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1巻

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 第一章・裏 恋文の送り主は?


 小弟の名は烏丸。探偵であり小説家でもある兎田谷朔先生の弟子である。
 住み込みで文学を学びながら、先生の身の回りのお世話をさせていただいている。
 炊事や掃除も文学に通じる立派な精神の鍛練たんれんだと、以前先生がおっしゃっていたからだ。
 ご本人がやっているのは見たことないが……
 煮干しと鰹節かつおぶしと少量の米を煮た子猫の飯を部屋に持っていくと、先生は畳に寝転んで猫と遊んでいるところだった。

「ようし、猫の名前を決めたぞ! 小夏こなつにしよう。可愛らしいだろう。小夏ちゃんや」
「春先に拾ったのにですか」
「俺はそういう天邪鬼あまのじゃくをするのが好きなのさ。なあ、小夏ちゃんも気に入ったよな?」
「ニャア」
「名前は結構ですが……そんなことより前回の散財! あれはどうするおつもりですか?」

 先日、先生はもののはずみで二十本の高級な洋酒を注文したのである。
 止められなかった小弟の失態でもある。

「そうだそうだ、葡萄酒が届いていたんだった。今夜は祝杯だ。流れで恋に落ちてしまった若い二人に乾杯しよう」
「流れで……」

 若い娘にありがちだが、千歳という少女は雰囲気に呑まれやすい気質だった。
 あんなふうに窮地を救われては、今までまったく関心のなかった相手だろうが恋にも落ちるというものだ。
 小弟はそれでもいいと思っている。
 初めに彼女が想いを寄せていた男よりも、辰二郎という誠実な少年のほうがずっと好ましい。

「それにしても先生、珍しく依頼を普通に解決なさいましたね。また嘘八百でどうにかするのかと思いましたが」
「え、もちろん嘘だよ。いつものでっちあげさ、はははは」

 笑いながら、こともなげに言った。

「でっちあげとは……? どこからどこまでがですか」
「ほとんど最初から最後まで、だよ。烏丸にだけ種明かしをしてあげよう。俺の弟子になってよかったな、役得だ」
「はあ……」

 首をかしげながらも、小弟は先生の前に正座した。

「まず、差出人は〝あの二人のどちらでもない〟。なんなら千歳クンに宛てた手紙ですらない。まったく他人の手紙さ」
「他人とは……⁉ 先生は、〝二人のうちにいてよかった〟とおっしゃっていましたよね」
「辰二郎くんが以前から千歳クンを好きだったってこと、態度でわかったからさ。彼女に想いを寄せている相手がいてよかったって意味だよ。手紙の送り主の話じゃない。もし千歳クンに気がある相手が存在しなけりゃ、どうしたって依頼は完璧に達成できないじゃないか」

 たしか、彼女の依頼だと……『わたしに好意を寄せているのがどちらなのか知りたい』という話だった。

「つまり、手紙は関係なく、ただ流れで結ばれたのですか、あの男女は」
「そういうことになるねえ。流れでね。まあ、結果的によかったんじゃないのかね」
「小弟もそう思いますが、ならばいったい誰の手紙だったのですか? 辰二郎が毎月置いていたのは間違いなかったはずです」

 先生だって、彼が今月の分だと言って、千歳さんに手紙を渡した現場を目撃している。
 先生は小夏を撫でながら解説を続けた。

「五つの和歌の共通点、そして一つだけ仲間はずれがいたのは気づいたかね?」
「引用された歌は記憶していますが、共通点というと……すべてに『恋』の字が入っているくらいしか」
「はい、正解。そう、五つとも『恋』という字が使われた歌だったね」
「恋歌ならば、入っていても不思議ではないのでは」
「じゃあ、三通目の和歌をそらんじてくれる?」

 三通目といえば──


   〝桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ〟


 小弟が詠みあげると、先生はびしっと指を立てた。

「よくよく考えてみ給え。他の歌はすべて恋愛感情の『恋ふ』心を歌っている。でも、三通目だけは違う。桜が早いうちに散っていくびを歌ったものだ。人々が花をでるのを恋心にたとえているんだね」

 たしかに、これだけ恋愛の歌ではない。

「もう一つ聞こう。俺が辰二郎くんに読ませようとした、葡萄酒の注文は覚えてる?」
「〝エンゼルと恋に落ちた人間が流す涙のように滑らかな喉越しで、女神から滴り落ちる血のように清らかな赤色をした果実の薫りが芳醇な、お勧め葡萄酒〟でございますか」
「うわぁ、なんで覚えてんの……まあいいか。あのとき、彼は読めなかったよ。恋の文字」

 思い返してみれば、彼は『エンゼルと……?』と読みあげたきり詰まっていた。
「洋酒は横文字ばかりだし、小学校でも最初に習うのはカタカナだ。『ハタ、
タコ、 コマ』ってね。だからカタカナは読めるかなーと思ってあえて文章の頭に持ってきたのさ。そして、まんまと続きに詰まった」

「この文章を口にするのが恥ずかしかったので、読めないわけではないのでは?」
「はははは、俺の弟子は面白い冗談を言うなぁ」
「『恋』の字を知らなければ、万葉集を書き写すにしても、どれが恋歌かわからないでしょう?」
「そう。だから辰二郎くんは届けただけで、差出人じゃないのさ。字を読めない人間は、あの場にもう一人いたんだよ」

 その言葉で垣根から覗き見した庭の様子を、小弟は思い返す。
 完全に忘れていたが、千歳さんが『おじい様』と呼んでいた老人が縁側にいた。
 辰二郎とも仲が良さそうに会話をしていたのを見かけた。

「あのご老人ですか……」
「辰二郎くんはメモが読めないのに困って、明くんに助けを求めようとしただろう。すぐ近くに親しいおじい様がいたのにさ」
「ご老人も読めないと知っていたから、尋ねなかったということですか」
「だろうね。あの年齢だったら珍しくないし。五通の手紙に綴られた和歌を最初に見たとき、これを書いたのは読み書きがほとんどできなくて、でも『恋』だけは読める人物じゃないかと思ったんだよ」

 小弟は再び、調査中の記憶を辿たどった。
 恋だけの字は分かる人物……

「なるほど! あの一家は銀座で洋酒店を開く前、国分寺村の恋ヶ窪から東京市に出てきたと千歳さんが言っていました」
「そうそう。辰二郎くんが慣れ親しんだ単語なら読めたみたいに、おじい様も故郷の地名に入っている『恋』の字はきっと知ってたんだよ」
「じゃあ、送り主はおじい様だとして、あの手紙は誰宛なのでしょう」
「俺も気になって、月初めの昼間ってなにがあるかなと考えてみたんだ。あの大地震が起こったのは一昨年九月一日の十一時五十八分。毎月一日の正午は、亡くなられたおばあ様の月命日にあたるんだよ」
「亡き妻へ、恋文を送っていたということですか!? 万葉集から『恋』の字が入っているものだけを拾って。でも和歌の意味までは読めないから、一つだけ恋愛にまつわらないものが交ざってしまったと」
「そういうことだね。五カ月前に仏壇のある離れに千歳クンが住み始めたというだけで、手紙は五通だけじゃなくもっとたくさんあるのだろうね」

〝恋ふ〟という言葉は、なにも若い男女の間柄あいだがらに使われるだけではない。
 慕い思う気持ち、過去へのなつかしさ、そこには様々な想いと愛情が込められている。

「時間帯も、千歳クンが部屋にいないところを狙ったわけじゃなくて、昼食準備と重なっていたからいなかっただけ。足を悪くしたので、辰二郎くんに頼んでいたんだろうね。千歳クンと辰二郎くんの会話のズレかたを聞いて確信したよ」

 おそらく彼女本人は色々とあった最中で、深く考えていなかっただろうやり取り。

『千歳さんはちゃんと理解して受け取ってくれて嬉しかったです。仏前にまで供えてくれて……』

 この辰二郎の台詞で、千歳さんへの恋文ではなかったと今なら小弟にも分かる。

「普通は恋文を仏壇に供えませんね」
「勝手に部屋には入れないから、いつも飾り棚の花瓶横に置いていたんだろうけど。あの浮かれ娘はちゃんと供えていたね、偶然にも」
「しかし、交際が順調に進んでいつか手紙の話をしたら、判明してしまうのでは?」
「解決すりゃなんでもいい、後の事は知らない。それが俺のモットーだよ!」 
「誇らしげにおっしゃることではありません」
「好き合った男女なら、平和な勘違いくらい大した問題じゃないさ。俺はちゃんと自分の仕事をまっとうした。彼女からの依頼内容を覚えているかね?」

 先生を訪ねてきたとき、千歳さんが願ったのは二つだ。
『好意を寄せている相手がどちらなのか知りたい』と『差出人の想いを大切にしたい』。

「それぞれ、達成してますね……」
「だろう? 辰二郎くんの恋が叶ったのは彼自身の誠実さゆえだけどさ。あんなにあからさまなのに、面食い千歳クンはまったく気付いていなかったし、後押ししてあげようと思って」
「先生、本当は他人の不幸だけではなく──幸福も、両方お好きなんですよね」
「どうだかね。まあ、俺の本業は小説家だからね。心を揺さぶるものは何でも好きさ」
「照れ隠しをおっしゃる」

 先生は、返事の代わりにキュッと軽快な音を鳴らした。
 いつのまにかせんは開いており、並べたグラスに葡萄酒を注いでいるところだった。

「今日も事件は完璧に解決。さあ、祝杯をしよう。めでたしめでたし。では、これにて!」 





    第二章 からたちの花とオオカミ少年 


    からたちの花が咲いたよ
    白い白い花が咲いたよ


    からたちのとげはいたいよ
    青い青い針のとげだよ


    からたちは畑の垣根よ
    いつもいつもとほる道だよ


    からたちも秋はみのるよ
    まろいまろい金のたまだよ


    からたちのそばで泣いたよ
    みんなみんなやさしかったよ


    からたちの花が咲いたよ
    白い白い花が咲いたよ            

        ──童謡「からたちの花」より
    

 銀座の街並みは、夜半近くといえども、まだ明るい。
 そこかしこの店頭で電気広告ネオンサインの赤い文字がチカチカと光っている。
 銀座西五丁目と六丁目の交差点を渡りながら、僕は迷っていた。
 家へ帰る前に馴染みの女給がいるカフェーに寄るかどうかを、だ。
 数分前に手前の角を曲がれば店に入れたのだが、心が揺れていたため、なんとなしに通りすぎてしまった。
 そのくせ未練がましく、いまだに店に入るかを悩んでいた。
 もう時間も遅いし、明日も早朝から仕事がある。しかも給料日前だ。自宅では歳の離れた弟も待っているし……どう考えたって寄らない理由の方が多い。

正二しょうじはもう寝てる時間だけど、ただでさえいつも帰りが遅いからなぁ。たまには早く帰った方がいいよな……」

 ぶつぶつと悩みながら、いまだ木造校舎の焼け跡が痛々しい泰陽たいよう尋常小学校の前を通過する。そして橋を渡り、日比谷方面へ進んだ。
 繁華街を離れると、街路灯が減って少しずつ周りが暗くなっていく。
 しばらく歩いていた僕は、空き家の前でふと足を止めた。
 寄り道するか迷っていたせいで、いつもとは違う帰り道だったのだ。
 僕の背丈せたけでぎりぎり敷地内が覗ける高さの生垣いけがきに囲まれており、庭の奥に古い家屋が立っている。人の気配はまったくなく、夜目にも半壊しているのがわかった。雨戸は外れ、広縁の奥にある障子戸しょうじども穴が開いてボロボロだ。
 住人のいない家なんてめずらしくもない。
 あの大地震から、まだ二年も経っていないのだ。
 銀座周辺はかなり復興が進んでいるほうだが、それでも街をほぼ壊滅させた災害の傷跡はあちこちに残っていた。
 僕がこんな変哲もない場所で足を止めたのは──花の香りがしたからだった。
 屋敷を囲っているのは枳殻からたちの木だった。枝に子供の指ほどにもなる鋭利えいりなとげがえるため、獣や泥棒避けとして生垣によく使われている。
 攻撃的なその姿に似合わず、春から初夏にかけて清楚せいそな白い花が咲く。
 今は五月の半ば。絶好の時期だが、かつては立派だったであろう生垣はすっかり茶色がかったこけいろに変わってしまっていた。
 匂いがするのだから、どこかに枯れていない部分が残っているはず。
 普段の僕は花なんか気に留めやしない無粋ぶすいな人間だが、遅くまで働いて疲れていたのかもしれない。闇夜を漂う甘い香に誘い込まれたみたいだった。
 花を探しに敷地の周りをぐるっと歩いてみる。家屋が壊れているとはいえ、帝都ホテルも近い一等地でなかなかの広さだ。元住人はさぞ資産家だったのだろう。
 僕はそんな下世話なことを考えながら最初の場所に戻ってきて、腕を組み、独り言をつぶやいた。

「──おかしいな」

 生垣はずっと続いていた。どこまで、どこまでも。

「なんで、門がないんだ? 暗いから見逃したかな」

 もう一周、今度はさっきと逆回りする。
 やはり、出入口らしきものがどこにもない。外周は生垣で完全に囲われている。
 家主が去ったあと、人の手が入らなくなった植物が好き放題に伸びて入口を封鎖してしまったのだろうか。だが、生垣の境目がわからないほど整っている。
 自然の仕業しわざなら、門に枝が絡むことはあっても、こうもすべてを隠して覆いつくせないだろう。
 それに花も見当たらなかった。実も、もう二度とつくことはなさそうだ。枳殻はすべて枯れ、乾いたするどいとげを残すのみ。色褪いろあせてなお、住人のいなくなった家を強固に守っているようだった。

「もしかして、正二が話していた幽霊屋敷って、この家か……?」

 小学校の近くに『幽霊屋敷』があると、前に弟が話していたのだ。
 いつもの戯言たわごとだと思ってちゃんと聞いてやらなかった。
 なるほど、たしかに入口のない廃屋というのは摩訶不思議まかふしぎである。
 子供であれば尚更、騒ぎ立てそうなネタだった。
 だが、たいてい真相は現実的だ。
 小学生の通学路でもあるし、侵入できないようにふさがれたのだろう。
 枯れた生垣から漂う甘い花の香の理由は判明しなかったが、外から見えない内側にでも咲いているに違いない。
 なんにせよ、ここらの地価は高騰こうとうしているだろうに、もったいない話だ、と庶民の僕はついぼやいてしまう。

「この土地を放っておけるくらいの金持ちだったら、毎日体がこんなになるまで働く必要ないんだろうなぁ……」

 やはり無駄遣いはやめて、まっすぐ家に帰ろうという気分になってきた。
 空き家に背を向け、帰宅を急ごうとしたそのとき──
 急に息が苦しくなり、しばらく咳き込んだあとで一瞬目の前が白黒と反転した。
 しかも、人の気配などなかったはずなのに、どこからか声が聞こえてきた。

『なつ……なつや……』
「ヒッ‼」
『……おうい』

 僕が汚れた手を拭いていると、低く、重く、とてもこの世のものとは思えない呼びかけが耳に入った。背後に流れる外濠そとぼりがわの静かな水音が、よけいに不気味さを駆り立てる。
 鼓動こどうはやまず、水が伝ったように背筋せすじが冷たくなる。僕は恐怖のあまり、明るい銀座通りを目指して一目散に道を戻った。


「まあ! それで走って逃げて、結局お店にきたんですか? 大狼おおがみさん」

 馴染みといっても、僕の給料額ではせいぜい月に一度顔を出すだけである。そんな決して上客とは呼べない僕に、『カフェー・レオパルド』の女給のチイ子ちゃんは嫌な顔ひとつせずビールを注いでくれた。

「ごめんね、もうすぐ閉店時間なのに。一瓶でやめておくよ」
「気にしないでください。わざわざ顔を見せにきてくださって嬉しいです」

 袖を絞った着物に、西洋風の白いエプロン。口元は濃い紅。
 店全体の趣向しゅこうは異国かぶれで少々けばけばしい。あまり僕の好みではないのだが、この俗っぽさに生きた人間の生命力のようなものを感じて、今だけは心底ほっとする。
 僕は、ほとんどやけ酒のようにビールをあおった。

「出入口のない空き家でしたっけ……春先に一度、用事があって小学校のほうに出向きましたけれど。幽霊屋敷には気づきませんでした。わたし、銀座に来て一年も経っていないから、土地に詳しくないんです」
「この街は、諸外国の影響を受けてどんどん変貌へんぼうしているから、住んでいる歴の長さは関係ないよ。ネオン管とかいうチカチカしている文字はなんだか下品だし、輸入自動車が急激に増えたせいで空気も悪い」
「……なにか、お悩みでもあるんですか? お仕事でお疲れとか」

 さすが女給、するどい。客の愚痴ぐちは聞き慣れているらしい。
 僕が就職したのは、欧州大戦(第一次世界大戦)終結後の経済破綻けいざいはたん、株価大暴落というしわ寄せがやってきた時期だった。そのうえ追い打ちのような大地震である。
 こんな時代に生きていたら、誰しも愚痴のひとつも言いたくなるというものだ。

「まあ、僕は不況の直撃を受けている輸出産業の労働者だからね。きついのはしかたない。新しい家探しもしなきゃいけないし……節制する必要もあるから、しばらくここにも来られないかもしれないな。」

 つい湿っぽくなってしまい、我ながら嫌だなと思う。
 だが、さっき味わった恐怖のせいで変に気分がたかぶって口が回る。

「うちの実家も、この不況で潰れたんですよ。それで東京へやってきて、カフェーに勤めてるんです。最初は、自分にできるか不安だったけど……みなで復興を目指している姿を見ていたら、いつのまにかこの街も女給の仕事も好きになってました」

 チイ子ちゃんは僕を励ますように、自らの身の上をあえて笑いながら話してくれた。
 年下の女の子に気を遣わせてしまったのが申し訳なくなり、僕も力なく微笑み返した。
 チイ子ちゃんは以前よりも明るく、前向きになった気がする。恋人でもできたのだろうかと邪推じゃすいするが、詮索せんさくするのは野暮やぼというものだ。

「愚痴ばかりでごめんね。弟もいるし、ぼやいていないで僕も頑張らなきゃ」
「正二くんでしたよね。尋常小学校五年の」
「そう、生意気盛りでねぇ。でも、最近様子がちょっとおかしいんだ」
「あらまあ。どんなふうに?」
「嘘ばかりつくようになった。ほとんどが他愛のない内容だから、さほど問題にしてなかったんだけれど……苗字が大狼なもんだから、学校じゃ〝オオカミ少年〟なんて呼ばれているみたいだ」

 よく一緒に遊んでいた正二の友達が、そう呼んでいるのを聞いた。
 それ以来、休日や放課後もひとりで遊んでいる時間が増えたような気がする。

「オオカミ少年?」
伊曾保イソップ物語ものがたりの童話にちなんだあだ名だよ。『村に狼がきた』と毎日嘘をついていたせいで、本当にやってきたとき誰にも信じてもらえなかった子供の話。うちは両親がいないし、僕もしょっちゅう帰りが遅い。友達まで失くしたらと思うと心配だ」
さびしいんじゃないかしら。かまってほしくて嘘をつくのは、わたしも子供の頃に覚えがあるわ」
「やっぱり、そういうものかな」

 瓶に残った最後のビールが注がれ、目の前に置かれた。
 正二が寂しがっているのは僕もわかってはいる。だが、養っていくために仕事を減らすわけにはいかなかった。

「あ、そうだわ」

 考え込んでいると、チイ子ちゃんの明るい声で現実に戻される。

「三丁目の角に桜屋という大きな百貨店ができたでしょう。八階までの吹き抜けで、大理石とステンドグラスを使った内装がすごく豪華なんです。安本亀八やすもとかめはち活人形飾いきにんぎょうかざりがあったり、六階に水族館があったりするの。休日に弟さんを連れて行ってあげてはいかが?」
「水族館か……いいかもしれないね」

 正二は一度も観たことがないはずである。たしかに喜びそうだ。
 僕はビールの泡を飲み干して、会計を伝えた。

「これ、少ないけれど」
「どうも有難う。落ち着いたら、また顔を見せてくださいね」

 僕が料金とチップを払うと、チイ子ちゃんはお礼を言いながらも自分の取り分であるはずのチップをさりげなく半分返してきた。
 お金を挟んだ紙切れに、なにかが書いてある。

「この住所に兎田谷って探偵の先生が住んでるの。なんでも屋さんみたいなものだから、悩みがあるのでしたら相談だけでもなさってみたら」
「探偵……?」

 僕はよっぽど思いつめているように見えたのだろうか。
 返されたチップとともに一応受け取って、懐に入れておいた。
 あらためて別れの挨拶をし、カフェーを出る。
 火照ほてった頬に初夏のぬるい風が触れた。
 仕事場が築地にあるため、毎日銀座を突っきって帰らなければならない。だが、やはり僕はこの街があまり好きではない。赤いネオンと同じで気取っていてけばけばしい。排気はいき瓦斯ガスの混じったほこりっぽい空気は、吸うと気分が悪くなる。
 日比谷公園に着き、小屋が所狭しと並ぶごちゃっとした一画に入る。
 震災で家を失った者たちが住む仮設住宅群、いわゆる公設バラックである。
 その中にある粗末な四畳半が僕の家だった。
 未曾有みぞうの大地震から二年近く経った現在となっては、ほとんどの住人は新しく家を借りるか別の土地に移動しており、東京市はバラックの撤去作業を進めている。
 郵便受けには今日も移転を催促さいそくする通達が届いていた。早く引っ越さなければならないのだが、僕の給金ではなかなか仕事場付近に新しい住処を用意する余裕はない。場所や賃料だけの問題ではない。バラックならば仕事のあいだも誰かが子供たちをまとめて世話してくれるというのも大きい。
 ここを離れると、正二の面倒を見てくれる人がいなくなってしまう。

「……まずは住む場所をなんとかしないとな」

 水族館は早めに連れて行ってやりたいが、家のほうが急ぎだ。
 次の休日はまた仲介屋に行ってみよう。
 正二は限界まで僕が帰るのを待っていたらしい。枕元に児童向け雑誌を開いたまま眠っていた。
 弟の寝顔を眺めながら、僕は先の予定を立てはじめた。


 知らぬ間に眠っていたようだ。
 目を覚まし、あたりを見回すと正二の姿が見当たらなかった。

「正二!? 正二、どこへ行った⁉」

 便所、土間、押入と順番に確認するが、正二の姿はない。
 僕は玄関を飛び出し、日比谷公園内の仮設市場へ走った。

「あの、すみません。弟を見ませんでしたか? ええと、歳は十二で、紺飛白こんがすりの着物に丸帽を被った、ごく普通の男の子なんですが」

 すでに昼過ぎで、トタン屋根の下に並ぶ商品はほとんどが売り切れている。
 傾いた小屋にもたれかかってかみ煙草たばこんでいた店の親父が、呆れた物言いで煙を吐いた。

「にいちゃん、夜中じゃあるまいし騒ぎすぎだよ。日曜日の午後だぞ。どこか遊びに行っているんだよ。子供なんか腹が空いたら帰ってくるって」

 親父の言うとおり、まだ日は高い。
 バラックに住む子供たちはそこら中で自由に遊んでいる。
 青空の下、大量の洗濯ものがはためいていた。何も起こっていない、いつもと変わらない日常の生活風景。

「まず近くの交番に届けてから、通学路をたどって小学校のほうでも聞いてみるか……」

 それでも僕は不安だった。
 汗のつたう首筋を手の甲でぬぐって、公園の出口へ向かった。


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