ったボールがピッチングマシンの上を飛び越えて鋭い打球が飛んでいった。安心した私が大きく息を吐くと、後ろから「すごいじゃん! 雫さん!」と、先生の普段より高い声が私の耳に届いた。それに嬉しくなった私は先生の方を振り向いてピースサインを作った。
「今のはたまたまです……よっと!」
自分が思った以上に昨日コツを掴んだのか、放り出されるボールが私の目でちゃんと追えて、どこにどのタイミングでバットを振ればいいのかが分かった。しっかり自分のやりたい動きが出来ているようで楽しくなってきた。それから十数球、ボールが飛んできたけれど、私は一度も空振ることもなく全てのボールを打ち返した。そのうちの1球は打球に力や伸びが無かったけれど、角度的にはホームランだと言っても過言ではないくらい気持ちのいい打球が飛んだ。ヘルメットを脱ぎ、バックネットを潜ると、先生が両手を上げて笑顔で私を待ち構えていた。
「ナイスバッティング! 雫さん!」
「あ、ありがとうございますっ! 上手く打てました。我ながら」
先生とハイタッチすることなんて滅多にないイベントだ。むしろ、したことあったっけ。私よりも嬉しそうにしてくれている先生の笑顔に、先生らしさを感じて私もつられて笑顔になった。
「すごいなー。隠れた特技を見せつけられちゃったなぁ」
「カッコよかったですか? 私」
「うん! めっちゃカッコよかったよ! 一球、ホームランみたいに飛んだ打球あったよね」
「はい。上手く飛んでくれましたね。でも、ホームランじゃなかったです。ハルカさんは昨日、ホームラン打ってました」
「マジで? すごいなぁ、雫さんもハルカちゃんも。僕の身の回りにはプロ野球候補の選手がごろごろいるらしい」
「先生が打ってるところも見てみたいんですけど」
「え、えぇー? 僕やったことないよ。野球……」
「そんなこと言って結局打てちゃうのが先生です。運動神経が良いのは昔から知ってますから」
「いやぁもう、何年も前だよ。ちゃんと運動してたの。それにバット握るのだって、ほぼ初めてみたいなもんだし」
「いいから。結局楽しんだもん勝ちです。とりあえず100円で一回やってみましょう。ほら、先生打席に入ってください。ヘルメット被ったりして、何もかも準備が出来てから硬貨投入口に100円入れてくださいね」
「わ、分かったよ。やればいいんでしょ……!」
おそるおそるネットを潜り、備え付けられているヘルメットを深めに被り、バットを握った先生。やばい、ここを提案した私が思うのも申し訳ないけれど、驚くほど似合っていない。シャツをまくって露わになった先生の手首はその金属バットよりも細く見えた。
「雫さん、構え方ってこれで合ってる?」
「えっと…….、先生も右利きですもんね。あ、握る手の位置が違うかも」
「手の位置? どういうこと?」
「今左手が右手より上の位置で握ってますよね? それが逆です。右手で握った所より下の位置で握ります。こんな感じですかね」
さっき握っていたバットをイメージしながら私はその手の位置を先生の方へ向けた。たくさんの知識を持っている先生に私がバットの握り方を教えている。何だかとても新鮮で、すごく貴重な瞬間な気がする。
「あ、なるほどね。確かにこっちの方が違和感無いかも」
「じゃあ先生、早速、100円を入れてやってみましょ……ふ」
「あ、笑ったね! 雫さん! 見てろよ、絶対ホームラン打ってやるから」
火がついた先生はその勢いのまま100円を入れた。ゴウンゴウンと独特な駆動音が鳴り出し、電光掲示板に『20』の数字が出た。先生は今教えた腕を意識しながらボールを待つ。
カシュッ。コォン。
不自然な金属音が鳴った。先生の振ったバットにボールが当たった。バットの少し先の方に当たったのだろう。ただ、先生はそれでも目を輝かせて私の方を振り向いて笑った。
「お、当たったよ! 雫さん!」
「すごいです。1球目で当てるのはさすがです!」
カシュ。カン。カシュ。カン。カシュ。キン。カシュ。カァン。テンポよく投げられるボールにタイミングを取りながらバットを振る先生は空振ることなく、それでいて徐々にタイミングも合ってきているような気がする。
「雫さん、どう? ぼくの初バッティング」
「空振りしないのがすごいです!」
「でしょ? 褒められて伸びるタイプッ!」
強めに振ったボールは勢いをつけたまま、不自然な位置に設置された「ホームラン」と書かれた丸い板の上を飛び続けた。そして奥にある緑色のネットにボールが勢いよく届いた。
「すごいです、先生! ほぼホームランじゃないですかっ!」
「今のいい当たりだったよね! 我ながら!」
むふーとドヤ顔を見せつける。ボスッ。緩衝板にボールが投げ込まれているのに気づき、慌てて先生は打席に立って目線を変えた。残りの球数は6球もあるのに、意識が違う方を向いてしまうのが何とも先生らしかった。
「まだあと6球もあったんだ! そろそろ腕が疲れてきたよ!」
そんなことを言いながらも強い打球を前に飛ばしている先生は、結局残りの5球も全ていい当たりをして終えた。本当にほぼ初めてなのだろうか。初心者のようなことをしていたのに、それを直してしまうとあっという間に経験者、それも強打者のようにボールを捉えて跳ね返してしまう。打ち終えた後の先生の背中は、今さっきよりも明らかに大きく見えた。振り向いてバックネット越しに私を見た先生は、へへへと少し照れくさそうに笑ってネットを潜って帰ってきた。
「先生、ほんとにほぼ初めてだったんですか? 明らかに経験者のバットの音でしたよ。てか、経験者よりバットに当たってましたよね」
「いやいや、ほんとにほぼ初めてだから。まぁ運動神経が少し自信があるのは否定しないけどね」
「……絶対先生よりいい当たりを打ってやりますよ」
「おー、負けないよ。雫さん。行ってらっしゃい」
私が負けず嫌いなのは、私自身も、そして先生も知っている。へらへらと笑っているその顔から笑顔を奪ってやる。そのスイッチが入った私は、一度大きく深呼吸をしてから再びネットを潜った。100円を入れ、ピッチングマシンが鈍い音を立てて動き出した。意味もなくマシンを睨みつけ、カシュッと音がして白いボールが飛んできた。それの球道に沿うようにバットを力いっぱい振った。
きいぃん。
気持ちのいい音が響き渡り、打ったボールは自分でも驚くほどの鋭いボールが飛んでいき、あの不自然な位置に置かれた「ホームラン」と書かれた丸い的に当たった。レトロゲームをクリアしたような音で祝福を受け、『おめでとうございます。ホームラン、ホームランでございます』と、聞き覚えのある感情のないアナウンスを受けた。
「すごいじゃん! 雫さん! ナイスバッティン!」
「これで先生よりいい当たりが出ましたね!」
「あ、雫さん危ないよ!」
「わっ!」
先生の方を向いてドヤ顔でガッツポーズを取っていると、それを遮るようにボールが私をめがけて飛んできた。いや、違う。私がボールの飛んでくる位置にいたのだ。先生の声で間一髪ボールを避けた私はその後集中力が切れたのか、1球も快音が聞こえないままゲームを終えた。それでもネットを潜って戻った私に先生は、とびっきりの笑顔とハイタッチで私を祝福してくれた。高鳴る鼓動を隠すように私も先生にとびっきりのドヤ顔を向けてみせた。
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