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一.

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タカト・グライアンツは道端の小石を蹴り上げながら、歩調を徐々に早めていく。
眉間に寄った皺の数、皮膚が破れそうなほど強く握られた拳、それが彼の苛立ちを物語っている。頭の中が憤怒一色に染め上がっていたためか、タカトが自身を呼び止めるか細い声に気づいたのは、四度声をかけられた時であった。
立ち止まって振り返ると、道のはずれ、荒れた大地に突っ伏すような形で倒れている人影がある。今にも私は死にそうな行き倒れです、と全身で訴えているかのような、情けない姿だ。

タカト、これをまじまじと見つめ、所々に人ならざる特徴があるのを理解する。頭部には二本の短角、肩にかかる程度の控えめで可愛らしいピンクの髪とは対照的に、背中の両翼は長時間の飛行にも耐えうると容易に想像がつくほど、立派な大きさである。肉付きの良い尻から伸びた尾は、先端がクパクパと開いており、その様子は酸欠の余り水面をパクパクする飼育魚を想起させた。

にじり、にじり。その魔物は残る力を振り絞るように這って近づいてくる。その必死な有様をさすがに見かねたタカト、
「いま呼び止めたのは君か」
と確認すれば、
「……はぃい」
と弱々しい返事があった。「――どうしても頼みたいことがあるのです」
顔をあげた魔物は、実に整った顔立ちをしており、特に紅色の瞳は宝石と見紛うような美しさである。下着のような黒を基調とした衣服は、どういうことかハートの形をした穴が胸元に開いており、零れそうなほどに詰まった乳が相手を篭絡せんとアピールしている。
もはや言うまでもないことだが、この魔物は淫魔に属するものであった。その一挙手一投足が、獲物である男を捕らえるために計算されたもの。

けれどもタカトは、その淫靡な仕草を全く眼中に入れてなかった。まだ頭の中が怒りで一杯なため、些事にまで関心を向ける余裕がないからである。
「用件は何です」
面倒だ、という感情が見え見えの口調でタカトが聞く。淫魔はゆったりと手を自身の胸元に持っていくと、あのハート形の部分に指をかけ、それから媚びた眼でタカトを見つめた。
「見ての通り、わたし大変飢えておりまして」
「はぁ」
「通りがかったばかりの貴方にこのようなこと、不躾とは思いますが……どうか一晩の宿を」
タカトは黙ってふところから金銭を取り出すと、投げつけるように淫魔に渡した。
これで用は済んだ、そう言わんばかりに足早と立ち去ろうとする。
堪らず淫魔は駆け寄った。
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください」
「まだなにか?それだけ歩けるのなら十分隣町まで行き、宿を取れると思いますが」
「これは火事場のなんとやらというやつで、ってそういう話じゃねぇんです」
ぜぇぜぇと激しく息を切らす淫魔。
「――御覧の通り、わたしサキュバスなんです」
「そうですね」とタカトは言った。
「そうなんです!」淫魔は語気を強めて言った。
「つまりですよ、男の人を誘惑する理由なんてひとつじゃないですか」
「精液を寄越せと言いたいんですか」
抑揚のないトーンで返され、淫魔は一瞬たじろぐも、
「そ、そうですよ。つまり貴方は今宵の獲物として選ばれたのです。だというのに、そんな無下に突っぱねられたら、わたしの沽券に係わるじゃないですか」
「では力づくで某を堕とされればよろしい。ただし、某はいま猛烈に不機嫌なので」
瞬間、目にも止まらぬ速度の抜刀。
気づいたときには、淫魔の鼻先三寸ほど前に鋭い刃が構えられていた。
「――このように君の首を瞬く間に刈り取って、終いとさせて頂くが」

淫魔はたちまち蒼白となって泣きそうな顔をした。
これにはタカトの方も面食らう。

「失礼ながらお聞きするが、君は本当にサキュバスなのか」
「どういう意味ですかそれぇ」目を腫らしながら淫魔が聞くと、
「確かに君は自分をサキュバスだと言った。しかしその、伝承に聞くよりもあまりにみすぼらしいというか、哀れというか」
「つまり弱っちいと言いたいんですね貴方。まぁ、随分と率直にけなしてくれるじゃないですか!そういうのって、人の心が無いと思うんですけど!」
「淫魔に人の心がどうと言われる筋合いはないのですが……とにかく、某はそろそろ御免こうむります。急ぎの旅の途中なので、正直君に構っている場合じゃないんだ」
そうして剣を収めると、タカトは先を急ぐように駈け出した。
ところが淫魔、半泣きになりながら後ろに付いてくるではないか。
「うえぇぇん見捨てないでくださいよ~わたし見ての通りお腹ぺこぺこで、もう体力もないんですからぁ」
「だから、付いてくる余力あるじゃないですか!さっき渡したお金はそっくり使っていいですから!これ以上某に期待するのは止していただきたい!」
ええいしつこい女だ、そう毒づくタカトであったが、走り出してみてあることに気づいた。
胸の辺りに感じる重み、つまりお金のジャラジャラ感のことだが、それが妙に軽い。
立ち止まって、先程淫魔に渡したのとは別の小銭袋を取り出す。二、三ほど振ってみる。
ちっとも音がしない。
また別の長財布を取り出す。開いても紙幣の一枚もありやしない。
もう一度銭袋を振った。引っかかっていた銀貨が一つ、ポトリと落ちる。
最後に自分を追ってきた淫魔を見る。渡したばかりの銭袋にはたんまりと金が。

ようやく、タカトは怒りに任せて渡した金が全額だったということに気が付いた。

「某としたことが……」
自分の方が文無しになってしまった事実に打ちのめされるタカト。
再三、全部あげると言ってしまった以上、今更返せというのは彼の矜持が許さなかった。
「あれ、急に止まってどうしたんですか」
「戻る用事が出来た」タカトは空の財布を見せて言った。
「間抜けな事に、君に渡した金が持ち金の全てだったようです」
淫魔は数秒固まったのち、盛大に吹き出した。
「いや、貴方面白い人ですね、それ正直に言っちゃいますか普通」
「そういう性分なので」

これを好機と見たのか、すかさず淫魔は次の提案を行う。
「わざわざ戻らなくても、このお金を使えばいいのです。ただし、もう所有権はわたしに移ったのですから、当然支払人として付いていく権利はありますよね」
「それは、そうですが」露骨に嫌そうな顔するタカトである。
「事情が何であれ、急ぎの旅なんでしょう?それとも、わたしみたいな弱くてみすぼらしいサキュバスに臆しちゃいました?そうですよねぇ、いくら貴方が強いからとはいえ、隙は与えたくないですよねぇ、なら仕方ないかぁこの話は白紙に」
「分かった、分かりました」両手を上げてタカトが降参する。「――これも何かの縁です。ただし、怪しい挙動を見せたら本当に首を刎ねるので、そこはご了承の程を」
淫魔は待ってましたとばかりに飛び跳ねた。あれほど死に体の行き倒れだったのが嘘のような活発さである。
「いいですねぇ思いっ切りが良くて。それでとりあえずなんですけど、お腹を満たすのが最優先事項なのでぇ、貴方の逞しいモノで」
「茶店ですね、仕方ない。食ってからの行動としましょう」
「むぅ、いけず」
むくれた表情をしながらも、淫魔は実に楽しそうに付いて行くのであった。
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