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第一章 二人の関係
4.夏の散歩
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「お母さーん、お姉ちゃんはぁ?」
小学五年生の夏休み。学校のプールから帰ってくると、私は玄関から台所に向かって声をかけた。
「もう、とっくに行っちゃったわよー。」
台所から聞こえるお母さんの声。その返事に嬉しくなって、私は一人密かに笑う。
「ねえ、コロはー?」
つい二週間前に我が家の一員となった犬の名前を呼ぶ。コロはお母さんの返事を待つまでもなく、自分の名前に反応して駆けてくると興奮したようにキャンキャンと鳴き、千切れそうな勢いで尻尾を振った。
「コロ、ただいまー!」
頭をぐりぐりと撫でて、コロの期待に応えてあげた。
話は今年の春までさかのぼる。
元々、我が家の長女、奈緒子お姉ちゃんは小さな頃から大の動物好きで、犬を飼うのが夢だった。この動物好きというのはお父さんの血筋らしく、お父さんの田舎では犬は必ず飼うものだった。それなら我が家でも犬を飼うのは簡単と思えるけれど、そうもうまくは行かない。
この四人家族で犬を飼うに当たっての当面の問題は、誰が散歩をするのか? だった。
お姉ちゃんもお父さんも小型犬はあんまり好きではなくて、飼うんだったらやっぱり中型犬以上だよねー。って二人で声をそろえていた。私は小さいのも好きなんだけれど、この場合、『普通に動物好き』な人よりも『大いに好き』な人のほうの意見が強い。小型犬と違い、毎日きちんと運動をさせなくてはいけない中型犬以上にとって、散歩は重要な問題だ。
仕事が忙しいお父さんが毎日犬の散歩をするのは大変だし、お母さんだって働いている。そういう訳で、お姉ちゃんや私が毎日散歩できるくらいに大きくなった年、つまりお姉ちゃんが中学一年生で私が小学五年生になった今年、我が家に犬がやってくることになった。
どんな犬種を選ぶか、というのも犬を飼う前の楽しみなのかもしれないけれど、我が家の場合はあっさり決まってしまった。お父さんの田舎で四月に子犬が生まれたんだ。母犬は紀州犬ということらしいけれど、父犬は不詳。とりあえず、毛並みがふかふかして茶色の、なんだかポメラニアンと柴犬の中間みたいな子犬。四月に家族会議を開いて犬を飼うことが決定して、七月末、夏休みが始まると同時に家族で田舎に行き、引き取った。
そしてそれから二週間後。
ようやく環境にも慣れ、完全に『ウチの子』となったコロが目の前でお腹を出してひっくり返って私にいいように撫でられている。
「あらあら、凄いわね。」
遅れて台所から出てきたお母さんが、コロと私のどちらに向かってだか良く分からない感想をつぶやいた。
コロが我が家に馴染むのと同じように、私達家族も飼い犬という存在に馴染んでいった。名前を呼ぶと一目散に駆けて来て、こちらがかまってあげれば体全体で嬉しさを表現してくれる。普通の動物好きの私でも、もうすっかりお姉ちゃんに負けないくらいコロの魅力に夢中だ。
「お姉ちゃん、コロのことはくれぐれもよろしくってあずさに伝えてねって言っていたわよ」
お母さんもしゃがみこむと、私と一緒になってふかふかのコロの体を撫で始める。
お姉ちゃんは今日と明日、友達と一緒に海に行く。親戚のおじさんの別荘があるとかで、誘われたんだ。いつもだったら羨ましく感じる話だけれど、今回ばかりはその友達に感謝した。だって今日と明日のコロの散歩は私独りで出来るんだもん。
背中からお腹まで、コロの全身をくまなく撫で回すと、私は玄関においてあるリードを手にした。
「散歩行ってくるね!」
「まだお昼よ。早朝の散歩、お姉ちゃんがやったんでしょ?」
「いいの。行ってくる!」
勢い込んで宣言するとお母さんは肩をすくめ、「はいはい、いってらっしゃい」と手を振った。
玄関を出て夏の空を仰ぐと、雲ひとつなく青く晴れ渡っている。電信柱にはセミが止まっていて、ミーンミーンとよく響く声で鳴いていた。私の額はすでに汗でぬれていて、頭を太陽がじりじりと焼いてゆく。慌ててまた家に戻ると帽子を被り、今度こそ本当に散歩に出た。
「さ、行こう」
足元を落ち着き無くうろつくコロに声をかけ、歩き出す。
コロをつれて家の周りを歩くのは楽しかった。しきりに走り出そうとするコロをリードで押さえながら、優しくあやすように話しかける。コロはそんな私の言葉など聞いてはいないのだけれど、どうかすると後ろを振り返り、私を見上げ、なにか問いたげに首をかたむけ立ち止まる。
今までお姉ちゃんとしていた散歩を、たった一人でこなしている。こんな充実感、今まで味わったことがあったかな?
有頂天になった私は背筋を伸ばし、胸を張り、意気揚々とコロと共に行進した。その時私は幸せだった。俊成君が突然現れる、その瞬間までは。
今まで歩いていた細い路地から抜けようと、角を曲がろうとしたときだった。足元にじゃれるコロに気をとられ下を向いていた私の目に、黒い影が飛び込んできた。慌てて顔を上げるとそこに俊成君がいた。
人が現れたことに驚いて慌てて立ち止まったのに、その相手が俊成君だったことにさらに動揺した。つい、コロと私をつないでいたリードを落としてしまう。でも、驚いたのは俊成君もだったのかもしれない。彼の体がびくりと震えた。
私と俊成君のそれぞれの反応に、コロは何かを感じたらしい。急に低く姿勢を取ると、俊成君に向かってうなり声を上げる。
「あ、やだっ、コロ!」
犬の威嚇を初めて見た私は思わず叫び声をあげ、俊成君は自分の身をかばうようにとっさに右手を振りかぶった。彼の手にあるコンビニ袋が、がさがさと大きな音をたてる。それらのすべてがコロをより興奮させる結果となり、気が付くとコロは俊成君の右手に向かって飛び込んでいた。
「俊成君!」
まるでドラマの場面のように、スローモーションとかコマ送りをしているみたいに、コロが俊成君の右手に噛み付いてゆくのがはっきりと見えた。
小学五年生の夏休み。学校のプールから帰ってくると、私は玄関から台所に向かって声をかけた。
「もう、とっくに行っちゃったわよー。」
台所から聞こえるお母さんの声。その返事に嬉しくなって、私は一人密かに笑う。
「ねえ、コロはー?」
つい二週間前に我が家の一員となった犬の名前を呼ぶ。コロはお母さんの返事を待つまでもなく、自分の名前に反応して駆けてくると興奮したようにキャンキャンと鳴き、千切れそうな勢いで尻尾を振った。
「コロ、ただいまー!」
頭をぐりぐりと撫でて、コロの期待に応えてあげた。
話は今年の春までさかのぼる。
元々、我が家の長女、奈緒子お姉ちゃんは小さな頃から大の動物好きで、犬を飼うのが夢だった。この動物好きというのはお父さんの血筋らしく、お父さんの田舎では犬は必ず飼うものだった。それなら我が家でも犬を飼うのは簡単と思えるけれど、そうもうまくは行かない。
この四人家族で犬を飼うに当たっての当面の問題は、誰が散歩をするのか? だった。
お姉ちゃんもお父さんも小型犬はあんまり好きではなくて、飼うんだったらやっぱり中型犬以上だよねー。って二人で声をそろえていた。私は小さいのも好きなんだけれど、この場合、『普通に動物好き』な人よりも『大いに好き』な人のほうの意見が強い。小型犬と違い、毎日きちんと運動をさせなくてはいけない中型犬以上にとって、散歩は重要な問題だ。
仕事が忙しいお父さんが毎日犬の散歩をするのは大変だし、お母さんだって働いている。そういう訳で、お姉ちゃんや私が毎日散歩できるくらいに大きくなった年、つまりお姉ちゃんが中学一年生で私が小学五年生になった今年、我が家に犬がやってくることになった。
どんな犬種を選ぶか、というのも犬を飼う前の楽しみなのかもしれないけれど、我が家の場合はあっさり決まってしまった。お父さんの田舎で四月に子犬が生まれたんだ。母犬は紀州犬ということらしいけれど、父犬は不詳。とりあえず、毛並みがふかふかして茶色の、なんだかポメラニアンと柴犬の中間みたいな子犬。四月に家族会議を開いて犬を飼うことが決定して、七月末、夏休みが始まると同時に家族で田舎に行き、引き取った。
そしてそれから二週間後。
ようやく環境にも慣れ、完全に『ウチの子』となったコロが目の前でお腹を出してひっくり返って私にいいように撫でられている。
「あらあら、凄いわね。」
遅れて台所から出てきたお母さんが、コロと私のどちらに向かってだか良く分からない感想をつぶやいた。
コロが我が家に馴染むのと同じように、私達家族も飼い犬という存在に馴染んでいった。名前を呼ぶと一目散に駆けて来て、こちらがかまってあげれば体全体で嬉しさを表現してくれる。普通の動物好きの私でも、もうすっかりお姉ちゃんに負けないくらいコロの魅力に夢中だ。
「お姉ちゃん、コロのことはくれぐれもよろしくってあずさに伝えてねって言っていたわよ」
お母さんもしゃがみこむと、私と一緒になってふかふかのコロの体を撫で始める。
お姉ちゃんは今日と明日、友達と一緒に海に行く。親戚のおじさんの別荘があるとかで、誘われたんだ。いつもだったら羨ましく感じる話だけれど、今回ばかりはその友達に感謝した。だって今日と明日のコロの散歩は私独りで出来るんだもん。
背中からお腹まで、コロの全身をくまなく撫で回すと、私は玄関においてあるリードを手にした。
「散歩行ってくるね!」
「まだお昼よ。早朝の散歩、お姉ちゃんがやったんでしょ?」
「いいの。行ってくる!」
勢い込んで宣言するとお母さんは肩をすくめ、「はいはい、いってらっしゃい」と手を振った。
玄関を出て夏の空を仰ぐと、雲ひとつなく青く晴れ渡っている。電信柱にはセミが止まっていて、ミーンミーンとよく響く声で鳴いていた。私の額はすでに汗でぬれていて、頭を太陽がじりじりと焼いてゆく。慌ててまた家に戻ると帽子を被り、今度こそ本当に散歩に出た。
「さ、行こう」
足元を落ち着き無くうろつくコロに声をかけ、歩き出す。
コロをつれて家の周りを歩くのは楽しかった。しきりに走り出そうとするコロをリードで押さえながら、優しくあやすように話しかける。コロはそんな私の言葉など聞いてはいないのだけれど、どうかすると後ろを振り返り、私を見上げ、なにか問いたげに首をかたむけ立ち止まる。
今までお姉ちゃんとしていた散歩を、たった一人でこなしている。こんな充実感、今まで味わったことがあったかな?
有頂天になった私は背筋を伸ばし、胸を張り、意気揚々とコロと共に行進した。その時私は幸せだった。俊成君が突然現れる、その瞬間までは。
今まで歩いていた細い路地から抜けようと、角を曲がろうとしたときだった。足元にじゃれるコロに気をとられ下を向いていた私の目に、黒い影が飛び込んできた。慌てて顔を上げるとそこに俊成君がいた。
人が現れたことに驚いて慌てて立ち止まったのに、その相手が俊成君だったことにさらに動揺した。つい、コロと私をつないでいたリードを落としてしまう。でも、驚いたのは俊成君もだったのかもしれない。彼の体がびくりと震えた。
私と俊成君のそれぞれの反応に、コロは何かを感じたらしい。急に低く姿勢を取ると、俊成君に向かってうなり声を上げる。
「あ、やだっ、コロ!」
犬の威嚇を初めて見た私は思わず叫び声をあげ、俊成君は自分の身をかばうようにとっさに右手を振りかぶった。彼の手にあるコンビニ袋が、がさがさと大きな音をたてる。それらのすべてがコロをより興奮させる結果となり、気が付くとコロは俊成君の右手に向かって飛び込んでいた。
「俊成君!」
まるでドラマの場面のように、スローモーションとかコマ送りをしているみたいに、コロが俊成君の右手に噛み付いてゆくのがはっきりと見えた。
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