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1巻
1-3
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だって仕方ないよね。美味しいものを前にして猫をかぶるような真似はできないもの。酒を嗜み、大人であることの歓びを素直に出せる飲み友達がいるのって、本当に最高だ。
「俺、彩乃の食べてるところを見るだけで、酒が進む」
「いや、おでんも食べてよ。大根も見てほら、この染みっぷり」
そうしてまた冷酒をぐびりと一口。十月の第三週、秋といいつつまだまだ残暑が続いている。おでんのような温かい食べ物にきりっと冷えた日本酒の組み合わせが、最高にハマる季節だ。これ、冬になってもっと寒くなれば燗酒もいい。
「寒くなってからまた来たいな、ここ」
「いいよ。来よう」
「やったー」
冬のおでん会もこれで開催が決まった。上機嫌の私を眺めながら、瑛士が冷酒を飲んでいる。その表情が楽しそうだ。こういう、お互いに楽しい気持ちでいるのが心地いい。
「そういえば、また映画を観に行かないか?」
思い出したようにそう言うと、瑛士がスマホで特設サイトを開き、画面を私に見せた。
「ミュージカルの映画化だって。最近、宣伝がよく流れてくる」
「ミュージカル?」
瑛士とミュージカルが結びつかなくて、聞き返す。それからすぐに、理解した。
「そっか。体感型の次は音響特化型で映画を観たいって、言ってたもんね」
どれどれと身を乗り出して画面を見る。有名な賞をとったミュージカルのようで、待望の映画化を果たした話題作だった。その手のジャンルに疎い私はあらすじを把握してないけど、ヒロインが歌っている場面はよくCMで目にしていた。ワンフレーズだけなら私でも歌えるくらいだ。
「来週、もし予定が入ってなければ、どう?」
誘う瑛士の雰囲気がこちらの様子を窺っているようで、ついくすっと笑ってしまった。
一ヶ月前の再会直後、瑛士からのお誘いにことごとく渋い対応をしたせいか、角打ち以外のお誘いのハードルが上がってしまっている気がする。
「うん。週末も特に予定入っていないから大丈夫だよ。じゃあ、来週の土曜日ね」
「よかった。ありがとう」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
なぜか二人でありがとうを言い合って、来週の予定が決まった。
そして当日──
映画館の中、主題歌が流れるエンドロールを眺めながら、私は眉間に力を込めつつ心の中でつぶやいた。
しまった。しくじった。
まさかの泣ける話だった。主人公の成長物語。宣伝では泣ける要素など一つも匂わせなかったのに、親友との友情だの葛藤だの、まさかと思う場面で感動して涙がこみ上げてきてしまった。これ、油断して泣いたら涙が止まらなくなるやつだ。
ゼロか百かの瀬戸際に立たされた気持ちで、ひたすら眉間に力をこめる。そうしてやり過ごすうちにエンドロールも終わり、場内が明るくなった。
「……ねえ、彩乃。気のせいかもしれないけど、なんかもの凄い真剣にスクリーンを睨みつけてた?」
立ち上がりながら眼鏡姿の瑛士が私に話しかける。
手にはポップコーンの空き箱。前回の反省からSサイズを買ったので、完食済みだ。
「睨んでないよ。泣かないように眉間に力込めてただけ」
「……なんでそんな努力を?」
呆気にとられたように聞き返し、こちらの顔を覗き込む。そんな瑛士の視線から逃れるように反対の方向に向くと、私も立ち上がり歩き出した。
「映画を観て泣くのは、一人のときだけにしたいから」
「人と一緒にいるときは泣かないんだ。なんで?」
「なんで、って、……気を遣わせたくないから」
自分にとって当たり前の感覚を人に問われると、戸惑ってしまう。逆に瑛士からしたら、私の考えの方が珍しかったらしい。疑問符を頭に浮かべたような表情で、さらに問いを重ねてきた。
「映画で感動して泣くのってストレス発散にもなるし、感受性が豊かな証拠でもあるから、別に良いんじゃないのかな」
「ちょっとだけならね。でもこの映画、一度涙腺が決壊したらずっと泣き続けてしまいそうだったもん」
「うん?」
「隣で同行者がずっと泣いていたら、気が散っちゃわない? せっかくの映画鑑賞を自分の涙でぶち壊すようなことはしたくないよ。それに私も、泣くほど物語の世界に入り込むのは一人のときだけにしたいし」
特に相手があなたのような魅力的な男性ですとね、安易に涙なんか見せられないんですよ。
と言いたくなって、ついチラリと瑛士を見上げてしまった。
「ん?」
「なんでもない」
速攻で視線に気付かれ、またもや覗き込まれてしまったので、慌てて視線をそらす。くそう、やっぱりいい男だなぁ、瑛士。
元同級生、そして今は仲の良い飲み友達として良好な関係を続けられているけど、男女間の友情って難しい。だからこそ、配慮しなくちゃならないことがあると私は思っている。特に意識しているのが、相手に甘えすぎないこと。
媚を売らない、と言い換えてもいいかもしれない。
だってこんな人たらしのイケメン、油断したら際限なく頼ってしまいそうになる。瑛士は以前、自分に強請ってほしいと言っていたけど、少しでも気を許したら対等な関係ではなくなってしまう気がする。
私が望んでいるのは、穏やかな友情。親しき中にも礼儀ありだ。
素の自分は出すけど、頼りすぎず、甘えすぎず、適度な距離感でもって接していたい。たとえ感動からくるものだとしても、涙は距離感を乱すから不要だと思う。
「なんかさ、そうやって必死に泣くことを拒否している姿を見ると、逆にこっちのやる気が刺激されるよね」
「やる気?」
不穏な言葉に驚いて、そらした視線を戻してしまった。
「彩乃の泣いた顔が見てみたい」
ニヤリと笑う瑛士の顔につい見惚れ、しばらく動きが止まってしまう。そしてはっと我に返り、慌てて頭を振った。
「絶対、嫌」
きっぱりと言い切って、瑛士を軽く睨みつける。
案の定、瑛士は私を見つめたまま、くつくつと笑い出した。ちょっと待って、私からかわれてる?
「いつか見たいな、彩乃の泣き顔」
「見せませんー」
「なんで? 見せてよ」
「ってか、なにこれ。小学生の会話?」
めちゃくちゃ低レベルな会話をしているのに、瑛士と話しているうちに心が浮き立ってくる。まさか三十路を過ぎたところで、こんなに学生ノリで楽しく話せる相手が現れるとは思わなかった。瑛士のからかうような愉快な表情がそのまま私にも移り、くすくすと笑いだしてしまう。
でも、これでよかったかも。眉間に力をこめなくても、もう涙は消えている。
「そうだ。このあと、ご飯食べに行くよね?」
他愛のない話をしながら映画館を出て、どちらに行こうかと思ったところで私はあることを思い出した。
「彩乃さえよければ」
「もちろん行くよ。でもその前にちょっと付き合ってくれない? プレゼント買いたくて」
「プレゼント? 誰かの誕生日とか?」
「当たり。友達にあげたいの」
うなずいて、繁華街の道をぐるりと見回した。
彼女が欲しがっていたのは良い匂いのするちょいお高めの、有名なハンドクリーム。都内を中心にショップ展開をしていて、この付近にも店舗があったはず。どこだったかな。スマホで調べようかと思ったけど、瑛士なら知っているかと思って試しに聞いてみた。
「ああ、その店なら確かこっちにあったはず」
あっさりとうなずいて案内してくれる。
「さすが手慣れていらっしゃる」
「どういう意味だよ」
「過去に何人もの女の子にプレゼントしたこと、あるんだろうなって」
からかうつもりでそう言ったら、なぜかこの話には乗ってくれずに渋い顔をされてしまった。
「もしかして触れたくない過去だった?」
ちょっと踏み込みすぎたかなと反省して、聞いてみる。途端に頭を振って否定された。
「そうじゃなくて、まんま当てられてしまうような分かりやすいことをしてたんだなってなんか恥ずかしくて」
「そっちか」
「まあでも」
ふっと息を吐いて、瑛士が小さくうなずく。
「お陰でこうして、彩乃の役に立ってるしね」
あれ? なぜか満足そうな表情をされていますけど。
「確かに、出発点が商品券で、そこから化粧品まで来たのは成長の証。……かな?」
「女性って、ああいうちょっとしたもの贈ると喜ぶよね」
営業か? 営業活動なのか? これ、恋愛の話じゃないよね。
ここまで来ると瑛士の人付き合いの隙のなさに感動して、小さく『おおー』と言ってしまった。が、ともかく私の友達に誕生日プレゼントを買うべく、店に入る。
久し振りに訪れたハンドクリームのお店は、素敵な香りに満ちていた。
いや、ハンドクリーム専門店ってわけじゃないんだけど、自分の目的とする商品がそれだからつい。
「種類がありすぎて、これは迷いそうだね」
店内をざっと見回して、瑛士が客観的な感想を述べる。その隣で私は無言で身もだえていた。なにこの可愛い商品の数々。全てが魅力的で目移りしてしまう。
最近、こういうお店に入ることがめっきり少なくなっていた。たまに来るとやっぱりテンション上がるなぁ。自分の中の乙女心が潤っていく気がする。
「彩乃はどんなのが好み?」
ごく自然に試供品を手に取り、香りを嗅ぎながら瑛士が聞いてくる。なんだか店員さんのようだ。
「どれも可愛いけど、どれが好みとか言えるほどの思い入れはないかな」
「フローラル系とか、シトラス系とか」
「どっちもいい匂いだよねー」
軽く流して、目の前のボディローションのボトルを手に取り蓋を開ける。うん、いい香り。
「彩乃は、こういうのが好きそうかな」
隣のボトルの匂いを試していた瑛士がいたって真面目な表情で、勧めてきた。せっかくなので嗅いでみると、これもいい香り。お花お花していない、石鹸とかお風呂っぽい匂い。
「ああ、確かに。これ好き」
うなずいたけど、それを手に取ることはなく別の商品に意識を向けた。
「好みじゃなかった?」
「ううん。匂いは好みだけど、今日は友達のプレゼントを探してるから」
「そうだった」
うなずきながらも、まだほかのボトルも嗅いでいる。そんな瑛士の姿を見て、ふと数年前の自分のことを思い出してしまった。
「──自分の好きな香りと、他人がイメージする自分の香りって違うときがあるよね」
「どうしたの? 誰かにそう言われた?」
「いや、身近にコロンをつける人がいたんだけどね、なんかいつも違和感で……」
「……ふうん」
なぜか淡々とした口調で返されてしまった。
あれ?
「なんか私、変なこと言った?」
「いや。ただ、コロンってオーデコロンだろ。なに? 元カレ?」
うわ。鋭い。
思わずのけぞりそうになったけど、すぐに開き直った。男友達に昔の男の話を聞いてもらうのも、たまにはいいだろう。どうせ済んだ話だ。
「営業職の人だったんだけど、香りへのこだわりが強くてね。有名どころのフレグランスを気に入ってつけてたんだ。でも毎日同じものをつけてると、鼻が慣れてくるんだろうね。そのうち隣にいるとはっきり匂うくらいにつけるようになって」
「営業職なのに?」
「あ、うん。相手に自分を印象付けるには、まずは香りからってよく言ってた」
匂いって不思議だ。語るとそれまで忘れていたあの匂いの記憶が蘇る。
「スパイシー系の男性っぽさが強調されるような香りが好きで、必ずそういうのを選んでた。でも本人の見た目はもっと線が細くて優しい感じで、愛嬌の良さで仕事をとってくる人だったの。だから、なんでいつもこれを選ぶのかなって、疑問というか、不思議で……」
彼に別れを切り出されてから、早三年。もうすっかり忘れたつもりでいたけど、きっかけを与えられると記憶って簡単に蘇るものなんだな。
「……もしかして彩乃の昔の男って、年下だった?」
目の前に並んでいるボトルを眺めながら、瑛士がゆっくりとした口調で聞いてくる。
「凄い。なんで分かるの?」
その通りだったので、驚いてしまう。推理小説に出てくる探偵みたいだ。プロファイリングだっけ? どうしてそれが分かったのか気になる。
その視線を受けてなのか、瑛士が苦笑した。
「自分が人からどう見られたいかっていう理想を香りに求めているんだろうなと思って。見た目に反した男らしい匂いを選んだというところになんか……若さを感じる」
気を遣ってなのか、瑛士は『若さ』とマイルドな言い方をしたけど、私の中では『幼さ』と変換された。
「今振り返ると、年下だからって舐められないように、私に対して気を張ってたんじゃないかなって思うよ」
同じようにボトルを眺め、当時の彼とのやり取りを思い出しながらつぶやくように言葉を返した。
同じ会社の総合職と派遣社員。彼から仕事を指示される立場だったし、そもそも社会に出てしまえば重視されるのは年齢ではなくて、その仕事での経験年数だと私は思っていた。
だから、たかが二歳の差で自分から年上ぶることなんか考えたこともなかったんだけど。
『年は下かもしれないけれど、アヤのことは俺が守るから』
付き合うようになって、抱きしめながらよく言われるようになった言葉。
あの頃はそれが嬉しくて、愛されているって実感して、結婚まで考えていたけど、冷静になってみると何から守られていたんだ、私?
『守る』と言っていた割には別れたときの放り投げっぷりがひど過ぎて、一生独身を決意するまでに至ったんですけど。
「あのときは気付かなかったり、気付かない振りをしていたりした違和感が、今になって見えてくることもあるんだね」
まさか香りからこんなことを振り返るとは思わなかった。ほうっと息を吐いて、自分の中の回想を終わらせる。
これ以上過去のことを考えてしまうと、暗黒界に落ちてしまいそう。危険、危険。
「さくっとプレゼント決めて、ご飯に行こう。辛いものが食べたいな。キムチとかスンドゥブチゲとかヤンニョムチキンとか。瑛士、韓国料理は大丈夫?」
「彩乃が香りに興味がないのは、その男のせいか?」
話を終わらせようとする私に対し、瑛士がさらに突っ込んで聞いてきた。なんか珍しいな、こういう瑛士。
まあせっかくなので、自分について振り返っても、いいかもしれない。
思い直して考えてみた。隣でキツめのコロンを付けてる彼氏がいて、さらに私までなにか匂いをさせる。それはしたくはないし、実際にやらなかった。
いや、元々フレグランスに興味がなかったのは……
「ご飯を食べるときに、それ以外の匂いって嗅ぎたくないから。かな」
直前までご飯のことを考えてしまったせいか、ついぽろっと言ってしまった。そして言った直後に我に返る。ご飯食べる以外のシチュエーションもあるでしょ、私。どんだけ食いしん坊なんだ。
慌てて瑛士を見ると、案の定笑いを堪えるように口元に手をやり、それからすぐに堪えきれずに笑い出した。
「ちょっと待って。違うの。多分、他にも理由はあるはず。今思いつかないだけで!」
「思いつかないんだ」
まずい。瑛士が肩を震わせてうつむいている。
これ以上店内で話を続けるのもどうかと思うので、笑い続ける瑛士を置いて、プレゼントを決めることに集中した。さすが女子が好んでプレゼントにしたがるブランドだけに、色んなギフトセットが取り揃えられている。その中から一番友達に似合いそうなのを見繕い、購入した。
「さあ、スンドゥブ食べに行こう!」
促して、外に出る。
「辛いのだけ? 焼肉は食べていいの?」
「もちろんいいよ。韓国料理っていったら、まずは焼肉でしょう」
「よし、焼肉。でも確かに、焼肉食いに行くのに香水の匂いしていたら魅力半減かも」
「まだそれ言う?」
ツボに入ってしまったのか、ずっと瑛士が笑っている。
なんでこんなことになってしまったんだか。
呆れつつも肩を並べて歩いて、そういえばと気になったことを聞いてみた。
「瑛士はなにか付けてたりしないの?」
「フレグランス?」
「うん」
毎回飲み食いのことしか考えていなかったから、瑛士の匂いとか気にしたことがなかった。でも過去に女の子に化粧品を贈ったこともあるみたいだし、これだけ熱心に私に似合う香りを選ぼうとしていたんだ。なにかしら香水の類を持っていそうな気はする。
「結構好きだよ。良い香りがすると気持ちいいよね」
「でも、匂わないよね」
「そう?」
反論する私を横目で見て、くすりと笑う。その表情がなぜか色っぽく思えてどきりとした。
「匂いって、近づいて初めて香るのが良いんじゃないかな」
「うん、まあ、確かに」
それに関しては異論がない。特に元カレで匂いについて嫌な思い出がある分、力強く肯定したい。
「俺の匂いがしないのは、彩乃がまだ俺と距離を取ってるからだよ」
「距離?」
「もっと俺に近づいてよ」
そう言うと、瑛士が立ち止まった。つられて私も立ち止まり、二人の距離を意識する。
歩幅で言ったら三歩くらい。お互いが一歩ずつ踏み込めば、そこに空いた隙間は一歩分。いつも私たちがキープしている空間だ。瑛士はその一歩を超えて、私に近づくように伝えている。
「ほら」
にこりと微笑むその目が、真っ直ぐこちらを射抜いていた。なぜか知らないけど、挑発されているみたいだ。
来るの? 来ないの?
そんな心の声が聞こえてきそうだ。そもそもなんでそういう話になったんだ? そんな急なのはちょっと、いや、絶対に――
「嫌」
短く言った拒絶の言葉に、瑛士がぽっかりと口を開けた。
「えー」
「人を試すような言動をする人には近づけません。からかうのはなしで!」
腰に手を当て、胸を張って説教する。気分は中学校に昔いた、怖くて有名だった教師だ。
「……彩乃にこの手は通じなかったか」
がっくりと肩を落とす瑛士を見て、笑ってしまった。近寄るようにと相手を誘うって、男女だと変な誤解が生まれてしまう。自重しないとね。
「今日は二回も拒否されてしまった」
「残念でした。でも友達同士は、そこまでくっついたりしないよ」
言いながら、一歩踏み出す。それを見て、合わせるように瑛士も歩き出す。
いつもの二人の間に存在する、一歩分離れた距離。瑛士ももう、それを無理に縮めるようなことはしない。
「この近辺で美味しい焼肉屋さん知ってる? 私検索しようか?」
「勘で入ってみるのもいいんじゃないかな」
いつものような会話に戻って、私は内心ほっとしていた。瑛士とは、この距離が良い。この距離でいたいんだ。
第三章
すっかり習慣となった隔週金曜日の角打ち。今日も仕事帰りにいつもの酒屋、『鈴木酒店』に寄っていく。
「こんにちはー」
気軽に挨拶をしながらお店に入ると瑛士はまだ来ておらず、別のお客さんが五人ほどカウンターで飲んでいた。男女の二人連れが一組と男性の一人客が三組。酒屋の中の一角にあるカウンターなので、これだけの組数でもほぼもう満席になってしまう。
「今日は混んでますね」
店主に声をかけると、カウンターの向こうから返事がきた。
「お陰様で。あ、ユウコちゃん、隣にお客さん入れてあげてくれるかな」
「いいわよー」
ユウコちゃんと呼ばれた女性が気軽にうなずいて、体をずらしてスペースを作ってくれる。
「どうもすみません」
会釈をすると、奥からひょいと連れの男性がこちらを覗き込んだ。
「いいよ。ちょうど帰るところだったし」
「そうそう。私も帰ってご飯作らなくちゃねー。ってことで鈴木君、お会計して」
お酒が入っているせいなのか、明るいテンションでテンポよく会話がつながっていく。常連客、というよりも地元の人なんだろうな。私よりも一回り上、四十代と思わしき近所の知り合い同士が、楽しく立ち呑みをしている雰囲気だ。鈴木君、と呼ばれた店主も慣れた様子で二人に軽くうなずき、会計をするのかと思いきや、伝票を持って私を見た。
「その前に、こちらのお客さんの注文聞いてからね」
場所に続いて注文まで譲ってもらうとは。恐縮してぺこりと頭を下げてから、メニューを見る。書かれているのは
日本酒グラス
日本酒飲み比べ三種
クラフトビール
の三種類のみ。あとはお水が欲しければペットボトルのお水を、ツマミが欲しければレジの横で売っている乾き物を、別途買うシステムだ。
「えーっと、いつもの飲み比べ三種で。あと、お水も」
「ありがとうございます。いま、お酒並べますね」
私の注文を聞いて伝票に書いて、そこで店主は初めて困ったように伝票と私を交互に見比べた。
「すみません。今更なんですが、……名前を伺っても?」
たしかに、それぞれの伝票を区別するには名前を書くのが一番だ。
「遠藤」
「あのね、私、ユウコ!」
「俺、コウタ!」
「いえーい!」
二人の息の合いっぷりに思わず噴き出してしまった。
「ごめんなさい。この二人、実は僕の同級生で」
困ったような顔で店主が説明し、納得した。だからユウコちゃん、鈴木君呼びなのか。
「鈴木君とは中学校が同じだったの。まさかあの頃は、こんな風に角打ちに通ってお酒を飲むようになるとは思わなかったけれどね」
「そうそう。大人になって新たに知る愉しみってあるよな」
幼馴染三人がニコニコとして語っている。その姿を見て、私も嬉しくなってきた。
「それすっごいよく分かります」
中学時代の同級生である瑛士と再会し、まさかの飲み仲間、遊び仲間になっている自分にとって、目の前のこの人たちは人生の先輩だ。瑛士とも、こんな感じでずっと続いていけるといいなぁ。
「俺、彩乃の食べてるところを見るだけで、酒が進む」
「いや、おでんも食べてよ。大根も見てほら、この染みっぷり」
そうしてまた冷酒をぐびりと一口。十月の第三週、秋といいつつまだまだ残暑が続いている。おでんのような温かい食べ物にきりっと冷えた日本酒の組み合わせが、最高にハマる季節だ。これ、冬になってもっと寒くなれば燗酒もいい。
「寒くなってからまた来たいな、ここ」
「いいよ。来よう」
「やったー」
冬のおでん会もこれで開催が決まった。上機嫌の私を眺めながら、瑛士が冷酒を飲んでいる。その表情が楽しそうだ。こういう、お互いに楽しい気持ちでいるのが心地いい。
「そういえば、また映画を観に行かないか?」
思い出したようにそう言うと、瑛士がスマホで特設サイトを開き、画面を私に見せた。
「ミュージカルの映画化だって。最近、宣伝がよく流れてくる」
「ミュージカル?」
瑛士とミュージカルが結びつかなくて、聞き返す。それからすぐに、理解した。
「そっか。体感型の次は音響特化型で映画を観たいって、言ってたもんね」
どれどれと身を乗り出して画面を見る。有名な賞をとったミュージカルのようで、待望の映画化を果たした話題作だった。その手のジャンルに疎い私はあらすじを把握してないけど、ヒロインが歌っている場面はよくCMで目にしていた。ワンフレーズだけなら私でも歌えるくらいだ。
「来週、もし予定が入ってなければ、どう?」
誘う瑛士の雰囲気がこちらの様子を窺っているようで、ついくすっと笑ってしまった。
一ヶ月前の再会直後、瑛士からのお誘いにことごとく渋い対応をしたせいか、角打ち以外のお誘いのハードルが上がってしまっている気がする。
「うん。週末も特に予定入っていないから大丈夫だよ。じゃあ、来週の土曜日ね」
「よかった。ありがとう」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
なぜか二人でありがとうを言い合って、来週の予定が決まった。
そして当日──
映画館の中、主題歌が流れるエンドロールを眺めながら、私は眉間に力を込めつつ心の中でつぶやいた。
しまった。しくじった。
まさかの泣ける話だった。主人公の成長物語。宣伝では泣ける要素など一つも匂わせなかったのに、親友との友情だの葛藤だの、まさかと思う場面で感動して涙がこみ上げてきてしまった。これ、油断して泣いたら涙が止まらなくなるやつだ。
ゼロか百かの瀬戸際に立たされた気持ちで、ひたすら眉間に力をこめる。そうしてやり過ごすうちにエンドロールも終わり、場内が明るくなった。
「……ねえ、彩乃。気のせいかもしれないけど、なんかもの凄い真剣にスクリーンを睨みつけてた?」
立ち上がりながら眼鏡姿の瑛士が私に話しかける。
手にはポップコーンの空き箱。前回の反省からSサイズを買ったので、完食済みだ。
「睨んでないよ。泣かないように眉間に力込めてただけ」
「……なんでそんな努力を?」
呆気にとられたように聞き返し、こちらの顔を覗き込む。そんな瑛士の視線から逃れるように反対の方向に向くと、私も立ち上がり歩き出した。
「映画を観て泣くのは、一人のときだけにしたいから」
「人と一緒にいるときは泣かないんだ。なんで?」
「なんで、って、……気を遣わせたくないから」
自分にとって当たり前の感覚を人に問われると、戸惑ってしまう。逆に瑛士からしたら、私の考えの方が珍しかったらしい。疑問符を頭に浮かべたような表情で、さらに問いを重ねてきた。
「映画で感動して泣くのってストレス発散にもなるし、感受性が豊かな証拠でもあるから、別に良いんじゃないのかな」
「ちょっとだけならね。でもこの映画、一度涙腺が決壊したらずっと泣き続けてしまいそうだったもん」
「うん?」
「隣で同行者がずっと泣いていたら、気が散っちゃわない? せっかくの映画鑑賞を自分の涙でぶち壊すようなことはしたくないよ。それに私も、泣くほど物語の世界に入り込むのは一人のときだけにしたいし」
特に相手があなたのような魅力的な男性ですとね、安易に涙なんか見せられないんですよ。
と言いたくなって、ついチラリと瑛士を見上げてしまった。
「ん?」
「なんでもない」
速攻で視線に気付かれ、またもや覗き込まれてしまったので、慌てて視線をそらす。くそう、やっぱりいい男だなぁ、瑛士。
元同級生、そして今は仲の良い飲み友達として良好な関係を続けられているけど、男女間の友情って難しい。だからこそ、配慮しなくちゃならないことがあると私は思っている。特に意識しているのが、相手に甘えすぎないこと。
媚を売らない、と言い換えてもいいかもしれない。
だってこんな人たらしのイケメン、油断したら際限なく頼ってしまいそうになる。瑛士は以前、自分に強請ってほしいと言っていたけど、少しでも気を許したら対等な関係ではなくなってしまう気がする。
私が望んでいるのは、穏やかな友情。親しき中にも礼儀ありだ。
素の自分は出すけど、頼りすぎず、甘えすぎず、適度な距離感でもって接していたい。たとえ感動からくるものだとしても、涙は距離感を乱すから不要だと思う。
「なんかさ、そうやって必死に泣くことを拒否している姿を見ると、逆にこっちのやる気が刺激されるよね」
「やる気?」
不穏な言葉に驚いて、そらした視線を戻してしまった。
「彩乃の泣いた顔が見てみたい」
ニヤリと笑う瑛士の顔につい見惚れ、しばらく動きが止まってしまう。そしてはっと我に返り、慌てて頭を振った。
「絶対、嫌」
きっぱりと言い切って、瑛士を軽く睨みつける。
案の定、瑛士は私を見つめたまま、くつくつと笑い出した。ちょっと待って、私からかわれてる?
「いつか見たいな、彩乃の泣き顔」
「見せませんー」
「なんで? 見せてよ」
「ってか、なにこれ。小学生の会話?」
めちゃくちゃ低レベルな会話をしているのに、瑛士と話しているうちに心が浮き立ってくる。まさか三十路を過ぎたところで、こんなに学生ノリで楽しく話せる相手が現れるとは思わなかった。瑛士のからかうような愉快な表情がそのまま私にも移り、くすくすと笑いだしてしまう。
でも、これでよかったかも。眉間に力をこめなくても、もう涙は消えている。
「そうだ。このあと、ご飯食べに行くよね?」
他愛のない話をしながら映画館を出て、どちらに行こうかと思ったところで私はあることを思い出した。
「彩乃さえよければ」
「もちろん行くよ。でもその前にちょっと付き合ってくれない? プレゼント買いたくて」
「プレゼント? 誰かの誕生日とか?」
「当たり。友達にあげたいの」
うなずいて、繁華街の道をぐるりと見回した。
彼女が欲しがっていたのは良い匂いのするちょいお高めの、有名なハンドクリーム。都内を中心にショップ展開をしていて、この付近にも店舗があったはず。どこだったかな。スマホで調べようかと思ったけど、瑛士なら知っているかと思って試しに聞いてみた。
「ああ、その店なら確かこっちにあったはず」
あっさりとうなずいて案内してくれる。
「さすが手慣れていらっしゃる」
「どういう意味だよ」
「過去に何人もの女の子にプレゼントしたこと、あるんだろうなって」
からかうつもりでそう言ったら、なぜかこの話には乗ってくれずに渋い顔をされてしまった。
「もしかして触れたくない過去だった?」
ちょっと踏み込みすぎたかなと反省して、聞いてみる。途端に頭を振って否定された。
「そうじゃなくて、まんま当てられてしまうような分かりやすいことをしてたんだなってなんか恥ずかしくて」
「そっちか」
「まあでも」
ふっと息を吐いて、瑛士が小さくうなずく。
「お陰でこうして、彩乃の役に立ってるしね」
あれ? なぜか満足そうな表情をされていますけど。
「確かに、出発点が商品券で、そこから化粧品まで来たのは成長の証。……かな?」
「女性って、ああいうちょっとしたもの贈ると喜ぶよね」
営業か? 営業活動なのか? これ、恋愛の話じゃないよね。
ここまで来ると瑛士の人付き合いの隙のなさに感動して、小さく『おおー』と言ってしまった。が、ともかく私の友達に誕生日プレゼントを買うべく、店に入る。
久し振りに訪れたハンドクリームのお店は、素敵な香りに満ちていた。
いや、ハンドクリーム専門店ってわけじゃないんだけど、自分の目的とする商品がそれだからつい。
「種類がありすぎて、これは迷いそうだね」
店内をざっと見回して、瑛士が客観的な感想を述べる。その隣で私は無言で身もだえていた。なにこの可愛い商品の数々。全てが魅力的で目移りしてしまう。
最近、こういうお店に入ることがめっきり少なくなっていた。たまに来るとやっぱりテンション上がるなぁ。自分の中の乙女心が潤っていく気がする。
「彩乃はどんなのが好み?」
ごく自然に試供品を手に取り、香りを嗅ぎながら瑛士が聞いてくる。なんだか店員さんのようだ。
「どれも可愛いけど、どれが好みとか言えるほどの思い入れはないかな」
「フローラル系とか、シトラス系とか」
「どっちもいい匂いだよねー」
軽く流して、目の前のボディローションのボトルを手に取り蓋を開ける。うん、いい香り。
「彩乃は、こういうのが好きそうかな」
隣のボトルの匂いを試していた瑛士がいたって真面目な表情で、勧めてきた。せっかくなので嗅いでみると、これもいい香り。お花お花していない、石鹸とかお風呂っぽい匂い。
「ああ、確かに。これ好き」
うなずいたけど、それを手に取ることはなく別の商品に意識を向けた。
「好みじゃなかった?」
「ううん。匂いは好みだけど、今日は友達のプレゼントを探してるから」
「そうだった」
うなずきながらも、まだほかのボトルも嗅いでいる。そんな瑛士の姿を見て、ふと数年前の自分のことを思い出してしまった。
「──自分の好きな香りと、他人がイメージする自分の香りって違うときがあるよね」
「どうしたの? 誰かにそう言われた?」
「いや、身近にコロンをつける人がいたんだけどね、なんかいつも違和感で……」
「……ふうん」
なぜか淡々とした口調で返されてしまった。
あれ?
「なんか私、変なこと言った?」
「いや。ただ、コロンってオーデコロンだろ。なに? 元カレ?」
うわ。鋭い。
思わずのけぞりそうになったけど、すぐに開き直った。男友達に昔の男の話を聞いてもらうのも、たまにはいいだろう。どうせ済んだ話だ。
「営業職の人だったんだけど、香りへのこだわりが強くてね。有名どころのフレグランスを気に入ってつけてたんだ。でも毎日同じものをつけてると、鼻が慣れてくるんだろうね。そのうち隣にいるとはっきり匂うくらいにつけるようになって」
「営業職なのに?」
「あ、うん。相手に自分を印象付けるには、まずは香りからってよく言ってた」
匂いって不思議だ。語るとそれまで忘れていたあの匂いの記憶が蘇る。
「スパイシー系の男性っぽさが強調されるような香りが好きで、必ずそういうのを選んでた。でも本人の見た目はもっと線が細くて優しい感じで、愛嬌の良さで仕事をとってくる人だったの。だから、なんでいつもこれを選ぶのかなって、疑問というか、不思議で……」
彼に別れを切り出されてから、早三年。もうすっかり忘れたつもりでいたけど、きっかけを与えられると記憶って簡単に蘇るものなんだな。
「……もしかして彩乃の昔の男って、年下だった?」
目の前に並んでいるボトルを眺めながら、瑛士がゆっくりとした口調で聞いてくる。
「凄い。なんで分かるの?」
その通りだったので、驚いてしまう。推理小説に出てくる探偵みたいだ。プロファイリングだっけ? どうしてそれが分かったのか気になる。
その視線を受けてなのか、瑛士が苦笑した。
「自分が人からどう見られたいかっていう理想を香りに求めているんだろうなと思って。見た目に反した男らしい匂いを選んだというところになんか……若さを感じる」
気を遣ってなのか、瑛士は『若さ』とマイルドな言い方をしたけど、私の中では『幼さ』と変換された。
「今振り返ると、年下だからって舐められないように、私に対して気を張ってたんじゃないかなって思うよ」
同じようにボトルを眺め、当時の彼とのやり取りを思い出しながらつぶやくように言葉を返した。
同じ会社の総合職と派遣社員。彼から仕事を指示される立場だったし、そもそも社会に出てしまえば重視されるのは年齢ではなくて、その仕事での経験年数だと私は思っていた。
だから、たかが二歳の差で自分から年上ぶることなんか考えたこともなかったんだけど。
『年は下かもしれないけれど、アヤのことは俺が守るから』
付き合うようになって、抱きしめながらよく言われるようになった言葉。
あの頃はそれが嬉しくて、愛されているって実感して、結婚まで考えていたけど、冷静になってみると何から守られていたんだ、私?
『守る』と言っていた割には別れたときの放り投げっぷりがひど過ぎて、一生独身を決意するまでに至ったんですけど。
「あのときは気付かなかったり、気付かない振りをしていたりした違和感が、今になって見えてくることもあるんだね」
まさか香りからこんなことを振り返るとは思わなかった。ほうっと息を吐いて、自分の中の回想を終わらせる。
これ以上過去のことを考えてしまうと、暗黒界に落ちてしまいそう。危険、危険。
「さくっとプレゼント決めて、ご飯に行こう。辛いものが食べたいな。キムチとかスンドゥブチゲとかヤンニョムチキンとか。瑛士、韓国料理は大丈夫?」
「彩乃が香りに興味がないのは、その男のせいか?」
話を終わらせようとする私に対し、瑛士がさらに突っ込んで聞いてきた。なんか珍しいな、こういう瑛士。
まあせっかくなので、自分について振り返っても、いいかもしれない。
思い直して考えてみた。隣でキツめのコロンを付けてる彼氏がいて、さらに私までなにか匂いをさせる。それはしたくはないし、実際にやらなかった。
いや、元々フレグランスに興味がなかったのは……
「ご飯を食べるときに、それ以外の匂いって嗅ぎたくないから。かな」
直前までご飯のことを考えてしまったせいか、ついぽろっと言ってしまった。そして言った直後に我に返る。ご飯食べる以外のシチュエーションもあるでしょ、私。どんだけ食いしん坊なんだ。
慌てて瑛士を見ると、案の定笑いを堪えるように口元に手をやり、それからすぐに堪えきれずに笑い出した。
「ちょっと待って。違うの。多分、他にも理由はあるはず。今思いつかないだけで!」
「思いつかないんだ」
まずい。瑛士が肩を震わせてうつむいている。
これ以上店内で話を続けるのもどうかと思うので、笑い続ける瑛士を置いて、プレゼントを決めることに集中した。さすが女子が好んでプレゼントにしたがるブランドだけに、色んなギフトセットが取り揃えられている。その中から一番友達に似合いそうなのを見繕い、購入した。
「さあ、スンドゥブ食べに行こう!」
促して、外に出る。
「辛いのだけ? 焼肉は食べていいの?」
「もちろんいいよ。韓国料理っていったら、まずは焼肉でしょう」
「よし、焼肉。でも確かに、焼肉食いに行くのに香水の匂いしていたら魅力半減かも」
「まだそれ言う?」
ツボに入ってしまったのか、ずっと瑛士が笑っている。
なんでこんなことになってしまったんだか。
呆れつつも肩を並べて歩いて、そういえばと気になったことを聞いてみた。
「瑛士はなにか付けてたりしないの?」
「フレグランス?」
「うん」
毎回飲み食いのことしか考えていなかったから、瑛士の匂いとか気にしたことがなかった。でも過去に女の子に化粧品を贈ったこともあるみたいだし、これだけ熱心に私に似合う香りを選ぼうとしていたんだ。なにかしら香水の類を持っていそうな気はする。
「結構好きだよ。良い香りがすると気持ちいいよね」
「でも、匂わないよね」
「そう?」
反論する私を横目で見て、くすりと笑う。その表情がなぜか色っぽく思えてどきりとした。
「匂いって、近づいて初めて香るのが良いんじゃないかな」
「うん、まあ、確かに」
それに関しては異論がない。特に元カレで匂いについて嫌な思い出がある分、力強く肯定したい。
「俺の匂いがしないのは、彩乃がまだ俺と距離を取ってるからだよ」
「距離?」
「もっと俺に近づいてよ」
そう言うと、瑛士が立ち止まった。つられて私も立ち止まり、二人の距離を意識する。
歩幅で言ったら三歩くらい。お互いが一歩ずつ踏み込めば、そこに空いた隙間は一歩分。いつも私たちがキープしている空間だ。瑛士はその一歩を超えて、私に近づくように伝えている。
「ほら」
にこりと微笑むその目が、真っ直ぐこちらを射抜いていた。なぜか知らないけど、挑発されているみたいだ。
来るの? 来ないの?
そんな心の声が聞こえてきそうだ。そもそもなんでそういう話になったんだ? そんな急なのはちょっと、いや、絶対に――
「嫌」
短く言った拒絶の言葉に、瑛士がぽっかりと口を開けた。
「えー」
「人を試すような言動をする人には近づけません。からかうのはなしで!」
腰に手を当て、胸を張って説教する。気分は中学校に昔いた、怖くて有名だった教師だ。
「……彩乃にこの手は通じなかったか」
がっくりと肩を落とす瑛士を見て、笑ってしまった。近寄るようにと相手を誘うって、男女だと変な誤解が生まれてしまう。自重しないとね。
「今日は二回も拒否されてしまった」
「残念でした。でも友達同士は、そこまでくっついたりしないよ」
言いながら、一歩踏み出す。それを見て、合わせるように瑛士も歩き出す。
いつもの二人の間に存在する、一歩分離れた距離。瑛士ももう、それを無理に縮めるようなことはしない。
「この近辺で美味しい焼肉屋さん知ってる? 私検索しようか?」
「勘で入ってみるのもいいんじゃないかな」
いつものような会話に戻って、私は内心ほっとしていた。瑛士とは、この距離が良い。この距離でいたいんだ。
第三章
すっかり習慣となった隔週金曜日の角打ち。今日も仕事帰りにいつもの酒屋、『鈴木酒店』に寄っていく。
「こんにちはー」
気軽に挨拶をしながらお店に入ると瑛士はまだ来ておらず、別のお客さんが五人ほどカウンターで飲んでいた。男女の二人連れが一組と男性の一人客が三組。酒屋の中の一角にあるカウンターなので、これだけの組数でもほぼもう満席になってしまう。
「今日は混んでますね」
店主に声をかけると、カウンターの向こうから返事がきた。
「お陰様で。あ、ユウコちゃん、隣にお客さん入れてあげてくれるかな」
「いいわよー」
ユウコちゃんと呼ばれた女性が気軽にうなずいて、体をずらしてスペースを作ってくれる。
「どうもすみません」
会釈をすると、奥からひょいと連れの男性がこちらを覗き込んだ。
「いいよ。ちょうど帰るところだったし」
「そうそう。私も帰ってご飯作らなくちゃねー。ってことで鈴木君、お会計して」
お酒が入っているせいなのか、明るいテンションでテンポよく会話がつながっていく。常連客、というよりも地元の人なんだろうな。私よりも一回り上、四十代と思わしき近所の知り合い同士が、楽しく立ち呑みをしている雰囲気だ。鈴木君、と呼ばれた店主も慣れた様子で二人に軽くうなずき、会計をするのかと思いきや、伝票を持って私を見た。
「その前に、こちらのお客さんの注文聞いてからね」
場所に続いて注文まで譲ってもらうとは。恐縮してぺこりと頭を下げてから、メニューを見る。書かれているのは
日本酒グラス
日本酒飲み比べ三種
クラフトビール
の三種類のみ。あとはお水が欲しければペットボトルのお水を、ツマミが欲しければレジの横で売っている乾き物を、別途買うシステムだ。
「えーっと、いつもの飲み比べ三種で。あと、お水も」
「ありがとうございます。いま、お酒並べますね」
私の注文を聞いて伝票に書いて、そこで店主は初めて困ったように伝票と私を交互に見比べた。
「すみません。今更なんですが、……名前を伺っても?」
たしかに、それぞれの伝票を区別するには名前を書くのが一番だ。
「遠藤」
「あのね、私、ユウコ!」
「俺、コウタ!」
「いえーい!」
二人の息の合いっぷりに思わず噴き出してしまった。
「ごめんなさい。この二人、実は僕の同級生で」
困ったような顔で店主が説明し、納得した。だからユウコちゃん、鈴木君呼びなのか。
「鈴木君とは中学校が同じだったの。まさかあの頃は、こんな風に角打ちに通ってお酒を飲むようになるとは思わなかったけれどね」
「そうそう。大人になって新たに知る愉しみってあるよな」
幼馴染三人がニコニコとして語っている。その姿を見て、私も嬉しくなってきた。
「それすっごいよく分かります」
中学時代の同級生である瑛士と再会し、まさかの飲み仲間、遊び仲間になっている自分にとって、目の前のこの人たちは人生の先輩だ。瑛士とも、こんな感じでずっと続いていけるといいなぁ。
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