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第2章 碓氷 雫
#32
しおりを挟む頭の中には今日の夜作るためにうどんを生かした美味しい料理を作ること。それを考えながらも少しずつ近づいている目的地を想像すると、さすがに少し緊張する。先生は私の心の中の状況など知るはずもない。車内にかかっている音楽に合わせるように体をゆっくりと動かしてテンポを取っている。
「雫さん、結局今はどこに向かってるの?」
「まだ内緒です。もう少ししたら建物が見えてくるので」
「何だよー。勿体ぶらずに教えてくれたらいいのに」
「目的地が分からない方が冒険っぽくて良くないですか?」
「雫さんがそんな少年っぽいこと言ってるの初めて聞いたかも。まぁ確かに着いてから知った方が楽しいのはある気はするな」
「そうでしょ? だから大人しくしててくださいね」
「分かったよ。何なら目も瞑って待ってようかな」
「先生が目を瞑ってたら5分後には夢の中ですよね」
「はは。確かにね。せっかく雫さんと出かけてるんだからちゃんと車の中も楽しまないと損しちゃうからなぁ」
「……調子のいいことばっかり言わなくていいですよ。先生も毎日遅い時間までお仕事をされていると思うので、車の中にいる時間くらいはゆっくり羽を伸ばしてください」
「相変わらず雫さんは優しいね。ありがとう」
「……優しくなんか、ないです」
先生に聞こえないくらいの声で独り言をつぶやく。先生は私との会話を終えると、窓の外を眺めながらおぉーだとか綺麗だなぁーとか言って相変わらずのへらへら具合で楽しんでいた。バックミラー越しに映る先生の笑顔は、それこそ少年のように純粋無垢なようだった。確かに今日はいい天気だ。冬の寒さはどこかへ通り過ぎっていったように暖かいし、白い雲の間から照らす陽の光は日向ぼっこがしたくなるほど心地が良い。私も自然と頬が緩む。
「あ、そうだ。雫さん」
「何ですか?」
ふふふーと笑う先生を見ていると、思わず私もつられてしまう。
「何ですか? 呼んだけ呼んで」
「今日ってさ晩ごはん食べたいもの、ある?」
「んー、話題に出てたうどんとか……ですかね」
「あ、それもいいね。けどさ、今日は僕が雫さんを連れていきたい所に行ってもいい?」
「え、はい。別にいいですけど……。どうしたんですか? 急に」
「せっかくの機会だし、僕が今一番行きたい場所に連れてくよ。今は雫さんがお楽しみの場所に連れてってくれてるんだし。そのお返しをする。うどんも捨てがたいけどね……」
「どういうジャンルの料理が食べられるんですか?」
「それはもちろん秘密だよ。僕だってまだ今から行く所知らないんだし。行ってからのお楽しみ」
「……それもそうですね。じゃあ私も楽しみにしています」
「うん。今日は冒険する1日だね!」
「なんか小学生の夏休みみたいです」
「はは。確かにね。僕も今から雫さんが案内してくれるところ、楽しみだよ」
先生はその後も私と話していて、ウトウトする素振りを一度も見せることなく過ごしていた。30分ほど車を動かしていたはずなのに体感で過ぎた時間は5分くらいにしか思えないまま、私は目的であるバッティングセンターに着いた。明るい時間帯で見るこの場所は、夜に見た時とはまた違う建物のように見えた。
「……雫さん。ここが目的地?」
「はい。隠れた名所です。今は平日のお昼時なので客数もだいぶ少なそうですね」
「そ、そうだけど、まさかこんな場所に来るなんてね……」
「先生に楽しく思える趣味を見つけてもらいたくてお連れしました。慣れない場所でソワソワすると思いますが、何事もまずやってみることから始まります。早速行きましょう」
「……まぁ雫さんがせっかく考えてくれたんだ。やってみないと申し訳ないしね……。行ってみようか」
「はい。是非行きましょう!」
ドアを閉め、明らかに足取りの重い先生の前を先導するように私が前を歩いていく。入り口のドアが近づいてきても、客は中学生くらいの男子3人組と、先生と同じ年代くらいの男の人が1人で快音を響かせているだけだった。すると、トイレから見覚えのある、見覚えしかない老人が私の顔をじっと見つめた。その老人は私と認識すると両手をぶんぶん振って私に笑いかけている。その仕草が少し可愛く思えて笑えた。
「ん? あのおじいさん、雫さんに手振ってない?」
「はい。私はあの人を知っています、通称炭酸じいちゃんです」
「炭酸じいちゃん? 炭酸風呂でも好きなおじいちゃんなの?」
「いえ、違います。まぁすぐに分かりますよ。行きましょう」
「うん……? うん、じゃあ行こう」
明らかに頭の中に? を浮かべている先生を誘導しながら私たちは建物へと近づいていく。今日は手動になっているのか、ドアを重そうに持ちゆっくりとドアを開けてくれた炭酸じいちゃんが私の目を見て微笑んだ。
「いらっしゃい。雫ちゃん、今日は彼氏とバッティングかい?」
「こんにちは、炭酸じいちゃん。彼は私の先生です。麻倉斗和先生です。心と体のお医者さんです。先生、こちら、炭酸じいちゃんです」
「初めまして、炭酸じいちゃん。頼れる助手、雫さんの先生をしている麻倉斗和だよ。よろしくね」
「初めまして。斗和先生。私が炭酸じいちゃんです。心と体のお医者さん。すごく幅の広そうなお医者さんだね」
「うん。体の悩みから心の悩み、怪我や精神的な治療。何でも診させてもらってるよ。じいちゃんのお悩みもあったら、いつでも診させてもらうよ」
「おぉ、それはありがたい。ちょうど最近、炭酸の飲み過ぎなのか、骨が弱くなった気がしていてね。ちょうど成形外科に行こうかと思っていたところだったんだ」
「実際のところ、炭酸が骨に直接的な影響がある可能性はかなり低いんだ。他の可能性もありそうだから、一度全身を診させてもらった方が的確な診断ができると思うよ」
「ほほ。ありがとう。半分以上は冗談だからの。体の調子が悪くなった時は遠慮なく斗和先生を頼らせてもらうとしようかの」
「うん。もちろん。いつでも大丈夫だよ。これ、僕らの店の情報が載ったパンフレットね」
「ありがとう。ぜひお邪魔させてもらうとしよう」
初対面とは思えないほど会話が弾んでいる2人の間に沈黙が訪れることはなく、笑顔で言葉を交わし合っている。しびれを切らした私が2人の会話の間に割って入った。
「おじいちゃん。今日はね、先生の趣味発見をする日なんだ」
「趣味発見をする日?」
「うん。昨日私がハマったものを先生にもお勧めしに来たの。というわけで先生。こちらへ」
「え、えっと……」
きょとんとしながらも普段よりは目が泳いでいる先生の背中をゆっくり押しながら私はそこのドアを開けた。昼時だからだろう。ユニフォームや練習着を着てヘルメットを被った子どもたちが気持ちのいい金属音を奏でるように振りきって白いボールを打ち返していた。私が打った音よりも明らかにいい音が鳴っている。
「私が今日勧める、趣味候補です。まずは私が見本を見せますから
先生は危ないので、このフェンスの後ろで見ていてください」
「し、雫さん、野球したことあったの?」
「いいえ。完全に昨日から始めました。超初心者。スーパービギナーです」
「スーパー……。あ、昨日ってハルカさんとここへ来てたの?」
「はい。その時に、すっごく盛り上がっちゃって。それでいて、すっごく楽しかったんです。だから、今日もやりに来ました。ついでに先生にもその楽しさが伝わってくれたら一石二鳥なので」
平常心を装いながらも、心の中はどきどきと心臓が鳴っていて、いつもより大きく動いている気がする。ヘルメットを深めに被って汗や表情が見えにくくして、私は100円を財布から取り出した。
「じゃあ、先生。見ててくださいね」
「う、うん。頑張って……!」
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