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河童の川流れ
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今日の朝、俺は、自殺するつもりだった。
昨日の夕立で勢いの増した川に飛び込めば、簡単に死ねるんじゃないかと思い決行。朝の五時に家を出た。
この時間なら、誰にも助けられることなく、下流まで直行できて、あわよくば死体も見つからずに神隠しできると思った。死んだあとも家族に迷惑をかけるのは、なんというか、嫌だった。
最近にしては珍しく、思いつく限り全てが順調だったような気がした。遺書もばっちり書いたし、家族にもバレすに家を抜け出してこれたし、橋に着くまで誰とも鉢合わせしなかった。順調すぎて逆に不安になるぐらいだった。
異変が起きたのは、橋に着いた後だった。
「うっ」
橋に着いて五分、俺は橋の下の濁流に向かってゲロを落としていた。
飛び降りようとするたびに死の恐怖に襲われ、嘔吐、を繰り返していた。橋に来るまで意気揚々と歩いていたのがまるで嘘のようだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
仕方なく、俺は強行突破を諦めて、橋から数メートルの草むらに座った。
「やっぱり」
恐れていた事態が起こってしまった、と思った。
実は、昨日の夜から、ひとつだけ気がかりなことがあったのだ。
それは、こんなふうに思い立った動機がなんなのか、未だに自分でもよくわからずにいたことだった。
きっかけ自体はよくあるやつで、少し前に記念すべき十回目の就職活動に失敗した時、母親に見放され、父親に殴られ、終いには弟に、「死んじまえクソ兄貴」とまで罵倒されてしまったことだった(改めて考えると、なんてくだらないんだろう)。
ただ、これほどきっかけがはっきりしているのに、本当にそれだけが理由だったのかと自問自答してみても、なぜかそこでは、はっきりと頷くことができなかった。
結局、無駄に意地を張って、「そこまで言われたなら死んでやる!」となっているだけなのだろうか。なんだかそう考えると、自分の人生のうすっぺらさが透けているような気がして、 涙がこぼれそうになった。
「これが本当の『しぼう』動機ってやつか」
ほら、死に際だろうと、俺という人間は清々しいほどうすっぺらい。
「もういいや」
腰を上げ、ゆっくり橋まで歩いた。そして、半ば自暴自棄になりながら、目を瞑って、右足を橋の外に出した時だった。
「ちょっちょっちょっ! ストップー!」
「わああ!」
うろたえながら、尻もちをつく。
俺は、しまった、と思った。こういうのは、バレると大抵は面倒事になるに決まっている、と思っていたから。
おそるおそる振り返ると、そこには、河童の格好をした子供がいた。
俺は自分の目を疑った。なんせ、振り向いたときに俺の目に写ったのは、ありきたりな田園風景を背景に河童の画像を貼り付けたような、そんな映像だったのだから。一体誰が平然を保てるだろう。まさに、意味不明だった。
ただ、相手も俺の反応が予想外だったらしく、目を丸して固まっていた。
不自然な間ができたせいで話すタイミングを失い、俺らは二人でただただ見つめ合っていた。
遠くから、重く激しい水の音だけが絶え間なく響いていて、まるで、俺とこいつ、二人だけの世界に閉じ込められたみたいだなと思った。
「……ちょっと死ぬ前に、一日だけつきあってくれへん?」
力強い、おっさんの声が、確かに目の前の生き物から聞こえた。
「……は?」
河童というフィクションな存在が、目の前に確かに居ることを、信じれずとも信じるほか無い。そんな複雑な心持ちだったのかもしれない。
「いや、は? ってなんやねん! せっかくこっちが勇気振り絞って話しかけたのに」
それか、色々なことが同時に起こりすぎて、ただ混乱していただけなのかもしれない。
「あ、もしかしなくても、自分通報とかされてまう、って思っとったんやろ! 安心せえよあんちゃん! そんなことは絶対せえへんから」
普通の、いつもの自分だったら、何かしら理にかなった行動をしていたはずだ。
「なんで黙ってるんや」
でも、この時の俺には、どうやらそんなことを考える余裕はなかったらしい。
「おーい、大丈夫かー。あかん、こいつ目ぇ開きながら寝とる」
別に、何のことは無い。
子供の河童がおっさんの声で俺に話しかけていただけ。
「ふっ、ふふふっ、ふふふふっ」
ただ、そのギャップになぜか、俺はツボってしまったらしい。
笑いが、止まらなかった。
「ふっふっふっふ」
「おい、なにわろてんねん!」
「いや、違くて」
「違くないわ! あんちゃん、めちゃめちゃ失礼やな!」
「ふふふふっ、はははっ、はっはっはっはっはっ!」
「聞いとんのかいワレ!」
「あははははっ! はははっ!」
「まったく……」
「はー、はー、あっはっはっはっはっはっ!……」
それからしばらくの間、俺は腹を抱えて、笑い続けた。
河童の子供の見た目をしたおっさんは、さっきよりもわかりやすく、目を丸くして驚いていた。笑いがおさまってきたタイミングでそれを見てしまい、再び笑いが止まらなくなった。
腹がよじれるほど笑ったのは、一体いつぶりだったのだろうか。時間も、家族も、周りの人の目も、全部忘れて思いっきり笑ったのは、一年前の中学校の文化祭が最後だったかもしれなかった。最近に至っては、笑わなすぎて口角が上手く上げられずにいたほどだったので、相当表情筋が衰えていたのだろう。
次第に笑い疲れてきたので、なんとなく、俺は橋のど真ん中で、大の字になって寝てみた。
頭の下で、濁流がおもいっきり暴れる音が聞こえた。心も体もちっぽけな俺は、きっと一瞬で飲まれてしまうだろう。
「そろそろええか?」
けれど、今、俺の目の前には河童がいる。
「ちなみに、どこ行くか聞いていい?」
「そんなん、着いてからのお楽しみに決まっとるやんけ!」
この河童なら、きっと濁流だって乗りこなしてしまうだろう。そんな漠然とした嫉妬が頭をよぎった。
「ほれ、いつまで寝とるんや。さっさといくで」
差し伸べられた手を取り、俺は起き上がった。
河童のお皿が、きらりと光っていた。
「――あんちゃんむっちゃ笑っとったな。もしもーし、あれ、緊張しとる? まあそりゃそうか。そもそも初対面やしな。じゃあ、そやな自己紹介でもしよか! あんちゃんからええで」
「俺から? えっとー、折笠俊一、歳は十六、フリーター」
「あんちゃん十六かいな! 若いなー。身長おっきいから二十歳ぐらいかと思っとったわ! ほんで?」
「……ん?」
「いやまさか自己紹介これで終わりちゃうやろ? もっとなんかこう――」
「いや、終わりだけど? それよりも、あんたの方こそ先に自己紹介しろよ」
「まあ、たしかに。自分から名乗らんと失礼ってゆーしな。あんちゃんのゆーとおりやな。えー、ワイは見ての通り、河童やらせてもらってますー。河童知っとるやろ? 知らん日本人おらんやろうけど。たまにおんねん、『河童ってなんですかー?』って聞いてくるガキ! ほんま、どういうとこで育ったらそんな質問出てくるんやろな! 不思議やわー。ほんで、そういう子に限って……」
よく喋る河童だなと思った。
そして、やっぱり苦手だなと思った。
一度話し始めたら止まらないくせに、内容はどんどんと本筋からズレていって、最終的に何を話していたのかすら忘れる。俺の典型的に嫌いなタイプだった。
さっき初めて出会った時から薄々勘づいていたので、ある程度は覚悟していたのだが、想像以上のマシンガントークに俺は絶望していた。まあ、これを踏まえた上で俺はこいつについてきてしまったので、今更どうすることもできないのだが。
河童の自己紹介を半分流し聞きしながら、自分の脳内で特徴だけを整理していくうちに、割と日本人の想像通りの生き物だということがわかってきた。
見た目は、昔の屏風とか巻物とかから出てきたんじゃないかってぐらい河童だし、泳ぎが得意で、好きな食べ物はキュウリ。相撲も大好きで、暇な時はいつも番付表を見てニヤニヤしてるらしい。
そして、河童は時折、水辺の神様として崇め奉られるらしく(俺は知らなかった)、そのせいで、水難事故にとても敏感になってしまったらしい。実際、さっきは俺が川に飛び込む雰囲気を嗅ぎ取って、あそこまで助けにきたらしいので、相当敏感なんだなと思った。
一番びっくりしたのは、河童の弱点は頭の皿だということだった。
「君ら知らんと思うけど、河童にとって頭の皿っちゅーのは命そのものやねん。皿が汚れれば体調が悪なるし、欠ければめちゃくちゃ痛いねん」
「マジ? 知らんかった」
「せやろ。もちろん、皿がパリーンって真っ二つに割れたら死んでまうし、逆に自分が死んだら皿も砕け散る。一心同体やねん」
「じゃあ、間違ってでも皿だけは守らないといけねーんだ。大変じゃん」
「そうや」
そう言って河童は深く頷いた。
この話を聞いた時、ふと、俺には、河童の皿のような、大切にしなきゃいけないものがあるかどうか考えてみた。そして、一分もしないうちに、そんなものがあったら自殺なんか企ててないな、という結論に至り、余計に自分が嫌いになった。
まあ、それはともかく、河童にとって頭の皿は、命そのもの。泳ぐ時も皿だけは絶対水につけないらしい。
話を聞いていた限り、河童にはメリットしかないように感じていたので、意外と苦労してるんだなと思った。
目的地に着く直前、河童はこんなことを言っていた。
「河童ってのは、まあ、川辺の妖怪やから、水辺を守っとくんが使命なわけや。もちろん、ワイだけに限らず、妖怪にはそれぞれの使命があってこの世に来るし、人間以外の他の動物植物も、だいたい子孫を残すっちゅー使命で生まれてくるやろ? でも、最近思ったんは、あんたら人間の使命だけって、一体なんなんやろなーって。そう思わへん?」
河童はそれまで、めちゃくちゃおちゃらけた感じで喋ったいたのに、このときだけなぜか、真剣な顔つきになっていた。
朝日も相まってか、その横顔は息を飲むほど美しかった。深緑色の皮膚に刻まれたシワは光沢を成し、大きな瞳の上に乗ったまつ毛は、一本一本からみずみずしさを感じさせた。
ただ、一つだけ、目線だけはどこか遠くの景色を見つめていて、それがなんだかすごく寂しそうだった。
あれ、どこかで――
「なんや、急にジロジロこっちみて」
こっちを見てそう言う頃には、元のおちゃらけた雰囲気に戻っていた。
「いや、なんでもない」
俺の中に、さっきまでとは違った意味の興味が湧いていた。
「さあ、着いたで!」
そう言って河童が指を差したのは、河川敷内の、テトラポットが乱立している区域だった。
「着いた、って言われても、ここで何するの? 鬼ごっこぐらいしかできなくね?」
「そんなこともないんよなー」
そう言って河童は、付近に掛かっていたらしい、かなり年季の入った紐を引っ張りだした。すると次の瞬間、テトラポットの下からガガガガと音を立てながら、少し縦長の入れ物が出てきた。
「じゃじゃーん、船!」
「え、マジ? どっから出てきた」
「下にうまーく隠しとったんや。それよりも、これ、どや、かっこええやろ! 川を下るなんて、粋な――」
「思ったんだけどさ、あんたこれ要らなくね?」
「要るに決まっとるやろ」
「泳げるのに?」
「お、泳ぎ疲れたら、ここで休むんや」
なぜこんなに質問攻めをしているのか、それには理由があった。
俺の中で引っかかっていたのは、船の形だった。
横幅がだいたい一メートルなのに対して、縦幅は四メートルもないし、逆に深さは五十センチぐらいはある。それに、普通、船といえば、バナナを真っ直ぐにしたような細長いものを想像するだろうが、これはその形には程遠い、むしろ――
「形が棺桶みたいやから不思議に思っとるんやろ」
俺の心を読んだかのように、河童は俺の思っていたことを当ててきた。
「ワイもほんとはもっとかっこええのが良かったんやけど、まあ……もらいもんって言うんか? まっとにかく、大事にせなあかんのよ」
河童はあまり触れないほしいと、訴えかけるような顔でこちらを見ていた。俺は、あんまり河童のことを疑いたくなかったので、なるべく考えないようにすることにした。
「ほい、早く乗らんと置いてくで」
俺は、畳一枚分ほどのスペースめがけて、テトラポットから飛び降りた。
ボートには銭湯とかに置いてある椅子が二つ置いてあったので、俺らは向かい合うように座った。とは言っても、河童は前を向いて運転していたので、顔を見合わせてはいなかったのだが。
驚いたことに、河童によるクルージングは、思っていたよりも快適だった。
川の流れが穏やかなので、揺れも少ないし、何より、河童のコントロールがすごかった。
オールなどは使わずに自分の手で漕ぐことで、水中の様子だけではなく、川全体の水の流れの方向や強弱までも把握しながらクルージングできるらしい。これにをすることで、浅瀬の岩場地帯を避けたり、流れの速いところを回避したりしながら進めるらしい。
俺は改めて、この河童が本物なんだなということを実感した。
「あんちゃん」
「わああ!」
出発して十分ぐらい経った頃だろうか。前に顔を向けながら、河童は唐突に俺を呼んだ。何も考えず、ただただ遠くの山々をぼーっと眺めていたので、体が飛び跳ねるほど驚いてしまった。
大きな声を出したことに恥ずかしくなって、顔を赤らめながら呼ばれた方に目をやってみたが、河童はこっちを振り向かなかった。後ろ姿を見ていたら、さっきの真剣な横顔が目に浮かんだ。
嫌な予感がした。
「なんで自殺しようとしたんや」
とうとう聞かれてしまった、と思った。
「別に、言いたくなかったら言わんでええよ。ただ――」
「そんな気遣いいらねーよ」
考えるより先に、体が、勝手に反応していた。
「全部あんたに話すよ」
少し驚いた様子で、河童はこちらに顔を向けた。水につけていた右手からは、水が滴り落ちていた。
「別に、大した理由じゃない。ただ、家族に見放されて、ひとりぼっちになったから、じゃあ、死んでやろうって……あれ?」
気づくと、自分の視界が、涙で歪んでいることに気づいた。拭っても拭っても、止まらない。
「なんで俺、泣いてんだ」
袖に目を擦り付けて涙を拭くが、やはり止まらない。
Tシャツの袖は、もう水を吸えないほど濡れていた。
「どうしたんだ……」
はっとして、河童の方を見上げた。
河童は、静かに、俺の方をじっと見据えていた。
また、涙が零れ落ちる。
「なんだよ……」
こういう時、どういう対応をすればよいかわからなかった。
また視界が滲んできたので、思わず右手でまぶたを抑える。呼吸が浅く、鼻水も止まらない。
「どこが大したことないやねん」
正面から、やさしい声がした。
直後、河童は俺の右肩をゆっくりとさすった。
それは、ボートの揺れよりも穏やかで、川の流れよりも力強く、そして何より、俺の心をやさしく、包み込むように温めてくれた。
「辛かったやろ? わかるで」
俺はそこでようやく、本格的に泣き崩れてしまった。河童の方に身を預け、声を出して、思いっきり泣いてしまった。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
俺はどうやら、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。クルージングは終了していて、四角い船は停泊所らしき場所に止まっていた。
河童の姿は、見当たらなかった。
とりあえず、俺は船から降りて、河童が帰ってくるのを待つことにした。
停泊所からは一本だけ、けものみちが伸びている。おそらく、河童の家か何かに繋がっているのだろう。そう思った。
俺はあぐらをかいて、対岸の遥か向こうで密集している建物たちに目をやった。
「街だ」
昨日までの日常が、脳裏に浮かんでくる。
家族は今、どうしているだろうか。心配しているだろうか。それとも、いつも通りの平凡な一日を送っているだろうか。
俺は、これからどうする? 今日一日でだいぶ気分転換にはなったが、現実は何も変わっていない。家に帰れば、またいつものように、肩身の狭い生活を強いられてしまう。
「うーん」
考えれば考えるほど、不安な気持ちが溢れてくる。
こんなとき、あの河童が横にいれば、「あんちゃん、何しけたツラしとるんや!」と言って、俺の肩をバンバンと叩くのだろう。
やっぱり――
「いいなー」
それはやはり、出会った時から変わっていない、漠然とした嫉妬だった。
もしも俺が自殺しようとしている人を見かけたとしても、あの河童とは違って、きっと助けるのに躊躇するだろう。我ながらクズだが、実際、容易に想像がつく。
「はーあ」
なぜ俺みたいなのが人間で、あいつが河童なのだろうか。なぜ俺は人間なのに、河童よりも人間として劣っているのだろうか。
自分自身の無価値さ、冷酷さ、クズさに、怒りを通り越してもはや呆れてしまう。
俺は顔を上げて、再び景色を眺めた。
さっきよりも太陽は傾き、色も鮮やかなオレンジ色に変わっていた。そして、その太陽がゆっくり沈むのにあわせて、遠くの山々の色がどんどん鮮やかな金色に変わっていく。
「綺麗だ」
とても、美しかった。
なんだか、これを見るために俺は生まれてきたんじゃないかと思うほど、美しかった。
「これが、人間の使命、なんかな」
俺は、今さらながら、助けられてよかったなと、心から思った。
絶景に見惚れているうちに、あたりが薄暗くなってきて、遠くの街には光が灯りはじめていた。
「まだおったんかい」
後ろから、聞き覚えのある声がした。
「やっぱあんちゃんやさしいな。ふつーやったら、とっくに家に帰って、家族と感動の再開しとるとこやろ」
河童の声は、トーンが妙に落ち着いていた。 俺を自殺から救った声。マシンガントークの時の声。慰める時の声。どれとも一致しなかった。
「いや、俺最近喧嘩中なんで、結構帰りずらいんだわ」
「そうやん。忘れとった」
座ったまま、河童の方を振り返る。
河童は、こっちを見ずに、遠くの夜景を眺めていた。
「また……」
また、そんな、寂しそうな目をしなくたって、いいじゃないか。
「あんた、なんでそんな寂しそうな目してんだよ」
気づけば口から出ていた。
ただの好奇心だった。目の前の生物が何を見ているのか、何を見てきたのか、知りたくなってしまった。ただ、それだけだったのだ。
河童はなぜか、高らかと笑いだした。腹を抱えて、涙を流して、疲れ果てるまで。ずーっと、笑っていた。
笑い続けているうちに疲れててきたのか、しばらくすると、河童は停泊所の端っこで仰向けになって、そして寝た。
今朝のことを再現しているのだろうか。俺は、まるで自分のリプレイを見ているようだった。
俺が目を丸くして驚いていると、河童はふふっと小さく微笑んで、そして、
「幸せだ」
と呟いた。
やはり、意味不明。
「ワイな、もうそろそろ、死ぬんよな」
全てが突然すぎて、俺の脳はついていけていなかった。が、唯一理解出来たことがひとつだけあった。
こいつは決して、冗談を飛ばしているわけではなく、本気で、俺に何かを伝えようとしている、ということ。
それから、河童は語り始めた。自分の、河童の、本当の姿を。
「河童の平均寿命って、だいたい二百年ぐらいなんやけど、実際のところ、ほとんどが二十年ぐらいで自殺してまうねん。情けないって思うやろ? ワイもはじめはそう思っとった。けど、あんちゃん達と違って、ワイら河童のほとんどは、この世に来てからずーっとひとりぼっちなんやで。そら、頭おかしなるわな。
人間っちゅーのは、オカンから産まれてくるわけやから、産まれた瞬間からそのオカンの子供っちゅーことで家族として認められるわけや。けど、ワイら河童はちゃう。
ワイらがこの世に来るときには、まず、神様みたいなやつから、『はるか昔に人間さまに捕まって、酷い目にあった河童がいた』っちゅー話を聞かされんねん。まあ、人間様をあんま信用せん方がええよっていう、忠告みたいなもんや。そして、そのあとすぐにこの船から目ぇ覚めるんやけど、ワイは目ぇ覚めたとき、水の中やったんや。多分、人間の誰かに落とされたんやろなー。そんときは、たまたま陸に自力で上がれて、皿も無事やったから何とかなったんやけど、危うく死ぬとこやったんやで。
ほんで、そっからワイは、ずーっときみらのことを信じれんくなった。まあ、当然っちゃ当然か。こわくなったんや。わざとじゃなかったとしても殺されかけた身やったから。せやから、ほんまは川辺でなんかあったら、きみらをなるべく助けなあかんはずやのに、山奥に引っ込んでビクビクしとったわ。この世に来る前、なんなら水ん中で意識が覚める直前まで、ワイはなんやかんや、きみらの中にもいいやつがおるって信じとったんや。本当やで? あの神様のことちょっと嫌いやったし。喋り方とか。せやけど、信じようって決めて人助けしようとするたんび、体が拒否するっちゅーか、なんか、急に体調がわるなんねん。ほんでゲロ吐いて、疲れて、隠れ家に帰る。その生活を何十年やったんかな。ワイも別に、好きでゲロ吐き続けとったわけちゃうけど、使命やったからな。川に行って、やることやらな、怒られんねん。
まあ、最初の一、二年は、そのうち克服できるやろって思いながらチャレンジするわけや。けどな、そんあとくらいからやな、色々考え出すわけや。ワイはなんでこんなことしとるんや、なんでこんな辛い思いして毎日生きとるんやろな、って。来る日も来る日も自分を責めて、しまいには、ワイがさっさと死んでほかの河童に譲った方がいいんやないか思いはじめたんや。そんときはもう、辛すぎて、自殺する口実が欲しかっただけやったんやろうけど、よう考えたらかっこ悪いよな。ほんでその上で、やっぱワイはビビリやから、いざ死ぬぞってなっても、死ねんかったんや。あんちゃんと一緒やな。いや、あんちゃんよりももっとかっこ悪いな。
んで、そんとき、あんちゃんが自殺しようとしとるんを感じ取ったんや。
実は、あんちゃんのこと助けに行くか、結構迷っとったんや。最低やろ? ワイのこと殺しかけたバツや、そのまま死んでまえって、まっさきに、そう思ったんや。でも、それでええんか? とも思った。ここで恨みを晴らしたところで、ワイの現状が変わるわけやない。むしろここで助けに行けば、この地獄からおさらばできるかもしれん。そう思ったんや。
……ワイは今、あんちゃんを助けに行って、ほんとうによかったって思っとる。勇気出して、本当に、よかったって思っとる。あんちゃんのおかげで、ワイは、ひとりぼっちじゃなくなったんやからな。
あー、そーか。そうやったんやな。
いやな? ワイは自殺しようとした時、涙がなんでか止まらなかったんや。けど、その謎が今解けたわ。多分、ワイは、死ぬことがこわかったんやなくて、ひとりぼっちで、誰にも知られずに、ひっそりと死ぬのがこわかったんや。そうや。ずっとずーっと、この世に来てから死ぬまで、ずーっと孤独やったのに、死ぬ時までそれを引きずりたくなかったんや。ただそれだけやったんやな……。
……あ、あんちゃん泣いとるんか? なんであんちゃんが先に泣くねん。おかしいやろ……。ワイも、なんか、涙止まらんくなってきた……。あんちゃんのせいやで! あー、ほら……止まらんやん。どうしてくれんねん…………」
そのあと、俺らはしばらくの間、泣きながら笑っていた。二人してちゃんと泣いていたのに、どちらも笑って誤魔化していた。
辺りはとっくに闇に包まれていて、俺らの泣き声だけが川辺に響き渡っていた。河童の泣き声は、ほそぼそとしていてまるで頼りなかったが、かといって、俺の泣き声は子供っぽくて聞くに絶えなかっただろう。ただ、そのアンバランスさが、妙な心地良さとなって、水面や草木に反響しつづけていた。
大声で泣いているはずなのに、とても静かだった。
まるで、俺と河童、二人の世界に閉じ込められたみたいだなと思った。
「……さて。じゃあ」
涙が枯れはじめた頃、河童は立ち上がって伸びをした。
「あんちゃんは、自分のこと責めすぎたらアカンで」
河童のそのやわらかな表情を座って下から見ていたら、別れの時が近いことを、いやでも察してしまった。
「あんた、なんで死ぬん。寿命?」
延命治療のように、河童を引き止める。
「寿命、って言いたいとこやけど、ちゃうなー。ワイの皿、見た目は綺麗なんやけど、実は中がズタズタなっとるんよな。多分、ずっとひとりぼっちで頑張っちゃったからやな」
河童は小さく笑ったが、目だけはやはり少し寂しげだった。
……あ。
思い出した。
俺は昨日の夜、鏡の前で、確かにこんな目をしていたんだ。
じゃあ、どんな言葉をかけるのがいいだろう。俺は、どんな言葉をかけられたかったのだろう。
「…………」
「じゃあ、そろそろ――」
「頑張った甲斐、あったんじゃね?」
俺は河童の言葉を遮って、ゆっくりと話した。俺からの、最期の言葉。
「あんたは、俺のヒーローだ」
人は、どうして、互いに傷つけあうのだろうか。俺はずっと不思議だった。
「あんたが居なきゃ、俺は今朝死んでたかもしれない」
たとえ傷つきあわなくとも、こいつみたいに、自分で自分に傷をつけてしまうことだって、いくらでもあるのに。
「だから」
さっきこいつ、人間の使命がなんなのか分からないって言ってたっけ。
そんなの俺らにもわからないし、わかるわけない、けど――
「ありがとう」
きっと、みんなが孤独を感じずに生きることが人間の使命だったら、誰もひとりぼっちにならずに済むのかもしれない。
「もう、頑張んなくていいから」
そしたら、この河童はもっと、楽な道を歩めたのかもしれない。
いや、今さら、もう。
「…………」
突然、許せなくなった。自分が。
自分の、愚かさ、無知さ、甘さ、何もかもが。
俺だけじゃない。悪いのは俺だけじゃない。分かっているけど、それでも、自分に強烈な怒りが湧き上がる。
この架空の生き物は、人間のエゴに殺されるのだ。河童に自分達の使命を押し付けた上で、河童と向き合うことを一切しなかったのは、紛れもなく人間なのだから。
そんなことに、俺は今さら気づいた。
「あんちゃん」
河童は俺の前にあぐらをかいて、肩をぽんぽんと叩いた。
「こちらこそ、ありがとうな」
そう言って、河童は笑ってみせた。
涙が頬を伝う。
河童が笑ったのを見たのは、これが最初で最後だった。
「あんちゃんは、よく笑うし、よく泣くやろ? ええことや。まあ……お、大人になった時、もっかい会いに行くわ。そんときは、笑って迎えてくれな」
この河童の方が、よっぽど大人じゃねえか。
死ぬ時まで、自分にきびしいのかよ。
なんでだよ、クソ。
涙を拭いているうちに、河童は立ち上がって、船の見た目をした棺桶に向かって歩いていた。
その背中に、また、涙があふれ出す。
「あんちゃん!」
突然、河童の怒鳴り声が響いた。
「男同士の別れに、涙は要らんよ。笑って見送ってくれや。うまくあの世に逝けんやろ」
俺はきっと、今日あったことを一生思い出すだろう。いや、思い出さなきゃいけない。
立ち上がって、ゆっくり河童の方へ歩みを進めた。
そして――
「誰よりも、かっこよく生きてやる。あんたに恥じないように」
「おっ、いい顔しとるな。安心して逝けそうやわ」
「そりゃ、何より」
「ワイは、今、初めて、河童でよかったって思っとる」
「なんで」
「そ、それは聞かんといてや」
「たしかに、野暮だったね」
「せやで」
「…………」
「ほんじゃ、ありがとうな」
「こちらこそ……」
「……達者で」
柱に繋いであったボロボロの紐をほどくと、河童を乗せた棺桶はあっという間に速度を上げ、そして静かに暗闇の中へ消えた。
歩いて家に帰ったのだが、思ったより遠くに行っていたらしく、着いたのは夜中の十一時前だった。
家族は、リビングで全員寝ていた。机の上には、俺のも含め、家族全員のスマホが置いてあった。
俺は、ソファで寝ている母さんの横にそっと座った。
そういえば、自己紹介のくだりで、河童は、
「ワイ泳ぎが得意やねん」
と自慢してきて、少しムカついたので、
「じゃあ見せてくださいよ」
と反抗してしまった。けど、その時はなぜか、
「まあ……気が向いたらな!」
と誤魔化していて、結局、最期まで俺の前で泳ぎを見せることはなかった。自分の特技なら自慢したくなるものだと思うのだが、なんで……?
「もしかして……」
――本当は泳げないんじゃないか?
「……いや」
あいつに限って、それは無いだろう。それに、泳ぎきったじゃないか。濁流にまみれた自分の人生を。
俺もあいつみたいに、力強く泳げるだろうか。孤独じゃないにしても、社会の荒波に勝てるだろうか。それに――
「しゅんいち……」
母さんの寝言だった。
俺は、つい、ふふっと笑ってしまった。そして、呟いた。
「幸せだ」
と。
昨日の夕立で勢いの増した川に飛び込めば、簡単に死ねるんじゃないかと思い決行。朝の五時に家を出た。
この時間なら、誰にも助けられることなく、下流まで直行できて、あわよくば死体も見つからずに神隠しできると思った。死んだあとも家族に迷惑をかけるのは、なんというか、嫌だった。
最近にしては珍しく、思いつく限り全てが順調だったような気がした。遺書もばっちり書いたし、家族にもバレすに家を抜け出してこれたし、橋に着くまで誰とも鉢合わせしなかった。順調すぎて逆に不安になるぐらいだった。
異変が起きたのは、橋に着いた後だった。
「うっ」
橋に着いて五分、俺は橋の下の濁流に向かってゲロを落としていた。
飛び降りようとするたびに死の恐怖に襲われ、嘔吐、を繰り返していた。橋に来るまで意気揚々と歩いていたのがまるで嘘のようだった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
仕方なく、俺は強行突破を諦めて、橋から数メートルの草むらに座った。
「やっぱり」
恐れていた事態が起こってしまった、と思った。
実は、昨日の夜から、ひとつだけ気がかりなことがあったのだ。
それは、こんなふうに思い立った動機がなんなのか、未だに自分でもよくわからずにいたことだった。
きっかけ自体はよくあるやつで、少し前に記念すべき十回目の就職活動に失敗した時、母親に見放され、父親に殴られ、終いには弟に、「死んじまえクソ兄貴」とまで罵倒されてしまったことだった(改めて考えると、なんてくだらないんだろう)。
ただ、これほどきっかけがはっきりしているのに、本当にそれだけが理由だったのかと自問自答してみても、なぜかそこでは、はっきりと頷くことができなかった。
結局、無駄に意地を張って、「そこまで言われたなら死んでやる!」となっているだけなのだろうか。なんだかそう考えると、自分の人生のうすっぺらさが透けているような気がして、 涙がこぼれそうになった。
「これが本当の『しぼう』動機ってやつか」
ほら、死に際だろうと、俺という人間は清々しいほどうすっぺらい。
「もういいや」
腰を上げ、ゆっくり橋まで歩いた。そして、半ば自暴自棄になりながら、目を瞑って、右足を橋の外に出した時だった。
「ちょっちょっちょっ! ストップー!」
「わああ!」
うろたえながら、尻もちをつく。
俺は、しまった、と思った。こういうのは、バレると大抵は面倒事になるに決まっている、と思っていたから。
おそるおそる振り返ると、そこには、河童の格好をした子供がいた。
俺は自分の目を疑った。なんせ、振り向いたときに俺の目に写ったのは、ありきたりな田園風景を背景に河童の画像を貼り付けたような、そんな映像だったのだから。一体誰が平然を保てるだろう。まさに、意味不明だった。
ただ、相手も俺の反応が予想外だったらしく、目を丸して固まっていた。
不自然な間ができたせいで話すタイミングを失い、俺らは二人でただただ見つめ合っていた。
遠くから、重く激しい水の音だけが絶え間なく響いていて、まるで、俺とこいつ、二人だけの世界に閉じ込められたみたいだなと思った。
「……ちょっと死ぬ前に、一日だけつきあってくれへん?」
力強い、おっさんの声が、確かに目の前の生き物から聞こえた。
「……は?」
河童というフィクションな存在が、目の前に確かに居ることを、信じれずとも信じるほか無い。そんな複雑な心持ちだったのかもしれない。
「いや、は? ってなんやねん! せっかくこっちが勇気振り絞って話しかけたのに」
それか、色々なことが同時に起こりすぎて、ただ混乱していただけなのかもしれない。
「あ、もしかしなくても、自分通報とかされてまう、って思っとったんやろ! 安心せえよあんちゃん! そんなことは絶対せえへんから」
普通の、いつもの自分だったら、何かしら理にかなった行動をしていたはずだ。
「なんで黙ってるんや」
でも、この時の俺には、どうやらそんなことを考える余裕はなかったらしい。
「おーい、大丈夫かー。あかん、こいつ目ぇ開きながら寝とる」
別に、何のことは無い。
子供の河童がおっさんの声で俺に話しかけていただけ。
「ふっ、ふふふっ、ふふふふっ」
ただ、そのギャップになぜか、俺はツボってしまったらしい。
笑いが、止まらなかった。
「ふっふっふっふ」
「おい、なにわろてんねん!」
「いや、違くて」
「違くないわ! あんちゃん、めちゃめちゃ失礼やな!」
「ふふふふっ、はははっ、はっはっはっはっはっ!」
「聞いとんのかいワレ!」
「あははははっ! はははっ!」
「まったく……」
「はー、はー、あっはっはっはっはっはっ!……」
それからしばらくの間、俺は腹を抱えて、笑い続けた。
河童の子供の見た目をしたおっさんは、さっきよりもわかりやすく、目を丸くして驚いていた。笑いがおさまってきたタイミングでそれを見てしまい、再び笑いが止まらなくなった。
腹がよじれるほど笑ったのは、一体いつぶりだったのだろうか。時間も、家族も、周りの人の目も、全部忘れて思いっきり笑ったのは、一年前の中学校の文化祭が最後だったかもしれなかった。最近に至っては、笑わなすぎて口角が上手く上げられずにいたほどだったので、相当表情筋が衰えていたのだろう。
次第に笑い疲れてきたので、なんとなく、俺は橋のど真ん中で、大の字になって寝てみた。
頭の下で、濁流がおもいっきり暴れる音が聞こえた。心も体もちっぽけな俺は、きっと一瞬で飲まれてしまうだろう。
「そろそろええか?」
けれど、今、俺の目の前には河童がいる。
「ちなみに、どこ行くか聞いていい?」
「そんなん、着いてからのお楽しみに決まっとるやんけ!」
この河童なら、きっと濁流だって乗りこなしてしまうだろう。そんな漠然とした嫉妬が頭をよぎった。
「ほれ、いつまで寝とるんや。さっさといくで」
差し伸べられた手を取り、俺は起き上がった。
河童のお皿が、きらりと光っていた。
「――あんちゃんむっちゃ笑っとったな。もしもーし、あれ、緊張しとる? まあそりゃそうか。そもそも初対面やしな。じゃあ、そやな自己紹介でもしよか! あんちゃんからええで」
「俺から? えっとー、折笠俊一、歳は十六、フリーター」
「あんちゃん十六かいな! 若いなー。身長おっきいから二十歳ぐらいかと思っとったわ! ほんで?」
「……ん?」
「いやまさか自己紹介これで終わりちゃうやろ? もっとなんかこう――」
「いや、終わりだけど? それよりも、あんたの方こそ先に自己紹介しろよ」
「まあ、たしかに。自分から名乗らんと失礼ってゆーしな。あんちゃんのゆーとおりやな。えー、ワイは見ての通り、河童やらせてもらってますー。河童知っとるやろ? 知らん日本人おらんやろうけど。たまにおんねん、『河童ってなんですかー?』って聞いてくるガキ! ほんま、どういうとこで育ったらそんな質問出てくるんやろな! 不思議やわー。ほんで、そういう子に限って……」
よく喋る河童だなと思った。
そして、やっぱり苦手だなと思った。
一度話し始めたら止まらないくせに、内容はどんどんと本筋からズレていって、最終的に何を話していたのかすら忘れる。俺の典型的に嫌いなタイプだった。
さっき初めて出会った時から薄々勘づいていたので、ある程度は覚悟していたのだが、想像以上のマシンガントークに俺は絶望していた。まあ、これを踏まえた上で俺はこいつについてきてしまったので、今更どうすることもできないのだが。
河童の自己紹介を半分流し聞きしながら、自分の脳内で特徴だけを整理していくうちに、割と日本人の想像通りの生き物だということがわかってきた。
見た目は、昔の屏風とか巻物とかから出てきたんじゃないかってぐらい河童だし、泳ぎが得意で、好きな食べ物はキュウリ。相撲も大好きで、暇な時はいつも番付表を見てニヤニヤしてるらしい。
そして、河童は時折、水辺の神様として崇め奉られるらしく(俺は知らなかった)、そのせいで、水難事故にとても敏感になってしまったらしい。実際、さっきは俺が川に飛び込む雰囲気を嗅ぎ取って、あそこまで助けにきたらしいので、相当敏感なんだなと思った。
一番びっくりしたのは、河童の弱点は頭の皿だということだった。
「君ら知らんと思うけど、河童にとって頭の皿っちゅーのは命そのものやねん。皿が汚れれば体調が悪なるし、欠ければめちゃくちゃ痛いねん」
「マジ? 知らんかった」
「せやろ。もちろん、皿がパリーンって真っ二つに割れたら死んでまうし、逆に自分が死んだら皿も砕け散る。一心同体やねん」
「じゃあ、間違ってでも皿だけは守らないといけねーんだ。大変じゃん」
「そうや」
そう言って河童は深く頷いた。
この話を聞いた時、ふと、俺には、河童の皿のような、大切にしなきゃいけないものがあるかどうか考えてみた。そして、一分もしないうちに、そんなものがあったら自殺なんか企ててないな、という結論に至り、余計に自分が嫌いになった。
まあ、それはともかく、河童にとって頭の皿は、命そのもの。泳ぐ時も皿だけは絶対水につけないらしい。
話を聞いていた限り、河童にはメリットしかないように感じていたので、意外と苦労してるんだなと思った。
目的地に着く直前、河童はこんなことを言っていた。
「河童ってのは、まあ、川辺の妖怪やから、水辺を守っとくんが使命なわけや。もちろん、ワイだけに限らず、妖怪にはそれぞれの使命があってこの世に来るし、人間以外の他の動物植物も、だいたい子孫を残すっちゅー使命で生まれてくるやろ? でも、最近思ったんは、あんたら人間の使命だけって、一体なんなんやろなーって。そう思わへん?」
河童はそれまで、めちゃくちゃおちゃらけた感じで喋ったいたのに、このときだけなぜか、真剣な顔つきになっていた。
朝日も相まってか、その横顔は息を飲むほど美しかった。深緑色の皮膚に刻まれたシワは光沢を成し、大きな瞳の上に乗ったまつ毛は、一本一本からみずみずしさを感じさせた。
ただ、一つだけ、目線だけはどこか遠くの景色を見つめていて、それがなんだかすごく寂しそうだった。
あれ、どこかで――
「なんや、急にジロジロこっちみて」
こっちを見てそう言う頃には、元のおちゃらけた雰囲気に戻っていた。
「いや、なんでもない」
俺の中に、さっきまでとは違った意味の興味が湧いていた。
「さあ、着いたで!」
そう言って河童が指を差したのは、河川敷内の、テトラポットが乱立している区域だった。
「着いた、って言われても、ここで何するの? 鬼ごっこぐらいしかできなくね?」
「そんなこともないんよなー」
そう言って河童は、付近に掛かっていたらしい、かなり年季の入った紐を引っ張りだした。すると次の瞬間、テトラポットの下からガガガガと音を立てながら、少し縦長の入れ物が出てきた。
「じゃじゃーん、船!」
「え、マジ? どっから出てきた」
「下にうまーく隠しとったんや。それよりも、これ、どや、かっこええやろ! 川を下るなんて、粋な――」
「思ったんだけどさ、あんたこれ要らなくね?」
「要るに決まっとるやろ」
「泳げるのに?」
「お、泳ぎ疲れたら、ここで休むんや」
なぜこんなに質問攻めをしているのか、それには理由があった。
俺の中で引っかかっていたのは、船の形だった。
横幅がだいたい一メートルなのに対して、縦幅は四メートルもないし、逆に深さは五十センチぐらいはある。それに、普通、船といえば、バナナを真っ直ぐにしたような細長いものを想像するだろうが、これはその形には程遠い、むしろ――
「形が棺桶みたいやから不思議に思っとるんやろ」
俺の心を読んだかのように、河童は俺の思っていたことを当ててきた。
「ワイもほんとはもっとかっこええのが良かったんやけど、まあ……もらいもんって言うんか? まっとにかく、大事にせなあかんのよ」
河童はあまり触れないほしいと、訴えかけるような顔でこちらを見ていた。俺は、あんまり河童のことを疑いたくなかったので、なるべく考えないようにすることにした。
「ほい、早く乗らんと置いてくで」
俺は、畳一枚分ほどのスペースめがけて、テトラポットから飛び降りた。
ボートには銭湯とかに置いてある椅子が二つ置いてあったので、俺らは向かい合うように座った。とは言っても、河童は前を向いて運転していたので、顔を見合わせてはいなかったのだが。
驚いたことに、河童によるクルージングは、思っていたよりも快適だった。
川の流れが穏やかなので、揺れも少ないし、何より、河童のコントロールがすごかった。
オールなどは使わずに自分の手で漕ぐことで、水中の様子だけではなく、川全体の水の流れの方向や強弱までも把握しながらクルージングできるらしい。これにをすることで、浅瀬の岩場地帯を避けたり、流れの速いところを回避したりしながら進めるらしい。
俺は改めて、この河童が本物なんだなということを実感した。
「あんちゃん」
「わああ!」
出発して十分ぐらい経った頃だろうか。前に顔を向けながら、河童は唐突に俺を呼んだ。何も考えず、ただただ遠くの山々をぼーっと眺めていたので、体が飛び跳ねるほど驚いてしまった。
大きな声を出したことに恥ずかしくなって、顔を赤らめながら呼ばれた方に目をやってみたが、河童はこっちを振り向かなかった。後ろ姿を見ていたら、さっきの真剣な横顔が目に浮かんだ。
嫌な予感がした。
「なんで自殺しようとしたんや」
とうとう聞かれてしまった、と思った。
「別に、言いたくなかったら言わんでええよ。ただ――」
「そんな気遣いいらねーよ」
考えるより先に、体が、勝手に反応していた。
「全部あんたに話すよ」
少し驚いた様子で、河童はこちらに顔を向けた。水につけていた右手からは、水が滴り落ちていた。
「別に、大した理由じゃない。ただ、家族に見放されて、ひとりぼっちになったから、じゃあ、死んでやろうって……あれ?」
気づくと、自分の視界が、涙で歪んでいることに気づいた。拭っても拭っても、止まらない。
「なんで俺、泣いてんだ」
袖に目を擦り付けて涙を拭くが、やはり止まらない。
Tシャツの袖は、もう水を吸えないほど濡れていた。
「どうしたんだ……」
はっとして、河童の方を見上げた。
河童は、静かに、俺の方をじっと見据えていた。
また、涙が零れ落ちる。
「なんだよ……」
こういう時、どういう対応をすればよいかわからなかった。
また視界が滲んできたので、思わず右手でまぶたを抑える。呼吸が浅く、鼻水も止まらない。
「どこが大したことないやねん」
正面から、やさしい声がした。
直後、河童は俺の右肩をゆっくりとさすった。
それは、ボートの揺れよりも穏やかで、川の流れよりも力強く、そして何より、俺の心をやさしく、包み込むように温めてくれた。
「辛かったやろ? わかるで」
俺はそこでようやく、本格的に泣き崩れてしまった。河童の方に身を預け、声を出して、思いっきり泣いてしまった。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
俺はどうやら、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。クルージングは終了していて、四角い船は停泊所らしき場所に止まっていた。
河童の姿は、見当たらなかった。
とりあえず、俺は船から降りて、河童が帰ってくるのを待つことにした。
停泊所からは一本だけ、けものみちが伸びている。おそらく、河童の家か何かに繋がっているのだろう。そう思った。
俺はあぐらをかいて、対岸の遥か向こうで密集している建物たちに目をやった。
「街だ」
昨日までの日常が、脳裏に浮かんでくる。
家族は今、どうしているだろうか。心配しているだろうか。それとも、いつも通りの平凡な一日を送っているだろうか。
俺は、これからどうする? 今日一日でだいぶ気分転換にはなったが、現実は何も変わっていない。家に帰れば、またいつものように、肩身の狭い生活を強いられてしまう。
「うーん」
考えれば考えるほど、不安な気持ちが溢れてくる。
こんなとき、あの河童が横にいれば、「あんちゃん、何しけたツラしとるんや!」と言って、俺の肩をバンバンと叩くのだろう。
やっぱり――
「いいなー」
それはやはり、出会った時から変わっていない、漠然とした嫉妬だった。
もしも俺が自殺しようとしている人を見かけたとしても、あの河童とは違って、きっと助けるのに躊躇するだろう。我ながらクズだが、実際、容易に想像がつく。
「はーあ」
なぜ俺みたいなのが人間で、あいつが河童なのだろうか。なぜ俺は人間なのに、河童よりも人間として劣っているのだろうか。
自分自身の無価値さ、冷酷さ、クズさに、怒りを通り越してもはや呆れてしまう。
俺は顔を上げて、再び景色を眺めた。
さっきよりも太陽は傾き、色も鮮やかなオレンジ色に変わっていた。そして、その太陽がゆっくり沈むのにあわせて、遠くの山々の色がどんどん鮮やかな金色に変わっていく。
「綺麗だ」
とても、美しかった。
なんだか、これを見るために俺は生まれてきたんじゃないかと思うほど、美しかった。
「これが、人間の使命、なんかな」
俺は、今さらながら、助けられてよかったなと、心から思った。
絶景に見惚れているうちに、あたりが薄暗くなってきて、遠くの街には光が灯りはじめていた。
「まだおったんかい」
後ろから、聞き覚えのある声がした。
「やっぱあんちゃんやさしいな。ふつーやったら、とっくに家に帰って、家族と感動の再開しとるとこやろ」
河童の声は、トーンが妙に落ち着いていた。 俺を自殺から救った声。マシンガントークの時の声。慰める時の声。どれとも一致しなかった。
「いや、俺最近喧嘩中なんで、結構帰りずらいんだわ」
「そうやん。忘れとった」
座ったまま、河童の方を振り返る。
河童は、こっちを見ずに、遠くの夜景を眺めていた。
「また……」
また、そんな、寂しそうな目をしなくたって、いいじゃないか。
「あんた、なんでそんな寂しそうな目してんだよ」
気づけば口から出ていた。
ただの好奇心だった。目の前の生物が何を見ているのか、何を見てきたのか、知りたくなってしまった。ただ、それだけだったのだ。
河童はなぜか、高らかと笑いだした。腹を抱えて、涙を流して、疲れ果てるまで。ずーっと、笑っていた。
笑い続けているうちに疲れててきたのか、しばらくすると、河童は停泊所の端っこで仰向けになって、そして寝た。
今朝のことを再現しているのだろうか。俺は、まるで自分のリプレイを見ているようだった。
俺が目を丸くして驚いていると、河童はふふっと小さく微笑んで、そして、
「幸せだ」
と呟いた。
やはり、意味不明。
「ワイな、もうそろそろ、死ぬんよな」
全てが突然すぎて、俺の脳はついていけていなかった。が、唯一理解出来たことがひとつだけあった。
こいつは決して、冗談を飛ばしているわけではなく、本気で、俺に何かを伝えようとしている、ということ。
それから、河童は語り始めた。自分の、河童の、本当の姿を。
「河童の平均寿命って、だいたい二百年ぐらいなんやけど、実際のところ、ほとんどが二十年ぐらいで自殺してまうねん。情けないって思うやろ? ワイもはじめはそう思っとった。けど、あんちゃん達と違って、ワイら河童のほとんどは、この世に来てからずーっとひとりぼっちなんやで。そら、頭おかしなるわな。
人間っちゅーのは、オカンから産まれてくるわけやから、産まれた瞬間からそのオカンの子供っちゅーことで家族として認められるわけや。けど、ワイら河童はちゃう。
ワイらがこの世に来るときには、まず、神様みたいなやつから、『はるか昔に人間さまに捕まって、酷い目にあった河童がいた』っちゅー話を聞かされんねん。まあ、人間様をあんま信用せん方がええよっていう、忠告みたいなもんや。そして、そのあとすぐにこの船から目ぇ覚めるんやけど、ワイは目ぇ覚めたとき、水の中やったんや。多分、人間の誰かに落とされたんやろなー。そんときは、たまたま陸に自力で上がれて、皿も無事やったから何とかなったんやけど、危うく死ぬとこやったんやで。
ほんで、そっからワイは、ずーっときみらのことを信じれんくなった。まあ、当然っちゃ当然か。こわくなったんや。わざとじゃなかったとしても殺されかけた身やったから。せやから、ほんまは川辺でなんかあったら、きみらをなるべく助けなあかんはずやのに、山奥に引っ込んでビクビクしとったわ。この世に来る前、なんなら水ん中で意識が覚める直前まで、ワイはなんやかんや、きみらの中にもいいやつがおるって信じとったんや。本当やで? あの神様のことちょっと嫌いやったし。喋り方とか。せやけど、信じようって決めて人助けしようとするたんび、体が拒否するっちゅーか、なんか、急に体調がわるなんねん。ほんでゲロ吐いて、疲れて、隠れ家に帰る。その生活を何十年やったんかな。ワイも別に、好きでゲロ吐き続けとったわけちゃうけど、使命やったからな。川に行って、やることやらな、怒られんねん。
まあ、最初の一、二年は、そのうち克服できるやろって思いながらチャレンジするわけや。けどな、そんあとくらいからやな、色々考え出すわけや。ワイはなんでこんなことしとるんや、なんでこんな辛い思いして毎日生きとるんやろな、って。来る日も来る日も自分を責めて、しまいには、ワイがさっさと死んでほかの河童に譲った方がいいんやないか思いはじめたんや。そんときはもう、辛すぎて、自殺する口実が欲しかっただけやったんやろうけど、よう考えたらかっこ悪いよな。ほんでその上で、やっぱワイはビビリやから、いざ死ぬぞってなっても、死ねんかったんや。あんちゃんと一緒やな。いや、あんちゃんよりももっとかっこ悪いな。
んで、そんとき、あんちゃんが自殺しようとしとるんを感じ取ったんや。
実は、あんちゃんのこと助けに行くか、結構迷っとったんや。最低やろ? ワイのこと殺しかけたバツや、そのまま死んでまえって、まっさきに、そう思ったんや。でも、それでええんか? とも思った。ここで恨みを晴らしたところで、ワイの現状が変わるわけやない。むしろここで助けに行けば、この地獄からおさらばできるかもしれん。そう思ったんや。
……ワイは今、あんちゃんを助けに行って、ほんとうによかったって思っとる。勇気出して、本当に、よかったって思っとる。あんちゃんのおかげで、ワイは、ひとりぼっちじゃなくなったんやからな。
あー、そーか。そうやったんやな。
いやな? ワイは自殺しようとした時、涙がなんでか止まらなかったんや。けど、その謎が今解けたわ。多分、ワイは、死ぬことがこわかったんやなくて、ひとりぼっちで、誰にも知られずに、ひっそりと死ぬのがこわかったんや。そうや。ずっとずーっと、この世に来てから死ぬまで、ずーっと孤独やったのに、死ぬ時までそれを引きずりたくなかったんや。ただそれだけやったんやな……。
……あ、あんちゃん泣いとるんか? なんであんちゃんが先に泣くねん。おかしいやろ……。ワイも、なんか、涙止まらんくなってきた……。あんちゃんのせいやで! あー、ほら……止まらんやん。どうしてくれんねん…………」
そのあと、俺らはしばらくの間、泣きながら笑っていた。二人してちゃんと泣いていたのに、どちらも笑って誤魔化していた。
辺りはとっくに闇に包まれていて、俺らの泣き声だけが川辺に響き渡っていた。河童の泣き声は、ほそぼそとしていてまるで頼りなかったが、かといって、俺の泣き声は子供っぽくて聞くに絶えなかっただろう。ただ、そのアンバランスさが、妙な心地良さとなって、水面や草木に反響しつづけていた。
大声で泣いているはずなのに、とても静かだった。
まるで、俺と河童、二人の世界に閉じ込められたみたいだなと思った。
「……さて。じゃあ」
涙が枯れはじめた頃、河童は立ち上がって伸びをした。
「あんちゃんは、自分のこと責めすぎたらアカンで」
河童のそのやわらかな表情を座って下から見ていたら、別れの時が近いことを、いやでも察してしまった。
「あんた、なんで死ぬん。寿命?」
延命治療のように、河童を引き止める。
「寿命、って言いたいとこやけど、ちゃうなー。ワイの皿、見た目は綺麗なんやけど、実は中がズタズタなっとるんよな。多分、ずっとひとりぼっちで頑張っちゃったからやな」
河童は小さく笑ったが、目だけはやはり少し寂しげだった。
……あ。
思い出した。
俺は昨日の夜、鏡の前で、確かにこんな目をしていたんだ。
じゃあ、どんな言葉をかけるのがいいだろう。俺は、どんな言葉をかけられたかったのだろう。
「…………」
「じゃあ、そろそろ――」
「頑張った甲斐、あったんじゃね?」
俺は河童の言葉を遮って、ゆっくりと話した。俺からの、最期の言葉。
「あんたは、俺のヒーローだ」
人は、どうして、互いに傷つけあうのだろうか。俺はずっと不思議だった。
「あんたが居なきゃ、俺は今朝死んでたかもしれない」
たとえ傷つきあわなくとも、こいつみたいに、自分で自分に傷をつけてしまうことだって、いくらでもあるのに。
「だから」
さっきこいつ、人間の使命がなんなのか分からないって言ってたっけ。
そんなの俺らにもわからないし、わかるわけない、けど――
「ありがとう」
きっと、みんなが孤独を感じずに生きることが人間の使命だったら、誰もひとりぼっちにならずに済むのかもしれない。
「もう、頑張んなくていいから」
そしたら、この河童はもっと、楽な道を歩めたのかもしれない。
いや、今さら、もう。
「…………」
突然、許せなくなった。自分が。
自分の、愚かさ、無知さ、甘さ、何もかもが。
俺だけじゃない。悪いのは俺だけじゃない。分かっているけど、それでも、自分に強烈な怒りが湧き上がる。
この架空の生き物は、人間のエゴに殺されるのだ。河童に自分達の使命を押し付けた上で、河童と向き合うことを一切しなかったのは、紛れもなく人間なのだから。
そんなことに、俺は今さら気づいた。
「あんちゃん」
河童は俺の前にあぐらをかいて、肩をぽんぽんと叩いた。
「こちらこそ、ありがとうな」
そう言って、河童は笑ってみせた。
涙が頬を伝う。
河童が笑ったのを見たのは、これが最初で最後だった。
「あんちゃんは、よく笑うし、よく泣くやろ? ええことや。まあ……お、大人になった時、もっかい会いに行くわ。そんときは、笑って迎えてくれな」
この河童の方が、よっぽど大人じゃねえか。
死ぬ時まで、自分にきびしいのかよ。
なんでだよ、クソ。
涙を拭いているうちに、河童は立ち上がって、船の見た目をした棺桶に向かって歩いていた。
その背中に、また、涙があふれ出す。
「あんちゃん!」
突然、河童の怒鳴り声が響いた。
「男同士の別れに、涙は要らんよ。笑って見送ってくれや。うまくあの世に逝けんやろ」
俺はきっと、今日あったことを一生思い出すだろう。いや、思い出さなきゃいけない。
立ち上がって、ゆっくり河童の方へ歩みを進めた。
そして――
「誰よりも、かっこよく生きてやる。あんたに恥じないように」
「おっ、いい顔しとるな。安心して逝けそうやわ」
「そりゃ、何より」
「ワイは、今、初めて、河童でよかったって思っとる」
「なんで」
「そ、それは聞かんといてや」
「たしかに、野暮だったね」
「せやで」
「…………」
「ほんじゃ、ありがとうな」
「こちらこそ……」
「……達者で」
柱に繋いであったボロボロの紐をほどくと、河童を乗せた棺桶はあっという間に速度を上げ、そして静かに暗闇の中へ消えた。
歩いて家に帰ったのだが、思ったより遠くに行っていたらしく、着いたのは夜中の十一時前だった。
家族は、リビングで全員寝ていた。机の上には、俺のも含め、家族全員のスマホが置いてあった。
俺は、ソファで寝ている母さんの横にそっと座った。
そういえば、自己紹介のくだりで、河童は、
「ワイ泳ぎが得意やねん」
と自慢してきて、少しムカついたので、
「じゃあ見せてくださいよ」
と反抗してしまった。けど、その時はなぜか、
「まあ……気が向いたらな!」
と誤魔化していて、結局、最期まで俺の前で泳ぎを見せることはなかった。自分の特技なら自慢したくなるものだと思うのだが、なんで……?
「もしかして……」
――本当は泳げないんじゃないか?
「……いや」
あいつに限って、それは無いだろう。それに、泳ぎきったじゃないか。濁流にまみれた自分の人生を。
俺もあいつみたいに、力強く泳げるだろうか。孤独じゃないにしても、社会の荒波に勝てるだろうか。それに――
「しゅんいち……」
母さんの寝言だった。
俺は、つい、ふふっと笑ってしまった。そして、呟いた。
「幸せだ」
と。
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