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第1章 麻倉 斗和
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「そろそろ来る時間だと思うんだけどな」
「カケルさんっていつも15分ぐらい前には来てくれてますよね?」
「そうそう。僕と違って時間はきっちり守る人だからね」
ヘラヘラと笑って言った僕の言葉がスイッチになったのか、電源が入ったように雫さんが本当ですよと、急に大きな声で僕を煽る。彼女はそんなつもりがないのかもしれないけれど、僕には間違いなくそう聞こえた。
「カウンセリングの時間は超えてしまうし、私の時間外の業務も増やすし、クライアントの心をドキドキさせるようなことを平気で言うし!」
「え? 何? 雫さん急にどうしたの?」
喉元のストッパーが壊れたのか、僕に対する愚痴をここぞとばかりに叫ぶ彼女はテーブルから勢いよく立ち上がった。ガタンと椅子が雫さんの声に負けないぐらい大きな音を立てた。こんな癇癪のような感じで僕に言葉をぶつける雫さんを見るのは正直初めてだ。
「少しは先生もカケルさんのことを見習ってほしいんですよ!」
「師匠を? 僕はいつだって師匠を尊敬してるし、あの人みたいになりたいなって思ったりしてるけど?」
「先生がカケルさんみたいに優しいのは分かってます! 見習ってほしいのはそこじゃないです! 計画性を持った行動をしてほしくてですね……!」
「計画性?」
「先生なら私が言わなくても分かると思いますけど……!」
ガチャン。雫さんの声を遮るようにドアの開く音がして部屋が静かになった。ドアを開けたのは他でもない。今の今まで言葉の応酬で僕らの話題になっていた僕の師匠、西島カケルさんだ。相変わらず、一度見ただけで分かる優しい垂れ目だ。ふわっとしたパーマでクルクルしている茶髪が、彼の優しい雰囲気を一層際立たせているように見える。
「おはよう。朝から仲良いね。キミたち」
「おはようございます。師匠。ようこそ、Tsukakokoへ」
「おはようございます。カケルさん! ようこそ! Tsukakokoへぇー! って仲良くないですよ!」
その垂れ目をさらに垂れさせてふにゃっと笑うカケルさんは以前に会った時よりも髪が伸びていて、襟足が肩につくぐらいまでになっている。それでいても、綺麗にセットされている髪の毛がボーイズグループのタレントのようにかっこよかった。
「朝からそんなに言い合い出来るのは仲の良い証拠だよ。それに、口喧嘩できる相手がいるのは、そもそもとっても素敵なことだからね」
「師匠。僕は言い合ってないよ。雫さんが叫んだことがどういう意味なのか質問したかっただけなんだけど」
「そうですよ! 私が一方的に話してただけですよ! 先生はいつも通り飄々とスマホを触ってただけですから。口論になったのは私が原因です」
「あはは。雫ちゃんはいつだって元気だからね。斗和もそういうところを気に入ってるんだよ。な? 斗和」
「え? 僕が彼女の好きなところはクライアントのことを第一に考えてくれるところであって……」
「オッケー。斗和、雫ちゃん。今日もよろしく頼むよ」
僕が雫さんの説明をしていると、それを遮るように師匠が微笑みながら手を叩いて一番上に来ていた紺色のチェスターコートを脱いだ。師匠はテレビに映っているタレントよりもタレントのような体型をしている。相変わらず体の半分以上ありそうなほど細い足が華奢ながらもその存在をしっかりと強調している。
「ん? どうしたの? 斗和」
「い、いや。何でもないよ。さ、師匠。コート預かるよ」
「あぁ、ごめんね。ありがとう」
「師匠。今日のプランはウチに来てから決めるってことだったけど、どうしようか?」
「あ、そうだったね。じゃあ今日は下半身を中心にマッサージをしてもらうのと、ヘッドスパを雫ちゃんにやってもらおうかな。あとは、アフターカウンセリングってことで、終わりの数分を世間話してもらえればってところかな。時間内にいけそう?」
そう言って僕を見つめる師匠は、僕よりも歳上なのにそれを感じさせない幼さというか、無垢というか、好奇心を抱く少年のような眼差しを向けてくる。高校生の娘がいるなんて絶対に想像できない。そんな師匠の目を見つめ返して僕は首を縦に振った。
「もちろん。じゃあ師匠のご要望に沿ったプランでさせてもらうね。ジャージを用意するからそれに着替えてストレッチマットに仰向けで寝てもらってていいかな」
「はーい。ありがとう。ジャージ、ごめんね。持ってくるの忘れちゃってさ」
「ううん。気にしないで。むしろ、新しいジャージが入ったから師匠に着てもらって着心地を教えてほしい」
「お、そうなんだ。いいね。ぜひぜひ」
「ではカケルさん。こちらがそのジャージです」
「ありがとう雫ちゃん。ほぉ、これが。確かに新品の匂いがするね」
ふふんと両手に抱えているジャージを楽しげに匂いを嗅ぐ師匠は、軽やかな足取りで更衣室の方へ歩いて行った。師匠はいつも着替えるスピードが鬼のように速い。今日もドアを閉めて10秒以内に出てきたのではないだろうか。師匠は嬉しそうにジャージを着てそこから出てきた。全身真っ黒のジャージに羊のワンポイントロゴマークが入っただけのシンプルなデザインなのに、師匠がそれを着ると、たちまちファッション誌に映るモデルみたいに着こなしてしまう。雫さんもうっとりした顔で師匠を見つめている。まぁ、男の僕でも気持ちはとても分かる。
「めっちゃいいじゃん。新しいジャージ。着心地もフワフワで気持ちいいし、ちょっとダボッとしたサイズ感が今っぽいし。何かやたら気に入っちゃったよ。これを発注したのは斗和?」
「ううん。ウェア関連は全部雫さんに任せてるんだ。僕よりも圧倒的にセンスがあるからね」
「カケルさんが着ると、芸能人みたいに見えますね」
「はは。そんなこと言われたら調子乗っちゃうよ。でも、ありがとう。じゃあ、そろそろマッサージしてもらおうかな」
「そうだね。じゃあ早速、下半身のマッサージから始めさせてもらうね」
「うん。よろしく」
師匠の右足を軽く持ち上げた瞬間、これはなかなかの強敵だと師匠のその足から伝わってきた。僕はパーカーの袖をいつもより捲って師匠の疲れが溜まっている筋肉の部分に触れた。僕の親指を拒むように筋肉が張っている。これは、うん。難しいな。
「あいててて。やっぱりそこ、凝ってるよね」
「うん。何て言うかな、ケアはしてもらってると思うんだけど、どうしても溜まってしまう疲れが溜まる場所に蓄積していってるみたいな状況だね」
「そうなんだよ。風呂上がりとかさ、寝る前とかにストレッチとか自分でマッサージしたりしてるんだけどね。どうにも硬くなっちゃうんだよね。足の筋肉って」
「あと、師匠は人より足に疲れが来やすいタイプだから尚更だね。特にここ、ふくらはぎの……」
「いててて! ちょっと……! 急にめっちゃ痛いから!」
「あはは。ごめんごめん。けど僕、あんまり力入れてないよ」
「嘘でしょ……? グリってやったろ、指の骨で……! おぉう……! ってなったから! 一瞬!」
「ごめんごめん。ある程度は押した。でも徐々にほぐれてくるから」
弱目の指圧でぐりぐりとしばらく押していると、パンパンに膨れ上がっていた筋肉の風船みたいになっていた師匠のふくらはぎが少しだけ萎んだように見える。というか、右足と左足を比べるとだいぶ違う。効果がすぐに出るのも師匠のような体の人の体質だ。
「あれ? ほんとだ。さっきより力入れてるよね? 今」
「うん。けっこうぐりぐりしてる。何なら肘でしてるけど全然でしょ?」
「あぁ。全然大丈夫だ。むしろ、ちょっと気持ちいいかも」
「良かった良かった。順調にほぐれてるよ。師匠の右足。ちょっとだけ両足上げられる?」
「ん。お、おぉ!? ほんとだ。持ち上がり方が全然違う! 右足だけおれのじゃないみたいだ」
毎回マッサージの効果を実感してくれる師匠は、いつも驚いたように目と声が大きくなるけれど、今回もいつものように驚いた様子で右足を撫でるように触れている。こういう愛嬌というか無邪気な反応を見せるところが、師匠らしくて僕は昔から好きだ。
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