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第四章 啼いて血を吐く魂迎鳥
第三話 九通の手紙㈠
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竜子が差しだした家族写真には、両親と幼い娘の三人が並んで写っていた。
娘は体に合わない大人の帯を締め、懸命に背筋を伸ばしている。七五三のお宮参りで撮ったものらしい。
撮影場所は偶然にも、小弟らがこれから向かおうとしていた湊稲荷であった。
今より少し年若い竜子が、撮影用に用意された木椅子に腰かけている。化粧や髷を控えめに抑えていてもやはり素人には見えない。昔から洗練された女性だったようだ。
両親に挟まれる形で真ん中に立っているのが娘の菖蒲だろう。聡明そうな目鼻立ちで、物静かな印象の子供だった。
艶やかな雰囲気の母親と正反対に見えるが、弓型の繊細な眉、垂れがちの瞳など細部が似ている。左目の下にあるほくろも竜子と同じだ。
「七つから十六じゃ、かなり見た目の印象が変わっているかもしれないね。とくに娘さんは変化が著しいだろうから」
写真を眺めながら兎田谷先生が言った。
「大きく違っているはずですわ。なにしろ……」
落ち着けるように深く息を吸い込む様子から、その変貌は自然な成長によってではなさそうだと察せられた。
鶯出巡査が眉間に皺を寄せる。
「娘の顔には、むごい火傷の痕があるのです。七五三の祝いをした、すぐあとの出来事でございました」
握りつぶしたハンケチの端で目頭を押さえ、婦人はつらそうに語った。
「不幸な事故でしたのよ……。竈の火が着物の裾に燃え移ってしまって、顔から腰のあたりにも及ぶ火傷を右半身に負ってしまったのです。体は隠せますが、顔面の半分近くを覆っている爛れはどうにもなりません。一度見たら忘れられないはずですわ」
見た者が忘れられないほど、痛々しい火傷の痕とは──
特徴があったほうが捜索はしやすいが、生涯消えない傷を背負ってしまった少女の心境を思うとやるせなかった。
「鶯出巡査殿もあちこちに古傷や火傷があるよね」
「私なんぞ冴えない三十男だ。傷くらいどれだけ残っても構わんさ」
「昔からどんな事件でも突っ込んでいくからねえ。派出所勤務より刑事のほうが向いているのではないかね」
「どうだかな」
巡査は居心地は悪そうに頬を掻いている。
手の甲や顔には実際にいくつもの火傷や傷痕があった。
そのうちの一つは、枳殻の生垣から子どもを救出するのを手伝ってくれた際についたものだ。
無数の傷は熱血漢ゆえの功労の証であろう。
「警視庁に異動して、そして俺に派手な凶悪事件を回してほしい」
「先生、話が逸れております!」
ちぇ、と不貞腐れて先生は竜子に向き直った。
「顔がわかるものは、この一枚だけ?」
「ええ、火傷を負ってからは写真を撮っておりませんので」
「なるほど。一緒に写っているのは父親かな」
「そうですわ。娘の父親です」
この写真を撮影した頃の竜子はまだ三十前後だろうが、父親は五十を過ぎているように見えた。
たくわえた口髭や上等の紋付羽織袴、肥えた腹など、芸者を妾にするだけあってかなりの金満家のようだ。
自信の宿った濃い眉をふくよかな輪郭がうまく中和して、全体的には穏やかな相貌である。
はて、どこかで見憶えのある男だった。
記憶の糸をたぐると、ぼんやりと白黒の肖像が浮かんだ。直接会ったわけではなく、おそらく新聞だか雑誌だかで見たのだ。
となると、世間に知られた人物かもしれない。
しばらく頭をひねり、ようやく思い当たった。
「先生。この男性、実業家の佐世綴造ではありませんか?」
「ああ、金物屋の? 俺は顔まで憶えちゃいないが」
「何度か新聞に載っている写真を見ています。間違いありません」
佐世綴造は、伸鉄所や軽銀製造所を抱える金属工場の経営者だ。
銀座通りに『佐世金物屋』という大店の看板も掲げている。
もともとは鍋や薬缶など日用品の販売、修理を引き受けているだけの小さな商店だった。
アルミニュームの量産が日本でも可能となり、庶民にも普及しはじめ、需要が急増したのにうまく乗って一代で事業を大きくした──そのように本人が語っている記事を読んだ記憶がある。
「よくご存じですこと。さすがは地元の探偵さん。佐世は先代から銀座で商いをやっていますからね。芸者時代に気にいられ、本妻さまも承知のうえでお世話になっておりましたのよ。待合茶屋の開業資金も援助していただきました」
竜子はとくに隠すふうでもなく、堂々とした態度でにっこりと科を作った。
あっさりとしたものである。名のある実業家ともなれば、妾の存在はほとんど公然なのだろうか。
万が一にもあり得ないことだが、赤日家の厳格な父がもし外に女性を囲ったとしたら……姉と妹に一生口を利いてもらえないに違いない。
想像するだに恐ろしい状況で、思わず身震いがした。
「父親が行方を知っている可能性は?」
「佐世とはすでに縁が切れております。あの子とも奉公にでて以来、一度も会っていないはずですわ。菖蒲を可愛がってくださっていましたが、わたくしたちは結局捨てられたのです。本宅には正式な跡取りも他の子どもたちもおりますし、所詮は妾腹ですもの」
小弟の聞き及んだ範囲での話だが──佐世綴造は、人望の厚い男として名が通っている。
昨今の工場労働の過酷さは、新聞記事でもたびたび取沙汰される社会問題だが、彼のところは働く者からの評判も上々だ。
筋は通す主義らしく、事業拡大の際にも無茶なやり方はしていないようだ。他所と揉め事を起こした噂も聞いたことがない。
無論、これらは世間の評価に過ぎない。
私生活で妾と娘に対して、冷酷だった可能性は大いにある。
「ふむ、行き詰まったときには一応当たってみるか」
現状、写真から得られた情報は以上だった。
次は絵葉書である。
娘は体に合わない大人の帯を締め、懸命に背筋を伸ばしている。七五三のお宮参りで撮ったものらしい。
撮影場所は偶然にも、小弟らがこれから向かおうとしていた湊稲荷であった。
今より少し年若い竜子が、撮影用に用意された木椅子に腰かけている。化粧や髷を控えめに抑えていてもやはり素人には見えない。昔から洗練された女性だったようだ。
両親に挟まれる形で真ん中に立っているのが娘の菖蒲だろう。聡明そうな目鼻立ちで、物静かな印象の子供だった。
艶やかな雰囲気の母親と正反対に見えるが、弓型の繊細な眉、垂れがちの瞳など細部が似ている。左目の下にあるほくろも竜子と同じだ。
「七つから十六じゃ、かなり見た目の印象が変わっているかもしれないね。とくに娘さんは変化が著しいだろうから」
写真を眺めながら兎田谷先生が言った。
「大きく違っているはずですわ。なにしろ……」
落ち着けるように深く息を吸い込む様子から、その変貌は自然な成長によってではなさそうだと察せられた。
鶯出巡査が眉間に皺を寄せる。
「娘の顔には、むごい火傷の痕があるのです。七五三の祝いをした、すぐあとの出来事でございました」
握りつぶしたハンケチの端で目頭を押さえ、婦人はつらそうに語った。
「不幸な事故でしたのよ……。竈の火が着物の裾に燃え移ってしまって、顔から腰のあたりにも及ぶ火傷を右半身に負ってしまったのです。体は隠せますが、顔面の半分近くを覆っている爛れはどうにもなりません。一度見たら忘れられないはずですわ」
見た者が忘れられないほど、痛々しい火傷の痕とは──
特徴があったほうが捜索はしやすいが、生涯消えない傷を背負ってしまった少女の心境を思うとやるせなかった。
「鶯出巡査殿もあちこちに古傷や火傷があるよね」
「私なんぞ冴えない三十男だ。傷くらいどれだけ残っても構わんさ」
「昔からどんな事件でも突っ込んでいくからねえ。派出所勤務より刑事のほうが向いているのではないかね」
「どうだかな」
巡査は居心地は悪そうに頬を掻いている。
手の甲や顔には実際にいくつもの火傷や傷痕があった。
そのうちの一つは、枳殻の生垣から子どもを救出するのを手伝ってくれた際についたものだ。
無数の傷は熱血漢ゆえの功労の証であろう。
「警視庁に異動して、そして俺に派手な凶悪事件を回してほしい」
「先生、話が逸れております!」
ちぇ、と不貞腐れて先生は竜子に向き直った。
「顔がわかるものは、この一枚だけ?」
「ええ、火傷を負ってからは写真を撮っておりませんので」
「なるほど。一緒に写っているのは父親かな」
「そうですわ。娘の父親です」
この写真を撮影した頃の竜子はまだ三十前後だろうが、父親は五十を過ぎているように見えた。
たくわえた口髭や上等の紋付羽織袴、肥えた腹など、芸者を妾にするだけあってかなりの金満家のようだ。
自信の宿った濃い眉をふくよかな輪郭がうまく中和して、全体的には穏やかな相貌である。
はて、どこかで見憶えのある男だった。
記憶の糸をたぐると、ぼんやりと白黒の肖像が浮かんだ。直接会ったわけではなく、おそらく新聞だか雑誌だかで見たのだ。
となると、世間に知られた人物かもしれない。
しばらく頭をひねり、ようやく思い当たった。
「先生。この男性、実業家の佐世綴造ではありませんか?」
「ああ、金物屋の? 俺は顔まで憶えちゃいないが」
「何度か新聞に載っている写真を見ています。間違いありません」
佐世綴造は、伸鉄所や軽銀製造所を抱える金属工場の経営者だ。
銀座通りに『佐世金物屋』という大店の看板も掲げている。
もともとは鍋や薬缶など日用品の販売、修理を引き受けているだけの小さな商店だった。
アルミニュームの量産が日本でも可能となり、庶民にも普及しはじめ、需要が急増したのにうまく乗って一代で事業を大きくした──そのように本人が語っている記事を読んだ記憶がある。
「よくご存じですこと。さすがは地元の探偵さん。佐世は先代から銀座で商いをやっていますからね。芸者時代に気にいられ、本妻さまも承知のうえでお世話になっておりましたのよ。待合茶屋の開業資金も援助していただきました」
竜子はとくに隠すふうでもなく、堂々とした態度でにっこりと科を作った。
あっさりとしたものである。名のある実業家ともなれば、妾の存在はほとんど公然なのだろうか。
万が一にもあり得ないことだが、赤日家の厳格な父がもし外に女性を囲ったとしたら……姉と妹に一生口を利いてもらえないに違いない。
想像するだに恐ろしい状況で、思わず身震いがした。
「父親が行方を知っている可能性は?」
「佐世とはすでに縁が切れております。あの子とも奉公にでて以来、一度も会っていないはずですわ。菖蒲を可愛がってくださっていましたが、わたくしたちは結局捨てられたのです。本宅には正式な跡取りも他の子どもたちもおりますし、所詮は妾腹ですもの」
小弟の聞き及んだ範囲での話だが──佐世綴造は、人望の厚い男として名が通っている。
昨今の工場労働の過酷さは、新聞記事でもたびたび取沙汰される社会問題だが、彼のところは働く者からの評判も上々だ。
筋は通す主義らしく、事業拡大の際にも無茶なやり方はしていないようだ。他所と揉め事を起こした噂も聞いたことがない。
無論、これらは世間の評価に過ぎない。
私生活で妾と娘に対して、冷酷だった可能性は大いにある。
「ふむ、行き詰まったときには一応当たってみるか」
現状、写真から得られた情報は以上だった。
次は絵葉書である。
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