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15.北の森

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 城を出発して一日半。休み少なに馬を走らせれば、本来なら二、三日はかかるであろうところを、随分縮めて目的地に到着できた。

 北の森と最寄りの街の間には丘陵地帯が広がり、森の境にはなぞるように白詰草が群生していた。開花時期の長いこの花は、盛りの春を過ぎたといえどまだ衰えを見せず、辺りにはまだたくさんの可愛らしい白小花が野から頭を出している。
 幸福の象徴として名高い白詰草は、しかし魔物には嫌われているらしく、彼らが野を越えてやってくることは滅多にない。どうやらこの香りが苦手なようだった。
 その特徴から「聖女の遣い」の愛称で親しまれ、冬にはこの花を材料にしたこうが、魔除けとして辺り一帯で焚かれる。早朝、寒空の下で各地の見習い僧侶達が静々と香を焚いて回る様は、荘厳でどこか神々しく冬の風物詩となっていた。

 テオドアは馬をとめると、生い茂る三つ葉の上に足を下ろした。聖女の遣いが護る一線を越えれば、その先は魔物の巣食う黒い森だ。日々巡警で回るそれとは比にならないほど深いこの森は、当然、ひしめく魔物の数も質も違う。後ろに続く二人に「警戒を怠るな」と一言伝えると、自身も気を引き締めるつもりで鎧の紐を締め直した。


***


 「…………静かですね。」

 森に入り込んでから半刻、ジミルがぽつりと呟く。
 慣れぬ土地とどこから襲いかかるかわからぬ脅威に三人とも神経を研ぎ澄ませていたが、深緑しんりょくの木々はひっそりと静まり返り、魔物一匹出てきやしない。

「てっきり小鬼ゴブリン鉤爪犬ファングあたりには襲われると思っていたが……まあ魔物に遭遇しないならそれに越したことはない。しかしこうも静かだと……拍子抜けを通り越して、もはや気味が悪いな。」

 クォーツが辺りを見回しながら眉根を寄せる。テオドアも同じ意見だった。この森は静かすぎだ。響くのは風に揺られる木々のざわめきと、三人と三頭の馬の足音だけ。野鳥の囀り一つ聞こえない。

「どう思う、テオドア?」
「どうって……まあ、逃げたか隠れたかだろうな」

 ヘルハウンドの気配を察知して

 どうやら二人も同じ意見のようだった。

「とりあえず、そろそろ馬に乗って進みましょうか。他に魔物がいやはいないみたいだし。辺りに大魔犬ひょうてきの形跡もありません。今は慎重に進むより一刻も早くやつを見つけるべきだ」
「その通りだな。あんま遅くなって日が暮れちまったら最悪だ。……夜戦は控えたい」

 ジミルの意見に従って三人とも馬に跨る。
 不気味な静寂を振り切るかのように、軽快に馬を出発させた。


***


 それを見つけたのは、この森に入ってから三時間ほど経った頃だった。

 もうあと一、二時間後に日没が迫り、皆の気が急ぐ。テオドアが心の内で進路転換も考え始めた、その時。

「……副隊長、ちょっとこれ!!クォーツさんもこっちへ!!」

 ジミルが興奮気味に叫ぶ。おそらく標的の手がかりを見つけたのだと悟った。水辺に寄ると予測し川沿いに北上したのは正解だったようだ。
 半ば安堵の気持ちでジミルの呼び声に応えたテオドアは、しかし次の瞬間、目の前の光景にぴたりと凍りついた。
 
「なん……だ、これ……」

 そこにあったのは、大きな熊の死骸であった。否、正確には熊型の魔物か。成獣の数倍ある背丈、巨大な角や不自然にまで発達した牙を持つそれは、人の知る熊とは違った。普段仕事で駆り慣れているテオドアも、この魔物は初めて見る。鉤爪犬ファング魔猪ビックボアといった、普段見かける大きめの魔物よりも二回りは大きい。

(多分、この森のボス……だったんだろうな)

 死してなお醸し出される強者の風格からそれが伺えた。突如現れた無作法な新参者を追い返す為、果敢に戦ったのだろう。そしてあっけなく殺されてしまった。
 腹を無惨に切り裂かられたこの森の親玉に、一抹の憐れみがよぎる。しかしそれも束の間、それを遥かに上回る恐怖が、瑣末な憐憫を簡単に押し流した。

(こいつ一匹仕留めるのだって、俺たち三人じゃ厳しいかもしれないのに、それを一撃で、ねえ)

 傷口からはみ出す腐りかけのはらわたに、蛆や小蝿が無数にたかる。その様子に背筋が粟立った。明日には自分がこうなっているかもしれない。
 だがそれでも、立ち向かわねばならぬのだ。

「うわっ、なんだこれ」

 ジミルの声にはっと我に返る。彼は既に別の場所を調べ始めていた。水辺の様子を見ながら眉を顰めている。

「どうした?」
「見てくださいよ。ここだけ焼け野原」

 森の中でも比較的開けているこの場所は、土地の傾斜もほとんどなく、勾配ゆえ激しくなった川上の水流がちょうど落ち着くところのようだ。それゆえに流れ落ちてきた水の溜まり場となっており、川というよりは湖と呼ぶべき地形をなしている。
 たゆたう湖面の周りを、地を這うように生えた野草が囲う。生命力逞しい彼らが、しかし一部分だけぽっかりと穴が空いたようになくなっており、乾いた焦土が剥き出しになっていた。

「ヘルハウンドがここで喉の渇きを潤したのだろうな。水面に口をつけた時、吐息で周りの草木は焼き枯れてしまったのだろう」
「多分そうでしょうね。でも一つ気になることもあって、あっちの水面、なんでか凍ってるんですよ」

 クォーツの冷静な分析に対し、ジミルが言葉を付け足す。彼の指した方を見れば、焦土から少しずれた湖面の一部が確かに凍りついていた。隣接する地の草木にも霜が降りている。今度はテオドアが眉を顰めた。

「……なあジミル、あの時ヴォモイ大臣は確かに“ヘルハウンド”って言ったよな?」
「え?あ、はい。そう……ですけど」

 それが何かと言いたげに首を傾げる。

「……そうだよな。や、なんでもない。それじゃ、そろそろ出発するか。やっこさんの手がかりも掴めたことだ。ここからはこの馬鹿でかい足跡を追ってけば辿り着くだろう」

 凄惨な死骸や不自然な景観に気を取られおなざりになっていたが、その場には共に巨大な肉球の跡が散らばっていた。

「……足跡だけなら可愛いんだけどな」

 頓珍漢な独り言に、何言ってんですかあんたとツッコミが入った。
 足跡は川上の方に続いている。ここにきて大きな手がかりを得られたのは幸いだ。三人とも馬に跨るとすぐさまその場を発つ。
 日暮れまであまり時間がない。その焦りは馬の脚にも如実に現れた。走りながら眼下の足跡に目を落とす。

(ほんと、これだけ見れば可愛いのにな)

 この大きな肉球だけであれば、正体は可愛い大型犬かもなどと楽観的な期待ももてただろう。……いや、流石にこの大きさでは無理があるか。

 ヘルハウンド、炎の息を吐く巨大な魔犬。

(本当にそうなのか?)

 凍りついた湖面が、霜で枯れた草木が脳裏に浮かぶ。嫌な汗が背筋を伝う。
 駿馬の脚をもってしても、テオドアの小さな不安を振り切ることはできなかった。
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