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第2章 碓氷 雫
#29
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「お嬢ちゃんたち。ありがとうね。楽しかったよ。久しぶりに美女のあんなに長いゲップを聞いたよ。また来てね。バイクちゃん」
「おじいちゃん! だからそのバイクちゃんって言い方やめてよ! めっちゃ恥ずかしいんだからね!」
「はっはっは。聞いてたのはわしと隣のお嬢ちゃんだけだからええじゃないか。雫ちゃんだったかね」
「あ、はい。雫です」
「雫ちゃんや。バイクちゃんは面白い子だからの。末長く一緒におるんじゃぞ」
「はい。もちろんです。また次もハルカさんと一緒に来ますね」
「おじいちゃん。今度バイクちゃんって言ったら怒るからね」
「分かった分かった。バイクちゃんって呼ぶのはわしだけだろうから何とも気分が良かったんじゃがのぉ」
「……」
「じゃ、じゃあ! そろそろ行きましょうよ、ハルカさん!」
「そうね! じゃあね! 炭酸じいちゃん!」
「ほほほ。またおいでぇ」
ドアをゆっくりと閉め、素早い足取りでハルカさんは車へと向かう。私も距離を取られないように足を早く動かす。ジャリジャリと大きく音を立てて地面を踏みしている足はやっぱり怒っているようだけれど、視界の隅に見えるハルカさんの横顔はどこか満足げな表情をしているようにも見えた。車のドアのロックを解除し、ドカッと効果音が出そうになるぐらい豪快に運転席に座ったハルカさんはふーっと1つ大きく息を吐いた。
「さっきのおじいちゃん、ムカつくけど、何か憎めなかったんだよね」
「そんな気がしてます。ハルカさんの顔、ちょっと嬉しそうだから」
「ウソ!? 自分じゃ全然そんなつもりなかったんだけど! ……あ」
透明なドアの向こうには、まださっきの「炭酸じいちゃん」が優しい笑顔を私たちに向けながらゆっくりと手を振って見守ってくれていた。ちなみにさっき「炭酸じいちゃん」がハルカさんを「バイクちゃん」と呼んでいたのは、林檎の炭酸ジュースを一気飲みし、飲み干す前に出たゲップが、まるでバイクのエンジン音のように豪快なものだったから、「炭酸じいちゃん」は爆笑して、その後彼女をそう呼んでいた。流石に私にはニックネームをつけられることはなかったけれど、ハルカさんが見ず知らずの人とあんなすぐに距離感を近づけられる才能がことが素直にすごいなと思ったし、羨ましくも思った。
「もう! やっぱり炭酸じいちゃん、ムカつく顔で私を笑ってる気がする。行くよ、雫ちゃん! シートベルト締めた?」
「はい。いつでも大丈夫です」
「オッケー! じゃあねー! じいちゃんが私の呼び方を忘れた頃ぐらいにまた来るからねー」
聞こえているはずのないハルカさんの声を聞いているような優しい笑顔で私に手を振ってくれる「炭酸じいちゃん」に、私も目を合わせて軽く会釈をして別れを告げた。結局、バッティングセンターより炭酸ジュースで盛り上がってしまった。その時、私の頭の中では点と点が繋がり合ってひとつの答えが生まれた。
「あ」
「ん? どうしたの、雫ちゃん。忘れもの?」
「いえ。生まれました」
「え? 何が?」
主語のない私の言葉が、ハルカさんの表情を固いものにさせた。何だかそれが面白くなって私は逆にほほが緩んだ。
「先生に勧めたいものです。バッティングセンター。良くないですか? 先生、ほぼやったこと無いでしょうけど、通い続ければさっきの私みたいに上手いこと打てるようになるだろうし。程よい運動も出来るだろうし」
「……何だよ、雫ちゃん。急に生まれたとか言うから何が生まれたのか、私の頭の中は大パニックだったんですけど」
「ふふ。ごめんなさい。何しろ急に頭の中で閃いたので。でも、どうですか? この案。さっきみたいなレトロチックな空間だって先生も気に入ってもらえそうだと思いますし」
「……あはは。これだけ雫ちゃんに色々考えてもらってる斗和くんは多分、この世界で一番幸せ者だと思うわ」
「え? いやいや、それはハルカさん絶対言い過ぎです。私からすれば、ハルカさんっていう素敵な奥さんがいる旦那さんがこの世界で一番幸せ者だと思いますよ」
「いやいや、いらんいらん! そんなヨイショ、聞いてるだけで背中がムズムズしてくるから。あぁ、でも世界で一番幸せそうな笑顔で私たちを見送ってくれてたさっきの炭酸じいちゃんがもしかしたら一番幸せ者かもよ」
「あ、それは言えてますね。何か雰囲気や振る舞いから充実感が滲み出ていた気がしますもんね」
「そうそう。あとさ、あのジュース飲み終わった後の満足そうな顔! あそこの表情、写真で収めたかったなぁー!」
「分かります。雑誌の写真なんかに載せてもらってそうですよね」
「あー! 分かるー! 地元の情報誌とかにね……!」
結局、ハルカさんの車に乗っている時間全ての話題がさっきの「炭酸じいちゃん」のものになっていた。ノリで決めたバッティングセンターから、まさかこんなに「縁」の感じる時間が来るとは思ってもいなかった。人生とはやっぱり何があるか分からない。一丁前なことを考えながらも今日という日も、いい1日だったという気持ちで終えることが出来た。ハルカさんの車が我が家(Tsukakoko)に着く頃には時計は夜中の2時を回っていた。当然、家は真っ暗だった。
「ありがとうございます。ハルカさん。こんな遅くなっちゃってごめんなさい」
「いいのいいの。楽しかったし何か面白いおじいちゃんとの出会いもあったしね。雫ちゃんも良い気付きがあったみたいだし良かったじゃん。また行こうね、あのバッティングセンター」
「はい。もちろんです。次に一緒に行くときは先生も連れていきましょう」
「ふふ。そうだね。斗和くんの野球を楽しんでるところを見れんのも珍しいだろうし。そこが楽しみだな」
結局家に着いてから15分くらい車の中で話し込んでいた私たち。車の音をなるべく立てないようにしてくれているのか、ゆっくりと車を走らせていくハルカさんを見送ってから家に入ると、壁にかかっている時計は2がゾロ目になっていて何となく得をした気分になった。わけない。深夜だ。明日が休日でよかった。昼くらいまで思いっきり寝よう。まぁその前に、流石に化粧は落としてから寝ようかな。そう決めて洗面所へと向かおうとすると、作業場へと繋がるドアがガラッと開いた。
「きゃ! って先生!? こんな時間まで起きていたんですか?」
「あぁ、おかえり。雫さん。ちょっと気になったクライアントのカルテを見返してたら目が冴えてきちゃってさ。ハルカさんとの食事会、楽しかった?」
「は、はい……! とっても楽しかったです。次は先生も一緒にいらしてくださいね」
「はは。そうだね。ガールズトークのお邪魔にならなかったら参加させてもらおうかな」
手に持っているコーヒーカップを先生が使うときは、とびっきり苦いブラックコーヒーを飲む時だ。普段から寝ることを最優先する先生、8時間は寝たい先生がこんな時間にそんなものを飲むなんて珍しすぎる。明日が休みだからって頑張りすぎている気がする。もしかして……。
「先生」
「ん? 何?」
「勘違いだったらごめんなさい」
「うん。いいよ」
「私が帰ってくるまで起きててくれたんですか?」
「……うん、そうだね。もちろんそれもあるよ。何てったって大切な頼れる助手だからね」
ん? 先生は私のことを「頼れる助手」という風に表現することが多いけれど、「大切な」とつけて呼ぶことは無かったと思う。うん、今まで一度も無かった。いつもは起きていない時間に起きているから、いつもは言わないことを言ってくれているのかは分からないけれど、何だか私はその言葉が無性に嬉しくなった。私もいつもは起きていない時間だったからかもしれない。
「大切な頼れる先生からそう言ってもらえて私も嬉しいです。起きててくれていてありがとうございます」
「ううん。何事もなくここへ帰ってきてくれて良かったよ。今日はもう遅いから、ゆっくり休むといい」
「はい……。お言葉に甘えます。あ、甘えついでにもうひとついいですか?」
「いいよ。何?」
「明日、予定が無ければ一緒に出かけてくれませんか?」
勢いで言ったその言葉。頭の中に出てきたものをそのまま言った私は、しばらく時間を置いてから身体中が燃え始めたみたいに全身が熱くなった。それを聞いた先生は、私の顔を見てへらっと笑った。
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