54 / 73
第四章 啼いて血を吐く魂迎鳥
第十六話 十通目の手紙㈡
しおりを挟むノートヴォルトは返事もせず演奏を始めてしまった。
背中にチェロの膨らみのある音を受けつつ、努めて冷静に、何事もなかったかのように、静かに扉を開け、外に出るとそっと閉めた。
数歩だけ冷静を装い続け歩いた後、トイレまで全力疾走した。
コンサートホールの控室など誰も来ないだろうが、廊下の先にあるトイレの個室に駆け込むと、深呼吸する。
反則だ。あの顔は反則。どうしよう、だめだ、かっこいい、顔だけはかっこいい。
落ち着け。6年間気にしたこともなかったじゃない。
吸って、吐いて、はいゆっくりー
なんで今になって。
なんで今更こんなことに!?
待って、落ち着け、先生のデスクを思い出すんだ。あのだらしなさ。
ローブだってよれよれだし、いつ洗ってるかわかんないし。
シャツも不思議なにおいしたし。
シャツ…先生のシャツを着てしまったんだ。
ちがうちがうちがう、おちつけーー。
カチャリ。
個室の鍵を開け、誰もいないとわかっているトイレの様子を隙間から伺う。
よし、誰もいない。
無駄に手を洗い、無駄に顔を洗うと、ポケットのハンカチはびしょびしょになってしまった。
「いいのは顔だけ。そう、他はダメ。日常生活が壊滅的すぎる。大丈夫。練習に集中しよう、集中」
そもそも顔がいいからって急になんなんだ。
私も頭が緩いな。
宮廷魔術師にキャーキャー言ってる最前列女子と変わらないじゃない。
あの女子たち、あの魔術師並に先生が整ってると知ったら……
廊下を歩いて戻り控室の扉を開けると、教授は演奏の終わり部分を弾いていた。
邪魔しないようにグラスハープに戻り、びしょびしょのハンカチは鞄の上に広げた。
練習しよう。
指先に魔力を巡らし、自分の動揺が流れていないか確認する。
よし、大丈夫そう。
乱れた魔力で演奏なんかしたら何言われるか分からない。
真ん中のグラスの淵に指を置き、すっと撫でると透明な音が鳴った。
そのまま譜面の初めから弾き始める。
比較的軽快に始まったのも束の間、メロディは急に不穏になる。
悲し気な響きが続き、こと切れてしまいそうな高音が続いた後、長い低音が命の灯を消してしまうように余韻を響かせ終わる。
「ラストの高音、全く出来ていない」
「わあぁっいつの間に前に!?」
(目は暗い緑だったんだ)
「…ラストの高音」
「はい、すみません。これ3和音じゃないですか。左手はずっと低音だし、親指がうまく当たらないんです」
「配置を変えるんだ。使う和音ごとに並べておけば出来る」
「そんな簡単に言い切らないで下さいよ」
「出来る。出来ないと思われるからこそやる意味がある」
そう言うと教授は高音のいくつかのグラスの配置を変えた。
そしてコールディアの隣に立つと、弾いて見せる。
グラスが赤く光り、透明な音が重なった。
「これなら指も届く」
「あれ…どうして光り方が違うんですか」
コールディアがすっとグラスを撫でると、淡く青く光る。
だが今教授が鳴らした時は赤だった。
「マギアフルイドは保持する魔力量で発色が変わる」
「そうだったんですね。以前見た演奏は私の青に近い色だったんで、皆そういうものかと思ってました」
それからいつも通りの指導が始まった。
コールディアもいつしか没頭し、教授の表現を再現しようと夢中になった。
この無心に譜面にのめり込む時間は好きだった。
初見で音符を追うだけだった演奏に徐々に色が付き、情景が広がり、物語が膨らむ。
この楽しいだけではない苦悩する練習の先にある1つの世界を想像すると、興奮にも似たある種のゾーンに入る。その感覚がたまらなかった。
その世界に到達するために、ノートヴォルトからの厳しい指導が入る。
――違う、丁寧に繋ぐんだ。音を1個ずつブツ切れで並べるんじゃない。
――スタッカートはもっと切って。君のはターアータンタン。欲しいのはターアータッタ。コモンには無理でも魔奏なら出来る。違いを魅せるところだ。
――まだ弱い、もっと強くていい。流す魔力を少しだけ上げて…やりすぎだ、魔律が変わってしまう。
指摘される度に魔力量、指の動き、グラスへの当て方…それらを調節し応えようとする。
時間はあっという間に1時間を過ぎ、小休憩を挟んで1度合わせることにした。
椅子に座って、指を閉じたり開いたりして動かす。
魔力をずっと纏わせていると熱を持ったような感覚になるので、手をひらひら振って冷ますようにするのが休憩時の癖だった。
パタパタしながら、チェロを鳴らす教授を眺めそうになり、やっぱり目を逸らした。
「先生、なんで髪を結ったんですか」
「髪? 弦に挟まる」
「…なるほど」
結局チェロを準備する教授をちらちら眺めつつ、短い休憩を終えるとまたグラスハープの前に立つ。
(いつも猫背なのに、チェロの時は姿勢いいんだ)
猫背は伸ばしても猫背だろうと思っていたが、思いのほか伸ばした背筋はまっすぐで、チェロを構えた様子は優美と言えた。
そしてそのまま視線は自然と弦を押さえる左手にいってしまう。
ピアノの時にもつい見てしまうこの手元が、実は彼女は昔から好きだった。
男性の手なのにすらっと伸びていて指先が美しい。
それこそ魔法のように動くあの指先で生み出される音が好きで、その音を生む手も好きなのだ。
0
お気に入りに追加
153
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
後宮の裏絵師〜しんねりの美術師〜
あきゅう
キャラ文芸
【女絵師×理系官吏が、後宮に隠された謎を解く!】
姫棋(キキ)は、小さな頃から絵師になることを夢みてきた。彼女は絵さえ描けるなら、たとえ後宮だろうと地獄だろうとどこへだって行くし、友人も恋人もいらないと、ずっとそう思って生きてきた。
だが人生とは、まったくもって何が起こるか分からないものである。
夏后国の後宮へ来たことで、姫棋の運命は百八十度変わってしまったのだった。
『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作

公主の嫁入り
マチバリ
キャラ文芸
宗国の公主である雪花は、後宮の最奥にある月花宮で息をひそめて生きていた。母の身分が低かったことを理由に他の妃たちから冷遇されていたからだ。
17歳になったある日、皇帝となった兄の命により龍の血を継ぐという道士の元へ降嫁する事が決まる。政略結婚の道具として役に立ちたいと願いつつも怯えていた雪花だったが、顔を合わせた道士の焔蓮は優しい人で……ぎこちなくも心を通わせ、夫婦となっていく二人の物語。
中華習作かつ色々ふんわりなファンタジー設定です。
転生したけど平民でした!もふもふ達と楽しく暮らす予定です。
まゆら
ファンタジー
回収が出来ていないフラグがある中、一応完結しているというツッコミどころ満載な初めて書いたファンタジー小説です。
温かい気持ちでお読み頂けたら幸い至極であります。
異世界に転生したのはいいけど悪役令嬢とかヒロインとかになれなかった私。平民でチートもないらしい‥どうやったら楽しく異世界で暮らせますか?
魔力があるかはわかりませんが何故か神様から守護獣が遣わされたようです。
平民なんですがもしかして私って聖女候補?
脳筋美女と愛猫が繰り広げる行きあたりばったりファンタジー!なのか?
常に何処かで大食いバトルが開催中!
登場人物ほぼ甘党!
ファンタジー要素薄め!?かもしれない?
母ミレディアが実は隣国出身の聖女だとわかったので、私も聖女にならないか?とお誘いがくるとか、こないとか‥
◇◇◇◇
現在、ジュビア王国とアーライ神国のお話を見やすくなるよう改稿しております。
しばらくは、桜庵のお話が中心となりますが影の薄いヒロインを忘れないで下さい!
転生もふもふのスピンオフ!
アーライ神国のお話は、国外に追放された聖女は隣国で…
母ミレディアの娘時代のお話は、婚約破棄され国外追放になった姫は最強冒険者になり転生者の嫁になり溺愛される
こちらもよろしくお願いします。
独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立
水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~
第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。
◇◇◇◇
飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。
仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。
退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。
他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。
おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。