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43 アルファさん
しおりを挟むぐげぇ。
蛙でも潰れた?
今のが人の呻き声だと隼百が理解したと同時にバタバタとせわしげな音が耳に届いた。
なに? なにがどうなってんだ?
慌ただしい物音と、押し殺した悲鳴。
視界の後ろで阿鼻叫喚が繰り広げられている気配がする。けど隼百に正面を見る余裕は無く、後ろを振り仰いだ姿勢のまま硬直していた。その視線の先、
──男は無造作に手の中のモノを潰す。たった今、隼百が開けようとしてた煙草の箱だ。
いつの間にかそこに立っていた──なんてあり得ない圧倒的存在感。
うなじのあたりがざわざわする。それともゾグゾグ? そわそわ? ぐらぐら? どんな表現をすれば今の感覚に近いのかわからない。今すぐ走って逃げたいような、叫んでしゃがみ込みたいような。胸の底から湧く知らない感情に戸惑う。……うわ。
うわあ。
顔、はじめて見た。
──思ってたのと違う。
心の声が口から漏れた。
「……老けた?」
ざざっと音がした。
空気が固まった音が。
いやそんな音は存在しない、衣擦れか。複数の人間が一斉に身動ぎした……ってどういう状況!?
「ハハハハズレ君!」
はっと我に返る。原因オレか!
失言の自覚も無く違和感を口走っていた。
「完全に無意識だったゴメン!」
勢いよく頭を下げる。
「ハズレ君んん!?」
「……なさい?」
悲鳴に近い叱責が飛んできたからゴメンに『ナサイ』をつけた。でも隼百のひとことで騒然とする現場の中、いっとう混乱しているのは口走った当人だ。
思ってたのと違うだとか、老けたとか、オレ何様なんだよ失礼な。若いし。このひと、年齢の割にずっと若い。
……。
でももっと、こう……違うのだ。彼の姿はどうもしっくりと来ない。だって。
このこは少年なのに。
……。
っは?
オレ誰と勘違いしてるんだ? 昔会ったとか? それはない、異世界だ。なにも思い出せるものはない。
──本当に?
そこを覗けば知らない記憶の断片が見えるような気がしてぐっと腕を掴む。知らず自分で自分を抱きしめるような格好になっていて、驚いたのは震えていた事だ。……あれ? おかしいな。寒くはないんだけど。風が強いからかな。いやそんなことより。
地面を熱心にみつめてしまうこの状況、どうにかしたい。顔を逸らしたら、顔を上げられなくなった。
失礼すぎる言葉に反応が無いのが不気味だ。足元に見える革靴は隼百のよりもだいぶん大きい。そこから伸びる、地面を踏みしめるスーツの脚。……動かないね。離れてもいかない。
な、なんでだろ? 緊張する。なるべく意識を向けないように……って考える事が既に意識しているのか。だって至近距離の身体が。匂いが……限界。恐る恐る視線を上げる。
壁だ。
隼百よりも頭ひとつ分は背が高い分、いっそスレンダーにも見えるのに肩幅も胸板も厚い。肉食の獣みたいな、過不足のない体躯。触ってみたいな……いや違う、間違い、均整が取れた身体が羨ましいって意味だから。
──本来ならば仕立ての良すぎるスーツだとか着目する箇所は他にもあるのだが、隼百の目は本体しか映さない。
顔は鉄面皮の無表情。でもなんて言うんだっけえっと、アレ言葉が出てこない言語能力が仕事してくれない美形? そうだ美形。男らしいのに美形。好きだ。って違う言い方違う理想の顔。つまりは理想って意味だから何もおかしくはないってどこに言い訳してる? 自分がポンコツな機械にでもなった気分だ。老けたって言っちゃったけど年齢を重ねた分の落ち着きと渋みが加わっていて、悪くはない。……全然、悪くない。しかしなんかもうもう、なんかだ。なんかってなんだ? やばい全力で頭が空回りしている。
あ。
ふ、と細められた瞳に視線が吸い寄せられる。
いままでそこには気づかなかった。
不思議な茶色だ。きれいな瞳って宝石みたいになるんだな。
茶色、と言ってしまうと地味で違う気がする。けれど隼百は色の名前にも宝石の名前にも詳しくないから茶色と表現するしかない。近いのは琥珀? ロシアとかの北の、極寒の地で採掘される石のイメージ。石ならばあれは混入する不純物で可視化する色が変化するんだっけ。ここにある色は黄色に金色に朱色。緑色もある。溶け合わず、でも混じり合って深みが増す複雑な虹彩。時折不安げに揺らぐ光の反射が綺麗。もっと見ていたい。けど。
胸の辺りがモヤモヤする。
もやもや? ムカムカ。どうしてか。
気に入らない。
瞳は綺麗なのに。
──気に入らない。
これは──ああ。オレ、腹が立ってるのか。
隼百が他人に対してマイナスの感情を抱く事は珍しい。
だからはじめて知った。ムカムカするのって自覚したからって止められる訳じゃないんだな。
気に入らないのは眉間の皺。
それと、なにより、目の下の隈。
なんでこの世の不幸を一身に背負ったような顔してんだよ。
このひとは幸せであるべきなのに。
ちゃんと寝てないのか? 不健康。……それにしても周囲が騒がしい。また性懲りもなく悲鳴が上がった。ぐいぐいと伸ばす。
「ハズレ君んん! 止めて! なんてご無礼を!」
うまく伸びない。
しかし皆して話しかけてくるのは止めてほしい。うるさい。気が散る。
「すぐお離れして! お離れしてええ!? ねえ!? お願い聞こえてないの!?」
「すみません今ちょっと忙しいんですよ。てか敬語おかしくないです?」
「敬語より君、君だよ!? 自分が何してるか自覚してる!?」
「オレですか? 何って……っふ?」
なぜか避けてた筈の相手にがっつり向き合っていた。そこまでは良い。けど指が。
指が勝手に男の眉間の皺を伸ばしてた。
「……」
そうっと手を引っ込める。
「……」
だいじょうぶだ相手はピクリとも動いてない。こっち見てる気がしないこともないけど隼百は再び目を逸らしたから何も見えない。見えないから真相はわからない。
わからないったら。
無かった事にしよう。何もなかった、うん。
……やけに指先が熱くてじんじんする。
うう……。視線のやり場を失って再び地面を見つめていると焦りを含んだ囁き声が聞こえてくる。
「ととととんでもない事をしでかしてくれたんだけどどうすべき? どうしたらいい!?」
「しっ、静かにお怒りだよハズレ君を凝視してるもん無言だもん絶対怒ってらっしゃるよ」
「なんで!? ななんであんな無礼するかな!? あの方が苛烈で容赦無い方だって常識だしハズレ君だって知ってるだろうに」
「知らないんじゃ? あんなでも異世界人だよ」
「ああああ」
「ハズレ君それ恐れ多い方だから! ぺたぺた触っちゃ駄目だよ五体満足で帰れないよせっかく元気になったのに」
「ハズレ君ハズレ君、土下座」
大袈裟だな。
隼百にはそれほどオオゴトだとは思えない。そもそも現実味が無いんだよな。これが夢で、いま自分は眠っているのだと言われてもちっとも驚かない。
ふ、と思い出し笑い。自分が好きな色が茶色だとは知らなかったな。複雑な色を思い返すうちにまた眺めたくなってきてうずうずしてくる。…………。うずうず、って。
……?
茶色はすぐ側にあるのにどうして我慢してるんだっけ? 見たいんだから見れば良い。判断力の低下を自覚していない隼百はそっと鑑賞する。
綺麗。
堪能して満足する。にしても、どうしてこんな目で見てくるん……見て?
やば。
どうしてこの瞬間までこんな当たり前の事実に気づかなかったのか頭を抱えたくなる。
こっちが見ているなら相手だってこちらを見てる。
なぜだろう、今まで画面越しのテレビでも見てる感覚だった。同じ空間にいる──隼百はそれをこの瞬間はじめて深く意識した。彼と目が合っている。
意識した途端、心臓が五月蝿くなって周囲の音がうまく聞こえなくなった。
どれくらいみつめあっていたのか。
ごうん、と飛行機が通り過ぎた音に我に返る。
「っあ」
──瞳から無理矢理に視線を剥がして飛び退く。
いや、気持ちとしては飛び退いたけど、実際にはよろりと後ろに下がっただけだ。
……さみしい。え、違う。離れてホッとした。
けど、なんだろ。喪失感に途方に暮れる。だって匂い薄まった。
動物か!? 落ち着け落ち着け無理いや全然落ち着いてるし!
全然大丈夫。倒れてる人たちを眺めながら深呼吸する。
倒れてる?
「……ぇっ!? 大丈夫ですか!?」
「大丈夫じゃないよ!」
ようやっと異様な光景に意識が向いた隼百である。
風が強い屋外、だと言うのに喫煙所付近のほとんどの人が膝を折って地面に頭をつけている。既視感。よく似た映像を見たことがある──うん。こっちはちゃんと、記憶にある。アレだ、時代劇の大名行列。したにぃしたにって奴。各々ブルブル震えていたりブツブツうわ言を唱えていたりとちょっと正気を疑うおかしな光景ではあるが、怪我をしている人はいない。
「良かった……元気そうだ」
「ハズレ君ちゃんと見て!? 満身創痍だよ!? 生きた心地がしないよ!?」
にしても、ちっとも気づかなかった。オレ、どうして今までこれを無視出来てたんだろ。
まあいいか。深く考えない。まわりを見る余裕が出てきたのは良いことだ。
「そういえば土下座って聞こえてたけど皆さんで土下座してたんですね」 首を傾げる。「どうしてです?」
「そういえばじゃなく真っ先に気づいて!?」 伏せをしながら叫ぶお偉いさんの姿がとてもシュールだ。「早く! 早く土下座しよう!? そしたら気紛れで許してくれるかもしれない。一緒に土下座!」
「わかりました」
本当はさっぱりわからないが隼百は土下座に抵抗がない。プライドとか誇りとか、そういう大切なものを持っていないのだ。お偉いさんとは目線を合わせた方が良いだろうし、と素直に膝を折ろうとして、
「れ?」
出来ない。
尚も腰を降ろそうとしたら足がぶらんと宙に浮いた。勢い、頭から地面に激突──
しない。
どういう?
ピンッ、と喉元を引っ張られている感触がある。服の布に。それが落下を防いでいるのだ。腰も同じか。
腰と首のうしろを摘まれている? 服だけを?
チッという音が上から降ってきた気がした、
「ひいいいっ!」
けど周囲の悲鳴に掻き消されてよく聞こえない。かわりに誰かのうわ言の内容が耳に入ってきた。
「……アルファさんだアルファさんだ本物のアルファさん目の前にアルファさんが……幻?」
──やっぱり。
まるで答え合わせを聞いたような。状況も何もかも全然理解できていないのにその解答は隼百の心にしっくりと届いた。
それを知っている。
街に立ち寄るという噂が持ち上がっただけでもパレードが準備されるほど。この世界のベータから神様か、はたまた伝説上の英雄みたいに崇められている人。
『アルファさん』
それは名前ではなく、庶民に親しまれている俗称だ。「アルファ」に「さん」をつけただけ。センスもなにも無い組み合わせ。だけどそれがこの世界で唯ひとりだけにしか使われない呼称となると意味が変わってくる。ありふれた単語が特定の個人を指す──そこに彼のデタラメさがわかる。
曰く、アルファ協会日本支部の代表にして世界中に根を張っている協会の実質上のトップ。
曰く、召喚事業の創始者。
曰く、衰退する世界を救済した英雄。
曰く、世界を作り変えた元凶。
──この世界の最後のアルファ。
爲永|さん──。
次々と頭に浮かんでくる肩書の羅列に隼百は眉を顰める。
噂も、名前も、知っている。
彼の逸話は隼百の耳にも幾度か入ってた。それだけ有名人──だけど。
ふだんその手の話は適当に聞き流してる。ただでさえ異世界での新生活、覚えなければならない事は多いのだ。興味がない噂話にまで気が回せる筈もない。なのに。
どうしてか、覚えてる。彼について語られた話をぜんぶ。自分にびっくりだ。
なんて思考に沈んでいたから不意打ちだった。
へ?
フワリすとんと何かの上に座らされた。
あ。そういえば宙に浮いてる最中だった。
失念する事実じゃないだろ……さっきからまるで自分の状況を把握出来てない。吊り下げられる前からふわふわしてる。ここは誰オレはドコ状態。いや場所はわかるベンチの上。先刻までそこに座れるスペースは無かった。
そう。土下座をしようとしたら座ってる。……なぜ? 頭の中に疑問符が並ぶ。
「……御慎重なことで」
少し離れたところから届いた、聞き覚えの無い男性の声。その後に続くのは知ってる女性の声。
「……そっと降ろしたわね。アルファってのは動作が無駄に優雅なのよね……丁寧すぎない? 宝物でも扱ってるみたい」
「間違えてはいませんね」
「なんでアレ直接触らないの?」
「宝物だからじゃないですか」
ああ。普通に立っている人もいるんだな。
と余所に気を取られたのは一瞬。
隼百の意識は目の前に屈んできた茶色の瞳に持って行かれる。
「なぜ吸う?」
しゃべった。
バリトン。
この声、知ってる。──地下駐車場で聞いた声。
反応の無い隼百に相手の眉間の溝が深くなる。でも続けられる言葉は無い。
誰ひとりとして口を開かないまま、ただ沈黙が流れる。
数秒か数分か、また茶色に見蕩れて、どれくらいかしてから隼百はハッと我に返る。あれ?
「……オレ、普通だ」
「……」
「いや普通じゃないでしょうが」
小声の突っ込みが入った。
「惠崎さん?」
土下座してる皆の背後にいた。隼百に呼ばれて彼女はどこか居心地は悪そうに肩を竦める。
「土下座ムーブに取り残されて」 そう、惠崎は立っている。この場の誰もが平伏してるわけではないのだ。現に、惠崎の隣にも男がひとり佇んでいる。「つかなんでこっち見んのよ。見なくて良いのよ……見るのねもー……せっかくだから聞くけど、藤崎さんの普通ってどういう意味?」
「え? そりゃおかしくならない事ですけど」
「おかしいって?」
「……存在自体が人の迷惑になる」 寂しそうに答える隼百はぼんやりとしていてどこか視線がさだまらない。「オレ、てっきり自分がおかしくなるんだと思ってて……なんでそんな心配してたんだか」 両手で口を覆って息を吐く。「……普通で良かった」
「普通じゃないわよ? 藤崎さん自覚ないのかもしれないけど相当動揺してるからね? 目の前を放置してこっちに話しかけてるのが証拠だからね?」
と、惠崎の発言を受けて隣の男が口を開く。
「無意識に問題を先送りにしているのでしょうね。彼」
「あー……気持ちはわかる。私だって平気なのは見てるだけだからだし。見られたら無理。だからこっちに気をそらさないで……アルファの威圧ってこんなに酷いの?」
「年々気迫が増すばかりで憂慮しております。それでもこんな一同総土下座をさせるようなシーンは珍しいですよ。そう頻繁にやられたら迷惑です」
「じゃなんだってこうなってるの」
「今はただ漏れですから。これではアルファに耐性が無い方は堪えきれずに膝を折りますよね」
「アレ全神経を藤崎さんに向けてるんじゃない……よく普通とか言ってられるわねあのコ」
「成る程。餓えた虎のような気配が鬱陶しいですか。我が主に対して失礼ですね」
「そこまで言ってないです」
なんか和やかに話し込んでいる。
隼百はそっと息を吐く。そっか。
だいじょうぶなんだオレ。
おかしくならないんだ。
ふ──────
い──────
ふっと心が軽くなった。
変なの。この安心はどこから来るんだか。自分の心なのにさっぱりわからない。
ふつう────
い───に──れ ?
わからないのに長らく抱えていた不安から解放されたような、重荷を降ろしたような……。じわじわと噛みしめるような嬉しさを感じてる。ほんと、変なの。
ふつうになれたなら
いっしょにいられるかな?
一瞬、よく知ってる誰かの声が聞こえた気がした。どこから……頭の中? 胸の……奥?
ふつう、か。
土下座している皆に視線を向ける。
この世界に来て、隼百は知った。感覚では理解できないけれど知った。
ベータはアルファに焦がれてる。
アルファ、ベータ、オメガ。
人の性別にみっつの型が存在するこの世界の常識を、隼百は理解出来ない。けれど外側から来たからこそ客観的な視点はある。
ベータはアルファを好きすぎる。
隼百にはその好きが一方通行に見える。だってアルファはベータを歯牙にもかけない。ベータの息子を溺愛しているトルマリンは変わり者の部類だろうし。
……報われるかどうかなんて関係無いか。慕う気持ちなんて、止められるものならとっくに止めている。
駄目でも無駄でも、どうしたって焦がれる。
そういう想いは存在する。
そこまで考えた隼百はふ、と息を漏らす。嗤えたのだ。自分に対して。身を焦がす程に何かを求めた事も、誰かを好いた経験も無いのに偉そうに。……うん。大丈夫。冷水を浴びせられたような思考のおかげで本当に冷静になってきた。
で、だ。
目の前の人はこの世界の人たちにとって特別なアルファ。とつぜん現れたら皆が平伏したくなる気持ちはわかる。
いや、やっぱりわからんな。
そんな有名人、なんでいるのかね?
……よし。逃げるのは止め。隼百は腹に力をこめて気合を入れる。ついでとばかりにパンッ、と頬を叩けば正面に見えていた腕がびくっとした。顔をあげると茶色の瞳は変わらずそこにあった。苦笑する。そりゃそうか。やっぱ綺麗。好きだな。ついつい鑑賞していると睫毛が震える……あ。感情が分かりづらいけどこれ、隼百の視線に怯んでる。反省する。そうだよな。さっきから流石に見つめすぎだった。大人として無神経だ。
「ごめんな。びっくりさせた」
自分の思った以上に優しい声が出た。
ひいいっ!
また叫び声にそちらを見れば、土下座しながらばたばたしてる。……皆、忙しないな。呆れつつ視線を元に戻して、
まんまるに見開かれた茶色に首を傾げる。
その瞬きを二回見たところで隼百は我に返る。
しまった。
またやってしまったかも?
……かもではない。やっちまった。手が勝手に。いやだって、本来なら身長差で手が届かない頭が! 屈んでくれて、目の前にあるのだ。丁度いい位置にあったなら誰だって撫でるだろ。
言い訳にならないね。
「悪い、じゃねえ」 息を吸って吐く。「……ごめんな。君の瞳が綺麗でつい……引き寄せられた。不躾を許してほしい。もう二度と触れないから」
「ちょ待っなっ!? あれどこのタラシ!?」
惠崎が小声で叫んでいるが隼百は聞いてない。良かった。今度はちゃんと落ち着いて謝ることが出来た。
なんでかなあ? この人を見てると気を抜くと子供を相手にしてる気分になるんだよな。
手を引っ込めると彼の眉が下がった。
ええ……。
密かに激しく戸惑う隼百と眉の下がったままの相手を交互に見比べて、惠崎が隣に話しかける。
「ねえアレすごく残念そう……捨て猫……には見えないけど……捨て……虎? 罪悪感半端ないじゃない。ああほら、藤崎さんがまた撫でてる」
「ひいいっハズレ君んん恐れ多いから!」
「で、で、でも見ておお怒ってらっしゃられないんじゃないかなアルファさん。ハズレ君は猛獣使いなの?」
「どうすれば。私達はどうすれば!?」
俄に外野が騒がしくなった中、惠崎の隣の男が徐に口を開く。
「……こんな顔もするんですねあの方」
「部下が言う?」
「ええ。この短い間にこの数十年で見たことの無い表情をいくつも拝ませて頂いております」
「あら。ドンマイ」
「労われる覚えはありませんが」
「げんなりしてるから励ましてる。てかなんでアルファさんと貴方がここにいるのよ?」
「今頃聞きますか」
「ホントよね。他に誰も聞かないから仕方ないじゃない。突っ込み役って柄じゃないのに」
「生憎、私の口からは答えられません」
「ああそう。聞くんじゃなかった」
「……慎重な方なんですよ。あの方の言動には幾重にも制約がついて回る。影響が大きすぎるんですよ。私事だろうと公的だろうと。それを承知していらっしゃるから予定外の行動をなさる方ではない」
「じゃあこれは予定内ってコト?」
「逆ですよ。こうと決めた時のフットワークは軽いので」
「ので?」
「止められません」
彼──アルファさんが口を開く。
「飛空艇で治癒を受けただろう。あのオメガの能力は癒しと再生。貴方の身体機能は正常化された」
「ふえっ?」
今なんて? 頭がついてきてくれない。色々と踏むべき課程をすっ飛ばしている。せめて自己紹介……無いか。この世界で『アルファさん』を知らない人間なんて居ないですかそうですか。でもどうしてハズレの異世界人である隼百の個人情報まで把握してんだ? アルファは何でも知ってるとかそんな無茶苦茶な……説得力あるな。それより気になるのはこのひと、頭を撫でられたまま喋ってるけど良いんだろうか。
「アレの治癒は病理を消す。だがやっている仕事はそれ以上──細胞単位でのリセットだ。中毒の症状も消え失せる。今の貴方に喫煙欲求がある筈がない」
撫で続けるかどうか迷っていた隼百は衝撃の台詞にその頭に手を乗せたまま停止した。ぼうっとして、再起動。
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「なのに貴方はまだ吸おうとする。その意義がわからない」
会話中でも茶色の瞳が綺麗で好みすぎてつい魅入ってしまう違うそうじゃない。首を振って、隼百はまた反対方向に首を傾げる。
いくら言葉を重ねられてもさっぱり理解出来ないのは根本的な説明が欠けてるからだ。そこじゃない。けれど隼百にもボンヤリと相手の言いたい事がわかってきた。これはアレか。さっきの発言『なぜ吸う』の解説をしてくれているのか。
律儀。
頬を掻く。
「意義とか難しいコト考えて吸ってないよ。ただの習慣」
「口さみしいなら代用品を渡す」
「うん? うんそっか。なんでオレの喫煙を止めさせたいんだ?」
最初から子供相手のような態度の隼百に周囲は止めるべきか許されてるから放置するべきかとまたざわついている。隼百以外に緊張感の漂う中、恐怖と畏敬の対象のアルファさんは生真面目な顔で答える。
「身体に悪い」
「そうだな? 煙草だからな」
「身体に悪い」
「あ、はい」 思わず手を引っ込めて身を引いた。繰り返しの圧がつよい。言葉を咀嚼してまた首を傾げる。「うん?」
つまりこのひと、わざわざオレの喫煙止めにやって来たわけ?
……いやいやいやいや。突拍子もない想像をしてしまった。
んなまさか。
と、アルファさんが隼百の腕を取る。避けられなかった。動きが早かったわけではなく、むしろゆっくり。でも腫れ物みたいに慎重に触れてくるのでつい見守ってしまったのだ。持ち上げられたのは左の手首。すぐに離された。
「?」
触れられたところが痒い。痒いのは熱いからだ。ぽかぽかする。
あ。
「これ……トルマリンがくれた変装グッズだな」 手首には見覚えのある腕時計が嵌まっていた。「なんでアルファさんが──」
持ってるんだ? と疑問の声が続く前に不機嫌そうな気配がして目を上げる。アルファさんの表情筋が動いてた。隼百はその眉間に刻まれた深い皺を伸ばしたい衝動を堪える。
伸ばしちゃ駄目だ。我慢。我慢。駄目だ考え方を変えると良いかもしれない。眉が真ん中に寄っている様はよく見たらかわいい。
ハズレ君がとうとうアルファさんの逆鱗に触れたと絶望する土下座の面々が隼百の苦悩を聞けば方向性が真逆すぎて腰を抜かすだろうが、幸いにもそれは誰にも伝わる事はなかった。
「ためながまさと」
「……え?」
ぽかんと口を開けた隼百の目を静かにみつめてアルファさんが再び名乗る。
「俺の名は爲永晶虎だ」
場がシン、と静まり返る。
いま自己紹介する? 名前だけ?
爲永晶虎の視線は隼百に固定されている。何かを期待するような。待っているような。
誰かがごくりと喉を鳴らした音がやけに大きく響いた。迂闊に身動きも出来ない、謎の緊迫感。これがアルファの威圧か? 違う気がする。
もしかしたら彼は隼百の返答を待っているのかもしれない。確信はないけど。意を決して口を開く。
「ためながさん?」
「……」
ああ、失敗した。直ぐに分かった。
眉間の皺が減らない。
名前を呼べって意味じゃなかったのか。勘違い、恥ずかしい……凄い恥ずかしい。頬が赤くなるのを止められない。しかし、
「……名字か」
ぼそっとさみしそうなつぶやきを耳に拾ってしまった。
……ええ?
「……」
えー。これを期待されているのでは? と感じているものはあるが、また間違えているかもしれない。不正解なら恥ずかしくて穴を掘って埋まる。絶対に埋まってやる。
けれど結局、隼百はそれを唇に乗せる。
「……晶虎、さん?」
ぐっ。
「えっ、大丈夫?」
悲鳴が上がる。爲永晶虎の悲鳴ではない。でもアルファさんが胸を押さえて蹲ったのだ。阿鼻叫喚、の一歩手前でバリトンがおさえる。
「……大丈夫だ」
──ひと声で場を制する。
爲永晶虎が立ち上がる。ぴんと身体の中心に芯の通ったような滑らかな動きで、大丈夫と言うのは強がりではないのがわかってほっとする。仰ぎ見るとやっぱり高くて距離を感じた。
身長差の分だけではない距離。
屈んだ。
「隼百」
バリトンが耳元で響く。
「…………え?」
「後藤来己はもう来ない。彼に要件があれば代わりに聞いておくが」
「…………」 ちょっとフリーズしてた。意味が頭に届くまでに時間がかかったからだ。そして再びフリーズする。「えっ? 来るよ。ライキ君はうちの館長」
「館長は交代だ」
「……?」
呆然としている隼百の頭の上に何かが乗っかった。
「伝言は思いついた時で良い。いつでもな」
「え?」
ぽふん、と。頭の上にてのひらの感触を残して去っていく。
背中、広い。後ろ姿をぼーっと見送ってしまう。
……背中はあまり、好きじゃない。置いていかれ──
はっと我に返って慌てて立ち上がった時には後ろ姿は既に遠く。
びっくりした。びっくりした……心臓がいつまでもバクバクしてて収まってくれない。座ってたのに。健康だし、運動もしてないのに。
……頭を撫でられたから? ……名前、呼ばれた。待て待て。どれも隼百が先にやった事じゃないか。お返し? お返しなのか? あ、あと笑った。去り際にフッて笑ってた。館長交代とも言ってたなどういう意味だ。
「……なんだったんだ」
「こっちのセリフだよ!?」
「ハズレ君、何で!? ねえ何でアルファさんが来たの!? さっきのアルファさんだよね幻じゃないよね!? 幻かな!?」
よたよたと立ち上がりつつも目を血走らせて迫ってくるお偉いさんの追求に隼百は首を掻く。
オレに聞く?
†
「……今、何とおっしゃいました?」
転移陣に乗る間際、主の肩にコートを掛けた秘書の金針は耳を疑うといった表情を隠さず聞き返す。
「たいしたことはなかった。そう言ったんだ」
「……」
今度は胡乱な表情と沈黙で答えた部下に構わず爲永は続ける。
「運命なんてたいしたことはなかった。実際に相対して、会話してみれば」 ふいっと視線を彼方に飛ばす。「なんてことない、普通の青年だ。構えていて損をした」
「ハ」
上司の言葉を秘書は鼻で笑う。
「……おい」
「よく言うな、と思いまして。そもそも相手はベータです。運命もなにも無いでしょうに」
「……」
「あの方の危機に居ても立っても居られず、ちょっとの我慢も出来ずに駆けつけたのは何処の何方です」
「……折角、関わらない方が幸せだと」
「なんです?」
部下の問いに主人は暫く経ってから答える。会話する事で自分の考えを纏めたい──そんな様子だったので金針は口は挟まない。
「彼がベータなのはそうなりたかったからだ。あの世界に転生したのは運命から逃げたかったからだ。けど……俺が関わらなくても、どうあっても、彼は死に囚われている」
溜息をひとつ吐く。
「……だったら精精、関わるさ」
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