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【短編】
ほんとうの名前
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ピーという口笛の音に、騎士団の建物の中にいた真っ黒い仔犬はピンと耳を立て、ジェラルドの腕の中から飛び出して駆けていく。
外から聞こえたその口笛の音に、彼は呼ばれているのだ。
それはいつものことだった。
週に、一回程度、その少年は王宮にある近衛騎士団の建物のそばにやって来て、口笛を吹いて仔犬を呼ぶ。
その口笛の音を聞くと、仔犬はまっしぐらに外に向かって走り出してしまう。
仔犬と少年は、建物から少し離れた芝生の上で、会っている。
いつもジェラルドにべったりとくっついて離れない仔犬は、その時ばかりは別で、呼ばれればそちらに行ってしまうのだ。それがなんとも……ジェラルドにとって不愉快であった。
(あいつは一体何なんだ)
王宮の中に現れるということは、王宮への出入りを許されている貴族の一員なのだろう。
実際、少年は現れる度に、上品な服をまとっていた。流行の型もきちんと押さえているシンプルなそれは、到底平民が身に付けられるものではない。白い靴下に黒の革靴を履き、ここ最近は気温も低くなっているせいか、これまた立派な外套も羽織っている。
真っ黒い髪に茶色の瞳の端正な顔立ちの少年の姿は、誰かを彷彿させた。
それが思い出せそうで、思い出せない。
(記憶のどこかにあるということは、会ったことのある貴族の誰かなのだろう)
少年は仔犬が好きなのだろう。抱きしめて撫で回している。
黒い仔犬も嬉しそうに、彼の頬を舐めていた。
(近づいて、よく見ればわかるかも知れない)
ジェラルドは、建物を出て芝生の上で仔犬と遊んでいる様子の少年に近づいていった。
「おい、ディーター、やめろよ。くすぐったいな」
クスクスと笑いながら、少年は仔犬と遊んでいる。
草にまみれることも厭わずに、子供のように戯れている。
「ディーター、あまり舐めるなよ」
(ディーター?)
何度も少年は仔犬のことを、ディーターと呼んでいた。
そして、ジェラルドが近づいていることに気が付くと、ムクリと芝生の上から起き上がり、仔犬に向かって「ほら、お迎えが来たぞ」と言った。
途端、黒い仔犬は勢いよくこちらに向かって走り、地面を蹴ってジェラルドの胸の中に飛びこんだ。
それを見て、少年は立ち上がり、体についた草を手で払っていた。
「じゃあな、ディーター」
そのままあっさり立ち去ろうとする少年に、ジェラルドは声を掛けていた。
「君、なんでいつもディーターとこの子のことを呼ぶのさ」
それに、少年は足を止めた。
少しだけ困った顔をしている。
「……なんとなく?」
「…………この子もディーターと呼ばれても、反応するみたいだし。だけど、この子は、ナイツと言うんだよ」
「そうみたいだね」
そう言えば、以前、王立騎士団のバーナード騎士団長も仔犬のことをディーターと呼んでいた。
そこでふいに、閃いた。
この少年は、雰囲気といい、顔立ちといい、あのバーナード騎士団長とよく似ているのだ。
「君は、もしかして、バーナード騎士団長のご親族なのかい?」
その問いかけに、腕の中の黒い仔犬が「ゲホ、グホ」と何故か激しく咳き込んでいて、それを見た少年が苦笑いをしていた。
「……まぁ、そうだね。遠い親戚みたいなものだ」
「そうなのか……」
バーナード騎士団長には、先日、大雨の時に助けてもらった恩がある。それなのに、親戚だというこの少年を今までどこか邪険に扱っていたことを申し訳なく思った。
「君の名前を聞いてもいいかい」
「バートだ」
短く答える。下の名だけを告げ、姓を告げることはしない。
言いたくない、詮索されたくない空気を感じ取ったジェラルドは、そのことにそれ以上突っ込まなかった。
「バートは、この犬のことをよく知っているの?」
まさか、この仔犬の飼い主だったのではないかという疑問が脳裏を横切った。
仔犬が近衛騎士団の建物に迷い込んで来た時、仔犬は首輪をしていたのだ。
飼い主を探したが、あの時は名乗り出て来なかった。
ディーターと呼んで、随分と慣れた様子で仔犬のことを可愛がっているバート少年が、飼い主だと名乗り出てもおかしくはなかった。
しかし、バートは否定した。
「知っているような、知っていないようなだな。可愛いから会いに来ているだけだ」
「そう」
少しだけ、それにホッとしていた。
仔犬の飼い主が現れて、仔犬が連れて行かれる危惧がどうしてもあったからだ。
その後、バート少年はさっさとその場を後にする。
消えていくその背中を見送りながら、やはり不思議な思いがあった。
知っているような、知っていないようなと言いながらも、仔犬のことをディーターと呼んでいた。
ジェラルドは仔犬の目を見て尋ねるように言った。
「お前、本当の名前はディーターと言うのか?」
そう問いかけると、仔犬は「ワン」と吠えて返事をする。
「……そうか」
それ以来、ジェラルドも仔犬のことをナイツではなく、ディーターと呼ぶようになった。
それに、ディーターは変わらず嬉しそうに尻尾を千切れんばかりに振って、ワンと返事をするのだった。
外から聞こえたその口笛の音に、彼は呼ばれているのだ。
それはいつものことだった。
週に、一回程度、その少年は王宮にある近衛騎士団の建物のそばにやって来て、口笛を吹いて仔犬を呼ぶ。
その口笛の音を聞くと、仔犬はまっしぐらに外に向かって走り出してしまう。
仔犬と少年は、建物から少し離れた芝生の上で、会っている。
いつもジェラルドにべったりとくっついて離れない仔犬は、その時ばかりは別で、呼ばれればそちらに行ってしまうのだ。それがなんとも……ジェラルドにとって不愉快であった。
(あいつは一体何なんだ)
王宮の中に現れるということは、王宮への出入りを許されている貴族の一員なのだろう。
実際、少年は現れる度に、上品な服をまとっていた。流行の型もきちんと押さえているシンプルなそれは、到底平民が身に付けられるものではない。白い靴下に黒の革靴を履き、ここ最近は気温も低くなっているせいか、これまた立派な外套も羽織っている。
真っ黒い髪に茶色の瞳の端正な顔立ちの少年の姿は、誰かを彷彿させた。
それが思い出せそうで、思い出せない。
(記憶のどこかにあるということは、会ったことのある貴族の誰かなのだろう)
少年は仔犬が好きなのだろう。抱きしめて撫で回している。
黒い仔犬も嬉しそうに、彼の頬を舐めていた。
(近づいて、よく見ればわかるかも知れない)
ジェラルドは、建物を出て芝生の上で仔犬と遊んでいる様子の少年に近づいていった。
「おい、ディーター、やめろよ。くすぐったいな」
クスクスと笑いながら、少年は仔犬と遊んでいる。
草にまみれることも厭わずに、子供のように戯れている。
「ディーター、あまり舐めるなよ」
(ディーター?)
何度も少年は仔犬のことを、ディーターと呼んでいた。
そして、ジェラルドが近づいていることに気が付くと、ムクリと芝生の上から起き上がり、仔犬に向かって「ほら、お迎えが来たぞ」と言った。
途端、黒い仔犬は勢いよくこちらに向かって走り、地面を蹴ってジェラルドの胸の中に飛びこんだ。
それを見て、少年は立ち上がり、体についた草を手で払っていた。
「じゃあな、ディーター」
そのままあっさり立ち去ろうとする少年に、ジェラルドは声を掛けていた。
「君、なんでいつもディーターとこの子のことを呼ぶのさ」
それに、少年は足を止めた。
少しだけ困った顔をしている。
「……なんとなく?」
「…………この子もディーターと呼ばれても、反応するみたいだし。だけど、この子は、ナイツと言うんだよ」
「そうみたいだね」
そう言えば、以前、王立騎士団のバーナード騎士団長も仔犬のことをディーターと呼んでいた。
そこでふいに、閃いた。
この少年は、雰囲気といい、顔立ちといい、あのバーナード騎士団長とよく似ているのだ。
「君は、もしかして、バーナード騎士団長のご親族なのかい?」
その問いかけに、腕の中の黒い仔犬が「ゲホ、グホ」と何故か激しく咳き込んでいて、それを見た少年が苦笑いをしていた。
「……まぁ、そうだね。遠い親戚みたいなものだ」
「そうなのか……」
バーナード騎士団長には、先日、大雨の時に助けてもらった恩がある。それなのに、親戚だというこの少年を今までどこか邪険に扱っていたことを申し訳なく思った。
「君の名前を聞いてもいいかい」
「バートだ」
短く答える。下の名だけを告げ、姓を告げることはしない。
言いたくない、詮索されたくない空気を感じ取ったジェラルドは、そのことにそれ以上突っ込まなかった。
「バートは、この犬のことをよく知っているの?」
まさか、この仔犬の飼い主だったのではないかという疑問が脳裏を横切った。
仔犬が近衛騎士団の建物に迷い込んで来た時、仔犬は首輪をしていたのだ。
飼い主を探したが、あの時は名乗り出て来なかった。
ディーターと呼んで、随分と慣れた様子で仔犬のことを可愛がっているバート少年が、飼い主だと名乗り出てもおかしくはなかった。
しかし、バートは否定した。
「知っているような、知っていないようなだな。可愛いから会いに来ているだけだ」
「そう」
少しだけ、それにホッとしていた。
仔犬の飼い主が現れて、仔犬が連れて行かれる危惧がどうしてもあったからだ。
その後、バート少年はさっさとその場を後にする。
消えていくその背中を見送りながら、やはり不思議な思いがあった。
知っているような、知っていないようなと言いながらも、仔犬のことをディーターと呼んでいた。
ジェラルドは仔犬の目を見て尋ねるように言った。
「お前、本当の名前はディーターと言うのか?」
そう問いかけると、仔犬は「ワン」と吠えて返事をする。
「……そうか」
それ以来、ジェラルドも仔犬のことをナイツではなく、ディーターと呼ぶようになった。
それに、ディーターは変わらず嬉しそうに尻尾を千切れんばかりに振って、ワンと返事をするのだった。
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