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第四章 啼いて血を吐く魂迎鳥
第十四話 銀座のお巡りさん㈠
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私が駆けつけたとき、炎はすでに家を包み込もうとしていた。
夜が明ける直前の時刻。木挽町に入ってすぐのところにある住宅区。
季節は冬。空気が乾燥していた。火の廻りは早く、激しい紅色が屋根を突き抜けて立ち昇っていた。
消防組が先に到着し、消火活動の準備に取りかかっている。
狭い路地の奥にあるせいで場所を確保できず難航しているようだ。
火災に立ち会うのは初めてではない。巡査になってから何度か経験している。
炎がこの不幸な民家を燃え尽くすまで消えないであろうことも、一目でわかった。
三、四間はありそうなしっかりした造りの平屋だ。屋根はモダンな青緑色に塗られていた。
頑丈であれば全焼するまで時間の猶予はあるが、そのぶん倒壊させるのに骨が折れる。
周辺の住民が集まって不安の浮かんだ顔で消防の活動を眺めている。万が一に備え、貴重品を抱えている人もいる。
無理もない。一刻も早く鎮火しなければ、近所一帯を巻き込みかねない勢いなのだ。
そのうちの何人かが駆け寄ってきて、私に言った。
「おまわりさん。まだ、子どもが……。家のなかで、子どもの声がしたんです……」
声にはすでに諦めの色が混じっていた。
「ですが、もう、声は止んでしまいました……」
ただの警察官が救出に飛び込んでいける段階はとうに過ぎていた。
こうなってしまえば、消防に任せるほかない。
「火はどこからだ。出火元は?」
独り言のように漏れた言葉に、消防の小頭が答えた。
「お勝手のようですよ。一番燃えている右側です。白い閃光のようなものが見えて、あっという間だったそうです」
なにもできない不甲斐なさで、口だけがよけいに動く。
「台所か……。夜明け前だが、なにしろ元日の朝だ。正月料理の支度をしている最中の事故だったのかもしれないな」
「あの家が、料理ねえ……」
住民たちの、嘲笑とも失笑とも取れるため息。そこには無力感も混じっている。
「するわけないじゃないですか、あの母親が。派手な芸者女でね。客や情夫を連れ込むとき、いつも幼い娘をお勝手に閉じ込めていましたよ。可哀想に、お腹を空かせてなにか食べようとしたんじゃないかしら」
そのとき、たしかに私の耳にも届いた。
女の子の泣き声だ。
家に取り残されている。まだ、生きているのだ。
「聴こえたか?」
「いいえ……」
焦点の定まらない目を消防の連中に向けるが、誰もが目を伏せて首を横に振った。その否定の真偽はわからない。
声は右の方向から聴こえた。いるとすれば台所だ。
出火元は火の海になっている可能性が高い。助けに行けば、己が危険にさらされる。
はたして職務とは、己の命を賭すほどものなのか。
そもそも私がでしゃばる場面ではない。消防の判断を仰ぐべきだ。
暴走した使命感の結果、自己満足以外になにを得るのだ。
私は大層な人間ではない。己にできる範囲でこの街を守れればいいと思っているだけだ。
しかし──ここで引けば、私は二度と誇りを持って巡査の制服を、サーベルを身につけることはできないだろう。
住民の眼にゆらぐ、不穏と、期待。
怖くないわけがない。たかだか新任して何年目かの新米巡査だ。
「私は大層な人間ではない、が……」
「もう無理ですよ! 空気が乾いていて火が一気に廻ります。その前に家を崩して、類焼を防ぐくらいしかできません!」
小頭の制止を振り切り、水を被る。
「私は、この街のおまわりさんになりたいんだよ」
私は本来、無謀でも勇敢でもない。
警部補になる孝試を受けるつもりもなく、怠惰に生活している。警官としての使命などこれまで考えたこともなかった。
だが、子どもを見捨てた巡査のいる派出所に、いったい誰が助けを求めにくるというんだ?
明るい色の屋根まで炎に包まれはじめた平屋へ、私は走った。
「……おい、おい!! 大丈夫か!?」
「だれ……? おかあさんは……?」
なんとか意識を取り戻した少女は薄目を開けたが、見えているのは片方だけだった。
右半身が真っ赤に焼けている。黒い焦げつきの下は、熱湯を何度もかけつづけたような肌に変色していた。
身体は燃えて張りついた着物の生地が皮膚に張りついていた。
ひどい容態だ。
だが、生きていた。
「私はおまわりさんだよ。きみの他に逃げ遅れた人はいない。おかあさんも絶対に無事で近くにいる。だからもう心配してくていい」
「よかった、おかあさん……」
最後にもう一度母を呼んで、ふたたび瞳を閉じた。
消防に手を貸してもらって少女を担架に乗せ、家族がいないかとあたりを見渡した。
視界に移る、紅。
少し離れた場所に、赤い着物の女が立っていた。
この女が母親だと直感で察した。瞳に同じ光を宿している。
「もしもし、そこの貴女……」
声をかけようとして、怯んだ。
口元に薄笑いが浮かんでいたからだ。
恍惚か、自嘲でもしているように頬は血の色に染まっている。
火傷を負って医院に運ばれていく娘を見送るその瞳は、どこまでも冷淡だった。
🐾🐾🐾
十年前の出来事をぼうっと思いだしている最中、目的の人物を見つけた。
「兎田谷先生!」
新橋をぶらぶらと歩いていたのは──和洋折衷の派手な出で立ちが目立つ男。
あるときは放蕩文士、あるときは文豪探偵。
どちらにせよ、胡散臭いことには変わりない。
「やあ、鶯出巡査殿。本日も巡回という名の俸給泥棒かね」
悪戯を考案している少年のような笑いかたは、十年前にはじめて会った頃と変わらない。
毎度出合頭に皮肉を交えてくるところもだ。
この男を捜して、私は新橋花街までやってきたのだ。
「ご挨拶だな。この依頼を紹介してやらなけりゃ、先生は借金取りに追われて正月を無事に乗り切れなかったろ」
仕返しに恩着せがましく言ってやると、押してはならないスイッチだったようで探偵は騒ぎはじめた。
「結果的にただ働きになってしまったらなんの意味もないじゃないか!! 嗚呼、なんて忌まわしい響きなんだ。この俺が、ただ働き……。この世でいちばん嫌いな言葉だよ!? 報酬があっても働きたくないのに、ましてや無賃労働だなんて……!!」
木乃伊のようにやつれた顔で大騒ぎしている。
酒か金が絡むといつもこうだ。
たしかにこの男を捜していたはずなのだが、声をかけたのを後悔するほどうるさい。
『籠石竜子が報酬を支払わずに行方をくらませた』との情報は、烏丸くんが深夜にわざわざ派出所までやってきて教えてくれた。その頃、師は泥酔していたらしいが。
あくる今日、私は巡回の時間を待ってすぐ彼女の経営する待合茶屋『金蛇』に向かった。
表の張り紙を見て、ただならぬ事態を察した。
兎田谷先生のことだ。督促状から金貸し屋の叉崎をすでに割り出しているだろう。
奴らの賭場は私も把握しているが、新橋はうちの管轄ではない。それに博徒には博徒に対応した連中が警視庁にいる。
竜子の行方の手掛かりになるとしても、巡査の制服を着ている立場上、無闇に押し入るわけにもいかなかった。
だが、兎田谷先生なら単独でもやりかねない。
危険を顧みないのではなく、どちらかいうと回避する性格だと思うが、この男ならまあどうにか立ち回ってしまうのだろうという斜め方向の信頼感だ。
とりあえず、まだ周辺にいるかもしれないと捜してみることにしたのが経緯だ。
「……なるほどな。竜子さんは、もう一度娘を売ろうとしていたのか」
叉崎の本拠地でなにがあったか、先生からひととおり話を聞いた。
「あくまでも親分の推測だけどね。でも、巡査はあまり驚かないんだね。もっと憤慨しそうなのにさ」
「まあ、な」
行方知れずの相談にきた竜子の姿をふたたび見たときから、胸騒ぎはあった。
虫の報せと呼ぶのだろうか。
ベテランの先輩方がたまに口にするのをそんなものかと聞き流していたが、ようやく理解できた気がした。
警察官が使うには非現実的な言葉だが、警察官だからこそ働く勘もある。
十年前の、あの姿を──恍惚の表情で燃えさかる炎を眺めながら、火傷を負った我が子を前にしても平然とした顔でいた籠石竜子。
子に対して一線を越えてしまえる無関心さ、妬み嫉み、冷酷さを感じ取った。
「で、昨日の尋問の続きだけど」
「なんだ」
探偵もまた、警察とは違った勘が働くようだ。
あのとき煮え切らない返答をしていた私に気づいていたらしく、探偵はまるで思考を読んだみたいにずばりと尋ねた。
「巡査殿はさ。あの母娘のこと、前から知っていたんじゃないの?」
夜が明ける直前の時刻。木挽町に入ってすぐのところにある住宅区。
季節は冬。空気が乾燥していた。火の廻りは早く、激しい紅色が屋根を突き抜けて立ち昇っていた。
消防組が先に到着し、消火活動の準備に取りかかっている。
狭い路地の奥にあるせいで場所を確保できず難航しているようだ。
火災に立ち会うのは初めてではない。巡査になってから何度か経験している。
炎がこの不幸な民家を燃え尽くすまで消えないであろうことも、一目でわかった。
三、四間はありそうなしっかりした造りの平屋だ。屋根はモダンな青緑色に塗られていた。
頑丈であれば全焼するまで時間の猶予はあるが、そのぶん倒壊させるのに骨が折れる。
周辺の住民が集まって不安の浮かんだ顔で消防の活動を眺めている。万が一に備え、貴重品を抱えている人もいる。
無理もない。一刻も早く鎮火しなければ、近所一帯を巻き込みかねない勢いなのだ。
そのうちの何人かが駆け寄ってきて、私に言った。
「おまわりさん。まだ、子どもが……。家のなかで、子どもの声がしたんです……」
声にはすでに諦めの色が混じっていた。
「ですが、もう、声は止んでしまいました……」
ただの警察官が救出に飛び込んでいける段階はとうに過ぎていた。
こうなってしまえば、消防に任せるほかない。
「火はどこからだ。出火元は?」
独り言のように漏れた言葉に、消防の小頭が答えた。
「お勝手のようですよ。一番燃えている右側です。白い閃光のようなものが見えて、あっという間だったそうです」
なにもできない不甲斐なさで、口だけがよけいに動く。
「台所か……。夜明け前だが、なにしろ元日の朝だ。正月料理の支度をしている最中の事故だったのかもしれないな」
「あの家が、料理ねえ……」
住民たちの、嘲笑とも失笑とも取れるため息。そこには無力感も混じっている。
「するわけないじゃないですか、あの母親が。派手な芸者女でね。客や情夫を連れ込むとき、いつも幼い娘をお勝手に閉じ込めていましたよ。可哀想に、お腹を空かせてなにか食べようとしたんじゃないかしら」
そのとき、たしかに私の耳にも届いた。
女の子の泣き声だ。
家に取り残されている。まだ、生きているのだ。
「聴こえたか?」
「いいえ……」
焦点の定まらない目を消防の連中に向けるが、誰もが目を伏せて首を横に振った。その否定の真偽はわからない。
声は右の方向から聴こえた。いるとすれば台所だ。
出火元は火の海になっている可能性が高い。助けに行けば、己が危険にさらされる。
はたして職務とは、己の命を賭すほどものなのか。
そもそも私がでしゃばる場面ではない。消防の判断を仰ぐべきだ。
暴走した使命感の結果、自己満足以外になにを得るのだ。
私は大層な人間ではない。己にできる範囲でこの街を守れればいいと思っているだけだ。
しかし──ここで引けば、私は二度と誇りを持って巡査の制服を、サーベルを身につけることはできないだろう。
住民の眼にゆらぐ、不穏と、期待。
怖くないわけがない。たかだか新任して何年目かの新米巡査だ。
「私は大層な人間ではない、が……」
「もう無理ですよ! 空気が乾いていて火が一気に廻ります。その前に家を崩して、類焼を防ぐくらいしかできません!」
小頭の制止を振り切り、水を被る。
「私は、この街のおまわりさんになりたいんだよ」
私は本来、無謀でも勇敢でもない。
警部補になる孝試を受けるつもりもなく、怠惰に生活している。警官としての使命などこれまで考えたこともなかった。
だが、子どもを見捨てた巡査のいる派出所に、いったい誰が助けを求めにくるというんだ?
明るい色の屋根まで炎に包まれはじめた平屋へ、私は走った。
「……おい、おい!! 大丈夫か!?」
「だれ……? おかあさんは……?」
なんとか意識を取り戻した少女は薄目を開けたが、見えているのは片方だけだった。
右半身が真っ赤に焼けている。黒い焦げつきの下は、熱湯を何度もかけつづけたような肌に変色していた。
身体は燃えて張りついた着物の生地が皮膚に張りついていた。
ひどい容態だ。
だが、生きていた。
「私はおまわりさんだよ。きみの他に逃げ遅れた人はいない。おかあさんも絶対に無事で近くにいる。だからもう心配してくていい」
「よかった、おかあさん……」
最後にもう一度母を呼んで、ふたたび瞳を閉じた。
消防に手を貸してもらって少女を担架に乗せ、家族がいないかとあたりを見渡した。
視界に移る、紅。
少し離れた場所に、赤い着物の女が立っていた。
この女が母親だと直感で察した。瞳に同じ光を宿している。
「もしもし、そこの貴女……」
声をかけようとして、怯んだ。
口元に薄笑いが浮かんでいたからだ。
恍惚か、自嘲でもしているように頬は血の色に染まっている。
火傷を負って医院に運ばれていく娘を見送るその瞳は、どこまでも冷淡だった。
🐾🐾🐾
十年前の出来事をぼうっと思いだしている最中、目的の人物を見つけた。
「兎田谷先生!」
新橋をぶらぶらと歩いていたのは──和洋折衷の派手な出で立ちが目立つ男。
あるときは放蕩文士、あるときは文豪探偵。
どちらにせよ、胡散臭いことには変わりない。
「やあ、鶯出巡査殿。本日も巡回という名の俸給泥棒かね」
悪戯を考案している少年のような笑いかたは、十年前にはじめて会った頃と変わらない。
毎度出合頭に皮肉を交えてくるところもだ。
この男を捜して、私は新橋花街までやってきたのだ。
「ご挨拶だな。この依頼を紹介してやらなけりゃ、先生は借金取りに追われて正月を無事に乗り切れなかったろ」
仕返しに恩着せがましく言ってやると、押してはならないスイッチだったようで探偵は騒ぎはじめた。
「結果的にただ働きになってしまったらなんの意味もないじゃないか!! 嗚呼、なんて忌まわしい響きなんだ。この俺が、ただ働き……。この世でいちばん嫌いな言葉だよ!? 報酬があっても働きたくないのに、ましてや無賃労働だなんて……!!」
木乃伊のようにやつれた顔で大騒ぎしている。
酒か金が絡むといつもこうだ。
たしかにこの男を捜していたはずなのだが、声をかけたのを後悔するほどうるさい。
『籠石竜子が報酬を支払わずに行方をくらませた』との情報は、烏丸くんが深夜にわざわざ派出所までやってきて教えてくれた。その頃、師は泥酔していたらしいが。
あくる今日、私は巡回の時間を待ってすぐ彼女の経営する待合茶屋『金蛇』に向かった。
表の張り紙を見て、ただならぬ事態を察した。
兎田谷先生のことだ。督促状から金貸し屋の叉崎をすでに割り出しているだろう。
奴らの賭場は私も把握しているが、新橋はうちの管轄ではない。それに博徒には博徒に対応した連中が警視庁にいる。
竜子の行方の手掛かりになるとしても、巡査の制服を着ている立場上、無闇に押し入るわけにもいかなかった。
だが、兎田谷先生なら単独でもやりかねない。
危険を顧みないのではなく、どちらかいうと回避する性格だと思うが、この男ならまあどうにか立ち回ってしまうのだろうという斜め方向の信頼感だ。
とりあえず、まだ周辺にいるかもしれないと捜してみることにしたのが経緯だ。
「……なるほどな。竜子さんは、もう一度娘を売ろうとしていたのか」
叉崎の本拠地でなにがあったか、先生からひととおり話を聞いた。
「あくまでも親分の推測だけどね。でも、巡査はあまり驚かないんだね。もっと憤慨しそうなのにさ」
「まあ、な」
行方知れずの相談にきた竜子の姿をふたたび見たときから、胸騒ぎはあった。
虫の報せと呼ぶのだろうか。
ベテランの先輩方がたまに口にするのをそんなものかと聞き流していたが、ようやく理解できた気がした。
警察官が使うには非現実的な言葉だが、警察官だからこそ働く勘もある。
十年前の、あの姿を──恍惚の表情で燃えさかる炎を眺めながら、火傷を負った我が子を前にしても平然とした顔でいた籠石竜子。
子に対して一線を越えてしまえる無関心さ、妬み嫉み、冷酷さを感じ取った。
「で、昨日の尋問の続きだけど」
「なんだ」
探偵もまた、警察とは違った勘が働くようだ。
あのとき煮え切らない返答をしていた私に気づいていたらしく、探偵はまるで思考を読んだみたいにずばりと尋ねた。
「巡査殿はさ。あの母娘のこと、前から知っていたんじゃないの?」
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