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米と麦

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28.夏休み 街(Ⅳ)

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 気が付くと、薄暗い路地裏を一人歩いていた。どうやら街の東側に来ていたようだ。道の端には柵が続いており、少し下を覗けばそこには河が流れていた。涼しげな水の音が耳に心地よく響く。少し先を見れば、簡素な橋が架かっている。アンジェはそのちょうど真ん中まで渡ると、ふうっとため息を吐きそのままぼんやりと河を眺めた。パティとカーティスはもう広場に戻っただろうか。少し心配ではあるものの、今はとても戻る気にはなれなかった。

(いつだって私が悪いのよね。)

 アンジェは瞳を閉じると、先ほど会ったいけ好かない眼鏡男の顔を思い浮かべる。ことあるごとに突っかかってくる口うるさい堅物委員長。まさか夏休みまで出くわすとは……。普段の自分の行いを省みれば、今日責められたのも当然のことなのかもしれない。だが、理由も聞かずに悪者と決めるけられるのは、さすがに傷つくものがある。

(そう、いつだって悪者は私…)

 思えば小さい頃からよく非難される人生だった。それもこれも、音楽名家のデュシェーヌ家に、才を持たぬまま生まれたが為だ。自分には両親や姉達のような秀でた音楽の才能はない。そのことについて、家族こそ自分を責めなかったが、厳しい音楽の先生や社交界で出会う貴族連中はいつもアンジェの実力不足を非難し、嘲った。
(だって仕方ないじゃない、頑張っても出来ないんだから。)

 そう、世の中には持つ者と持たざる者がいる。勉強も、運動も、芸術や趣味、特技だって、まずは才能がモノを言い、それを持たぬ者はどんなに頑張ったって、結果など残せやしないのだ。自分がいい例じゃないか。毎日毎日、朝から晩まで様々な楽器を練習したというのに、どれもたいした結果を残すことはできなかった。一方で、姉達は少し練習をしただけでどんなコンクールでも優秀な成績を修めていたのだから、我ながら嘲笑わらえてしまう。
 ダメな人間はどうやったって駄目。でも…いや、だから? 世間はそういった人間を否定する。

(じゃあいったい、私はどうすればいいのかしら?)

 思わず自嘲がこみ上げる。いっそ、眼下で揺らぐ河の水のように、どこか遠くへ流れて消えてしまえれば、どんなに楽だろうか。
 せせらぎの音が心地よい。ちょうど人もいないことだし、少しくらいならと歌を口ずさみ、止める。

『…準備室に用があってきたらきれいな歌声がしたから、ちょっと覗いてみたくなってしまったの。』
『歌うのが好きでしたら、秋の文化祭で歌唱大会に出てみてはいかがかしら?』
『あの時最後に伝えた言葉、あれは本心から言ったものよ。』

 ふいに思い出した言葉を振り払おうと、頭をぶんぶんと横に振る。

(そんなわけないじゃない、何をやってもてんで駄目な「落ちこぼれのアンジェ」様なのよ?)

 歌うのは小さい頃から好きだった。心地良いし、気分がほぐれる。でも、だからこそ誰にも聞かれたくなかった。どうせ才がないのだから、どうせ否定されてしまうのだから、せめて一人で楽しむことくらい赦してくれてもいいじゃないかと。家族にすらずっとひた隠しにしてきた。
 昔、家で歌唱力のテストも行われたことがあった。楽器がだめなら歌はどうだと、お抱えの音楽教師が苦肉の策で出した案だ。しかし、その時アンジェはわざと音を外して歌うように努めた。これ以上否定されて傷つきたくなかったのだ。

(なのに、なんでよりによって、あんな才能を絵に描いたような子に…)

 ぎゅっと唇を強く噛む。正直なところ、クラリスに悪意があろうがなかろうがどうでもよかった。ただ、放っておいてほしいのだ。長年大事に隠してきた宝物を、無闇に暴かないでくれれば、それでいい。

 ふと、背後から勢いよく駆けてくる足音が響く。それはすぐに大きくなり、地を踏む振動がアンジェにも伝わるほど近くなったところで急に止んだ。

「やっと見つけたぞ。…まったく、随分変わったところに来てくれたものだ。」

 振り返れば、先ほど会った眼鏡男が、はあはあと肩で息をしながら立っていた。広場からずっと走ってきたのだろうか、額には汗がにじんでいる。アンジェはここに来るまでに結構な回数道を曲がったので、もし見失っていたならおそらく最短ルートではこれなかったはずだ。道に迷った時間も含めると、かなりのスピードでここに来たことになる。

「クラリスから聞いたぞ。どうやらことの発端は彼女の発言だったらしいな。事情も聞かず君を悪者と決めつけて、本当にすまなかった。」
「……まさか、それを言う為だけにここまでいらっしゃったの?…委員長様は随分真面目な方なのね。」
「クラリスは君を傷つけたことをたいそう気に病んでいたぞ。……悪いが許してやってくれないか?」
「…………ふーん、あの子、そんな話までしたの。」
「僕が無理矢理問い詰めたんだ、責めないでやってくれ。」
「……ずいぶんあの子の肩を持つのね。やっぱり委員長様は優等生に甘いのかしら?」
「…? 何を言っているんだ。彼女は僕の友達だから弁解しているんだ。」
「あらそう。まあ、そういうことにしておきましょうか。…ああ、あとわたくし、別に傷ついたりしてませんわ。あの日だってたまたま気が向いてあそこに忍び込んだだけで、盗み見されたのは少し不愉快でしたが、今更気にしてませんし。……全部余計な心配でしてよ?」
「…ならなぜさっきあんなに激情していたんだ?」

 ハワードの鋭い質問に、アンジェの顔が急にこわばる。そのまま、声を低くして忌々しげに吐き捨てた。

「…貴方に関係ないでしょう?」

 豹変した態度に、ハワードは一瞬気圧されたものの、そのまま言葉を続ける。

「…君は歌が上手いそうじゃないか。なぜ他人に聞かれたくないかは問わないが、音楽室はいつ誰が来るか分からん。これからは事前に予約をしておいた方が…」
「だから、貴方達には関係のないことでしょう!!!!」

 彼の言葉が終わらぬうちに、アンジェが声を荒げた。唇が怒りでわなないていている。

「貴方に…貴方達に何が解るのよ……どうせ皆知っているんでしょう?だからわざわざ必要以上に同情してくれるのよねえ?あたしがデュシェーヌ家の恥さらし、『落ちこぼれのアンジェ』だから!!」
「……」
「いいわよね、貴方達は。はじめから"持ってる"側の人間だもの……学年委員長も氷の魔女も、才能のある人しかなれないわよ。そんな、生まれつき優遇された人達に何をやっても駄目な私の気持ちなんて、分かるはずないでしょう!?…どうせ内心、可哀想な奴だって馬鹿にしてるんじゃないの?………同情とかいう御託はいいから、もう放っておいてよ!!」

 堰を切ったように話し出したアンジェを、ハワードはじっと見つめていた。普段どんなに注意されても、飄々と笑ってあしらうアンジェ。そんな彼女が今、自分からしたらほんの些細なことで、こんなにも取り乱している。その怒声を、自嘲を、嫉妬を、憎悪を、ハワードは一語一句余すことなくただただ聞いていた。
 やがて彼女の言葉が途切れると、ハワードは一つ深く溜息を吐いて、口を開いた。

「…………なるほどね。君が落ちこぼれと呼ばれる所以ゆえんが分かったよ。」

 ぱんっと、乾いた音が空に響いた。
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