19 / 68
第1章 麻倉 斗和
#19
しおりを挟む✳︎
「今日もお疲れ様でした」
「お疲れ様。雫さんもお疲れ様」
「ありがとうございます」
「あぁー、我ながら美味しそうだね」
「はい。特にこの音と香りがたまりませんね」
ちんと軽やかな音を手元に持ったグラスで鳴らし合うと、仕事モードであった体から電源が切れたように僕の気持ちが緩む。毎日のことだけれど、仕事を終えてありつく夕食は多分何を食べても美味しく感じる自信がある。今日は僕が作った特製ビビンバ。無性に韓国料理が食べたくなった僕が選んだのはやっぱりビビンバだった。それに、ビビンバは石焼きに限る。食べなくても分かる。この肉や米がコチュジャンと一緒に焼ける音と匂い。本当にたまらない。猫舌の僕は早く食べたい一心でスプーンに乗っている卵にまぶされた米ともやしに息を吹きかける。僕より先にそれを口に入れた雫さんはテーブルの向こう側で悶絶していた。
「あぁー! 美味しい! 何で先生は料理も上手なんですか? 欠点とかありませんよね! いつも思いますけど!」
「いやいや。僕よりも雫さんの料理の方が美味しいでしょ」
「んなことありませんから! 馬鹿にしてるでしょ!? 私のこと!」
「はは。してないから。褒めてしかないから」
ビビンバのお供にはマッコリでしょうと笑顔で話していた雫さんに促されるままスーパーで買ったそれを一口飲んだ雫さんは、すでに顔が赤くなっている。酒に弱い雫さんが何故、今日は飲みたくなっているのだろう。まぁ幸せそうな笑顔で食事をしている彼女を見ているとどうでもよく思えてくるけれど。
「あぁー、でもこうなるとチャンジャとチヂミも買っておけばよかったですね! トッポギだけじゃサイドメニュー、心細すぎましたね」
「そう言うと思ってね、買ってきたよ。チャンジャ。あと、ユッケも」
冷蔵庫からそれの入ったビニール袋を持ってくると、雫さんは待ちきれずに椅子から勢いよく立ち上がった。テーブルの裏の板に太ももを打ち付けていたような気がしたけど、彼女はそれを気にせずに袋の中を覗き込んだ。酒の入った雫さんは普段の3割増しで声と動きが大きくなる。そこも彼女の面白いところのひとつだ。
「やっぱり神ですね、先生! チャンジャのみならずユッケまで! しかもこれ、私の好きな焼肉屋さんが売ってるやつじゃないですか! いつ買いに行ってたんですか?」
「買い出しから帰ってきてランニングがてら外に出た時にこっそり買ってきてたんだ。最近の雫さんは特に頑張ってるからね。そのお礼にね。チヂミは無くてごめんだけどね」
「いいんです、ユッケもあるし先生のビビンバもあるし! 駄目だ、ダイエットを決意してたのにこんな調子じゃ絶対結果出ない!」
「ダイエットするの? そんなにスタイルいいのに?」
素朴に抱いた質問を彼女に問うと、彼女は眉間に皺を寄せ睨みつけるように「スタイル良くないって思ってるのにそんなこと言わないでください!」と、隣に家があったらそこに住んでいる人に聞かれそうなぐらい大きな声で叫ばれた。
「ごめんごめん。僕はそう思ったんだけどね。雫さんには雫さんのイメージする理想があるってことだよね」
「そうですよ! 人の努力を否定しちゃいけませんよ!」
「ダイエットを決意って言ってたけど、それってまだ努力は始まってないんじゃないの?」
「……細かいことも言っちゃいけません!」
どんどん顔の赤くなる雫さんの頬は、熱が出ているのかと思えるぐらいになっていた。
「そっかぁ。雫さんが努力をするなら、僕も何か頑張ること見つけないといけないかなぁ」
「頑張ること? 先生は仕事を頑張ってるじゃないですか」
「ううん、仕事とは関係ないものでさ、何て言うんだろう。趣味になるようなものを見つけられたらなって思ったりしてるんだけどね」
黒い器のへりにコチュジャンのついた米やもやしを貼り付けるようにヘラで押しつけながら自分の胸中を雫さんに話すも、彼女は僕の言葉を理解しているのかしていないのか、グラスの縁を指で撫でながら天井を見つめている。
「僕って何事にも興味が持てないじゃん? 仕事に繋がっていくことならどんどん取り入れようって思えるんだけどさ。料理とか音楽とかね。でも、それ以外の知識にはまるで関心がいかないとこを変えた方がいい気がしてさ。これは時間の無駄とか思っちゃダメだろうなぁって思ったりとかね」
「……テニスとか?」
「テニス?」
じっと黙り込んでいた雫さんが不意に発した言葉が「テニス」だったことに驚いたのもあるけれど、どちらかと言うと僕の発言を聞いていて答えを見つけ出そうとしてくれていたことに驚いた。それにしても、何でテニスなんだろう。聞いてみよう。
「何でテニス? 僕、スポーツとかあんまりしたことないよ」
「何をしている先生が一番カッコいいかなーって考えた答えがテニスでした! もちろん見たことはないしイメージでしかありませんけど、サーブを打った後のヘソチラとかがすごく萌えそうなので!」
ほぼ彼女の性癖のような理由でテニスが選ばれたが、納得するわけもなく彼女の酔いが順調に進んでいることだけが分かった。てか、せめてラケット握ってる姿とかにしてほしかったな。何だ、ヘソチラって。初めて聞いたわ。
「テニスとかできる体力、僕にあると思う?」
「もちろん皆無ですよね!」
「……」
こんなに即答する雫さんは、本当に何でテニスって言ったんだ。逆にこっそり練習してめちゃくちゃ上手くなったところを見せつけてやろうかと火がつきそうになったけど、多分やらないだろうな。
「あ、わりと真剣にオススメできる趣味ありました! これなら先生の体にも普段はかからないし、何となく先生には似合いそうな気もします」
「え、なになに? そんな趣味ある?」
「ふふ……! 小説です!」
「小説?」
ドヤ顔で僕を見つめる雫さんは、ふわふわとした足取りで踊るようにテレビの元にある文庫本を持ってきて僕の手元にそれを置いた。タイトルは『吾輩は時々、黒猫である。』と書かれている。何かこんなタイトルの有名作品が学生の頃、授業で習ったことがある気がするけど。
「読書はあんまり得意じゃないなぁ。しかもこの本って、結構昔の文章が使われてるような本じゃないの? タイトルが国語の授業で聞いたことあるんだけど」
「あはは! それ、違う作品ですよ! タイトルだけオマージュしてあって、物語や文章はしっかり現代の作品ですよ。先生、国語はあんまり得意じゃなかったんでしたっけ?」
「正直、あんまり覚えてないんだよね。だからこの歳になって本を読むのが面白いと思えるか自信は無いんだよ。細かい字が見えなかったりするかもしれないしね」
雫さんが酔った足取りで紹介してくれた趣味候補を否定するわけじゃないけれど、僕は自分が本を読んでいる姿をイメージすることが到底できない。彼女は似合うかもって言っているけれど、それも彼女の性癖目線だろうか。
「細かい字はいつも仕事で見てるでしょ!? ほら、先生! まずは騙されたと思って冒頭だけでも読んでみてくださいよ。私もそんなに本は詳しくないですけど、この作家さんの本は読んでいて心が落ち着くし、すぐに続きを読みたくなるので好きなんです。ほら!」
彼女はそれを手に取ってほしくてたまらないと言いたげな目で僕をじっと見つめている。まぁ実際、僕が言い出しっぺだけれど。雫さんには悪いが今はそれよりも頭の中はビビンバになっていた。
「ありがとう。じゃあとりあえず、これを食べてから読んでみるよ。焼き過ぎるとおこげがおこげじゃなくなっちゃうかもしれないからさ。ほら、雫さんの方も放置しすぎじゃない? 椅子、座りなよ」
「あ、忘れてた! あぁ、焦げてるー! 真っ黒だー!」
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。某大学の芸術学部でクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。かつての同級生の不審死。消えた犯人。屋敷のアトリエにナイフで刻まれた無数のXの傷。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の六人は、大学時代にこの屋敷で共に芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。グループの中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる