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03.厨房-1
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香ばしい香りが鼻腔をかすめる。そろそろかと思いオーブンを開けば、そこにはふっくらと丸みを帯びた、つややかなパンが並んでいた。ビアは木製ピールでそれらを取り出すと、口元に満足げな弧を描かせる。
「レーナさん、きれいに焼けましたよ!」
「ああ、そうかい。それじゃ、調理台に並べて冷ましておいてくれ。」
「はい!」
中年のメイドの指示通り、ビアは調理台にあった網の上に、今しがた取り出したばかりのパンを並べていった。
「ああ、今日の出来は特にいいねえ。やっぱりビアに厨房の仕事を任せたのは正解だったよ。」
レーナと呼ばれた中年メイドが、並べられたパンを見て満足げに白い歯を見せた。その言葉に思わず頬が紅潮する。
(よかった――)
人知れず胸を撫で下ろすと、ビアは少し前の過去を振り返る。
(よかった。あの日、メイドにしてくれと進言してみて――)
一ヶ月前――
ちょうどビアが三十職目の適正審査を終えた時。確か最後は占い師だったか、よく分からないお香や水晶を持ってきて未来を占ってみてくれと言われた時はどうしようかと思ったものだ。
三十も試してダメとなれば、さすがのビアも堪えてしまった。召喚からちょうどニヶ月経った日でもあった為、これがダメならともう腹は決めていたのだ。自室で少し休憩を挟むと、ビアはフェリクスの執務室へと足を運んだ。
「失礼、もう一度おっしゃっていただけますでしょうか?」
最初に提案した時、フェリクスはまるで事態が飲み込めないといった様子で目を点にしていた。
「……ですから、どうか私を、この城でメイドとして雇っていただけませんでしょうか?」
なぜ、と言いかけてフェリクスがそのまま言葉を飲み込む。すぐ理由に察しがついたのだろう。彼はほんの少しだけ逡巡したが、すぐにいつもの優しい笑顔でビアに微笑みかけた。
「ビア様、少しお疲れでしょう。しばらくお休みを挟んでみてはいかがでしょうか?こちらも無理なスケジュールを組んでしまって申し訳なかった。」
「……フェリクス様……」
「ああ、少し遠出をするのはどうでしょうか?いい気分転換になると思いますよ。城内ばかりで過ごしていては気が滅入ってしまいますよね。ちょうど北の方に景色の良い湖があるんです。この時期は過ごしやすいと思うなあ。都合がつけばぜひ僕もご一緒しましょう。」
「……フェリクス様っ!!」
取り合おうとしないフェリクスに、ビアの語気は思った以上に強くなる。
「……フェリクス様、私はもう、嫌なのです。救国の乙女と謳われながら、なんの役にも立たない自分が。この不甲斐なさが辛いのです。」
「ビア様……」
「お願いします。ここで働かせてください。私を救国の乙女ではなく、一介の使用人として扱ってください!!」
「…………」
結局その願いは半分ほど叶えてもらうかたちとなった。なんだかんだビアは救国の乙女の座を降りることは許されず、今も豪華な自室をあてがわれたままだ。しかし、適正審査はしばらく休止となり、代わりに普段の生活ではメイドとして働くことを許された。と言っても、任されるのはごく簡単な仕事のみで、お遊びと言われても仕方ないレベルなのだが。
この件で上はだいぶ揉めたそうだが、最終的にビアの精神衛生面を優先するということでまとまったらしい。自分では気づいていなかったが、この頃のビアはかなりひどくやつれていたそうだ。気が触れて自殺でもされたらたまったものではないと考えたのだろう。
たとえままごとのような仕事でも、与えてもらえることはビアにとってとても嬉しいことであった。主に掃除、洗濯、炊事の三つだけだったが、毎日嬉々として取り組んだものである。特に炊事に関しては、現実世界では一人暮らしのOLでつい外食に頼りがちだったこともあり、反省も兼ねて熱心に取り組んだ。
(あの頃はただ面倒臭かったけど、いざ真面目にやってみると、結構楽しい……かも……)
調理器具が揃い、すぐそばに教えてくれる人もいる最高の環境のおかげな気もするが、それでもこれは大きな一歩だ。まず好きになる、そのワンステップが何事においても一番難しい。
最後の一つ並べ終えたビアは、改めて網の上に並ぶパンを眺める。やはりレーナの言った通り、今日の出来は一段と良い。
(あれ…?)
ふと、小さな違和感を覚える。最後に並べたパンだけ、他より一回りほど小さい気がするのだ。ビアが生地を捏ねていた時は均等を意識していたので、多少の差異はあれどここまで分かりやすく小さいものはできないはず。となるとレーナが意図的なやったのだろうか。
「レーナさん、これだけ妙に小さいんですが……」
「ああ、そいつはそのまんまで大丈夫だよ。うん、そろそろあの子がくる頃合いだね。悪いけど――」
レーナが話し終える前に、廊下の方から彼女を呼ぶ声が響いた。声音からしてどうやらメイド長のようだ。レーナは小走りで声のした方へ向かうと、厨房から出る寸前にビアの方をくるりと振り返ってこう言った。
「悪いけど、その小さいパンと棚にあるクッキーを紙袋に入れておいてくれるかい?そのうち腹減りテオ坊が来るからね。もし私が戻る前に坊やがきたら、悪いけどあんたが代わりにそれを渡しといてくれ。」
レーナは悪戯っぽい笑みを浮かべると、すぐさまその場を離れていった。
「厨房の裏口、三回ノックが合図だよ」
そんな台詞を残して。
「腹減り、テオ坊……?」
レーナの言った不思議な単語を繰り返す。はて、そのテオ坊とは一体誰のことやら。
(坊やって言ってたし、おそらく男の子よね。そういえば、最近よく庭師のお手伝いをしている子を見かけるわ。)
確か庭師の孫息子だったろうか。今の庭師の後釜として、せっせと仕事に励んでいる少年をよく見かける。おそらくその子がテオ坊なのだろう。
(食べ盛りの男の子だもん、お腹が減るわよね。)
きっと小さな庭師見習いの為に、レーナがこっそりおやつを分けてあげているのだ。ビアはそう結論づけると、早速紙袋にパンとクッキーを詰め始めた。可愛い少年が隠れて厨房裏にお菓子をとりに来る姿を想像すると、なんとも微笑ましい。ビアがつい浮かべてしまったニヤけ顔をせっせと引き伸ばしている時だった。
トントントンと三回、裏口の戸を叩く音がした。
(来た……!!)
準備したての紙袋を手に取ると、ビアはそそくさと裏口へ向かう。なぜか妙にテンションが上がる。
「は~い、こんにちはテオく……」
「うぃーすっ、レーナさんこんにちは~!!今日も腹減りテオ坊が来ましたよ~わはは!!あ、これお土産、頼まれてたハーブ。採れたてほくほく。」
一瞬、時が止まる。ビアの身体は硬直して動かない。なぜなら目の前に立っていたのは小さな少年ではなく――
――ビアの背丈をゆうに二十センチは越えるだろう、野太い声をした青年だったからだ。
「レーナさん、きれいに焼けましたよ!」
「ああ、そうかい。それじゃ、調理台に並べて冷ましておいてくれ。」
「はい!」
中年のメイドの指示通り、ビアは調理台にあった網の上に、今しがた取り出したばかりのパンを並べていった。
「ああ、今日の出来は特にいいねえ。やっぱりビアに厨房の仕事を任せたのは正解だったよ。」
レーナと呼ばれた中年メイドが、並べられたパンを見て満足げに白い歯を見せた。その言葉に思わず頬が紅潮する。
(よかった――)
人知れず胸を撫で下ろすと、ビアは少し前の過去を振り返る。
(よかった。あの日、メイドにしてくれと進言してみて――)
一ヶ月前――
ちょうどビアが三十職目の適正審査を終えた時。確か最後は占い師だったか、よく分からないお香や水晶を持ってきて未来を占ってみてくれと言われた時はどうしようかと思ったものだ。
三十も試してダメとなれば、さすがのビアも堪えてしまった。召喚からちょうどニヶ月経った日でもあった為、これがダメならともう腹は決めていたのだ。自室で少し休憩を挟むと、ビアはフェリクスの執務室へと足を運んだ。
「失礼、もう一度おっしゃっていただけますでしょうか?」
最初に提案した時、フェリクスはまるで事態が飲み込めないといった様子で目を点にしていた。
「……ですから、どうか私を、この城でメイドとして雇っていただけませんでしょうか?」
なぜ、と言いかけてフェリクスがそのまま言葉を飲み込む。すぐ理由に察しがついたのだろう。彼はほんの少しだけ逡巡したが、すぐにいつもの優しい笑顔でビアに微笑みかけた。
「ビア様、少しお疲れでしょう。しばらくお休みを挟んでみてはいかがでしょうか?こちらも無理なスケジュールを組んでしまって申し訳なかった。」
「……フェリクス様……」
「ああ、少し遠出をするのはどうでしょうか?いい気分転換になると思いますよ。城内ばかりで過ごしていては気が滅入ってしまいますよね。ちょうど北の方に景色の良い湖があるんです。この時期は過ごしやすいと思うなあ。都合がつけばぜひ僕もご一緒しましょう。」
「……フェリクス様っ!!」
取り合おうとしないフェリクスに、ビアの語気は思った以上に強くなる。
「……フェリクス様、私はもう、嫌なのです。救国の乙女と謳われながら、なんの役にも立たない自分が。この不甲斐なさが辛いのです。」
「ビア様……」
「お願いします。ここで働かせてください。私を救国の乙女ではなく、一介の使用人として扱ってください!!」
「…………」
結局その願いは半分ほど叶えてもらうかたちとなった。なんだかんだビアは救国の乙女の座を降りることは許されず、今も豪華な自室をあてがわれたままだ。しかし、適正審査はしばらく休止となり、代わりに普段の生活ではメイドとして働くことを許された。と言っても、任されるのはごく簡単な仕事のみで、お遊びと言われても仕方ないレベルなのだが。
この件で上はだいぶ揉めたそうだが、最終的にビアの精神衛生面を優先するということでまとまったらしい。自分では気づいていなかったが、この頃のビアはかなりひどくやつれていたそうだ。気が触れて自殺でもされたらたまったものではないと考えたのだろう。
たとえままごとのような仕事でも、与えてもらえることはビアにとってとても嬉しいことであった。主に掃除、洗濯、炊事の三つだけだったが、毎日嬉々として取り組んだものである。特に炊事に関しては、現実世界では一人暮らしのOLでつい外食に頼りがちだったこともあり、反省も兼ねて熱心に取り組んだ。
(あの頃はただ面倒臭かったけど、いざ真面目にやってみると、結構楽しい……かも……)
調理器具が揃い、すぐそばに教えてくれる人もいる最高の環境のおかげな気もするが、それでもこれは大きな一歩だ。まず好きになる、そのワンステップが何事においても一番難しい。
最後の一つ並べ終えたビアは、改めて網の上に並ぶパンを眺める。やはりレーナの言った通り、今日の出来は一段と良い。
(あれ…?)
ふと、小さな違和感を覚える。最後に並べたパンだけ、他より一回りほど小さい気がするのだ。ビアが生地を捏ねていた時は均等を意識していたので、多少の差異はあれどここまで分かりやすく小さいものはできないはず。となるとレーナが意図的なやったのだろうか。
「レーナさん、これだけ妙に小さいんですが……」
「ああ、そいつはそのまんまで大丈夫だよ。うん、そろそろあの子がくる頃合いだね。悪いけど――」
レーナが話し終える前に、廊下の方から彼女を呼ぶ声が響いた。声音からしてどうやらメイド長のようだ。レーナは小走りで声のした方へ向かうと、厨房から出る寸前にビアの方をくるりと振り返ってこう言った。
「悪いけど、その小さいパンと棚にあるクッキーを紙袋に入れておいてくれるかい?そのうち腹減りテオ坊が来るからね。もし私が戻る前に坊やがきたら、悪いけどあんたが代わりにそれを渡しといてくれ。」
レーナは悪戯っぽい笑みを浮かべると、すぐさまその場を離れていった。
「厨房の裏口、三回ノックが合図だよ」
そんな台詞を残して。
「腹減り、テオ坊……?」
レーナの言った不思議な単語を繰り返す。はて、そのテオ坊とは一体誰のことやら。
(坊やって言ってたし、おそらく男の子よね。そういえば、最近よく庭師のお手伝いをしている子を見かけるわ。)
確か庭師の孫息子だったろうか。今の庭師の後釜として、せっせと仕事に励んでいる少年をよく見かける。おそらくその子がテオ坊なのだろう。
(食べ盛りの男の子だもん、お腹が減るわよね。)
きっと小さな庭師見習いの為に、レーナがこっそりおやつを分けてあげているのだ。ビアはそう結論づけると、早速紙袋にパンとクッキーを詰め始めた。可愛い少年が隠れて厨房裏にお菓子をとりに来る姿を想像すると、なんとも微笑ましい。ビアがつい浮かべてしまったニヤけ顔をせっせと引き伸ばしている時だった。
トントントンと三回、裏口の戸を叩く音がした。
(来た……!!)
準備したての紙袋を手に取ると、ビアはそそくさと裏口へ向かう。なぜか妙にテンションが上がる。
「は~い、こんにちはテオく……」
「うぃーすっ、レーナさんこんにちは~!!今日も腹減りテオ坊が来ましたよ~わはは!!あ、これお土産、頼まれてたハーブ。採れたてほくほく。」
一瞬、時が止まる。ビアの身体は硬直して動かない。なぜなら目の前に立っていたのは小さな少年ではなく――
――ビアの背丈をゆうに二十センチは越えるだろう、野太い声をした青年だったからだ。
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