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四章 眠り薬は味噌汁に合うか?
最終話
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利玖はその後、匠の運転するSUVでアパートを発った。
これから兄妹で実家に赴くのだという。利玖は、つい先日行ったばかりだと不満を顕わにしていたが、
『妖が抜けたかどうか、本家の医者に診てもらわないといけないだろう。こういう事はきちんと処理しておかないと、後になって家同士の遺恨になったら面倒臭い』
と匠に諭されて、渋々従った。
トランクに荷物を詰め、先に運転席に乗り込んでエンジンを掛けた匠が、助手席にやって来た利玖に何か声をかけるのが見えた。話している内容までは聞き取れなかったが、利玖は、思わぬ気づきを得たように、あ、という顔で頷くと、アパートの階段下に立っている史岐の所にやって来た。
そして、
「えい」
と気の抜けた掛け声とともに、史岐の腹に正拳突きを入れた。
「うっ」
「すみません。兄に唆されました」
「そんなに真面目くさった顔で、唆された事を自己申告する奴がいてたまるかよ……」
「まあ、まあ。ちょうど、あなたに聞き忘れていた事があったのを思い出しましたので」
史岐は腹をさすりながら、恨めしげに利玖を見下ろす。
「ああもう、痛い……。で、何?」
利玖は、内緒話をするように声をひそめた。
「次にあなたが歌う予定があるのは、どこですか」
そう訊ねた顔に、くすぐったそうな笑みが浮かぶ。
「リクエストに応えていただき、ありがとうございました。わたしは音楽には詳しくないのですが、とても素敵な歌声だったと思います。次は、観客に向けたパフォーマンスとして、あなたの本気の歌を聞いてみたい」
ずんぐりとしたSUVの後ろ姿が、あっという間に銀色の小さな点になり、見えなくなった後も、史岐はその場を動けずにいた。
パンプスの踵を鳴らしながら階段を降りてきて、史岐を見つけた若い女性が、不審者を見る目つきでじろじろと眺め回していかなければ、あと小一時間はそうしていたかもしれない。
匠の車は、濃いグレーの塗装がされていて。
利玖は、出会った夜と同じ、オーバーサイズの黒いジャケットを羽織っていた。
だから余計に、別れ際に一度だけ自分に向かって振られた、その手の白さが目に焼きついていた。
そんなものは、しかし、ただの勘違いだったかもしれない。そんな愛想を、利玖が持ち合わせているとは思えなかった。
シートベルトを締めようとした所を都合良く見間違えたのではないか。あるいは、もっと親しくなれば、その印象も変わるのだろうか。──いや、そんな事よりも、彼女は最後に、自分に何を訊いたのだったか……。
無性に煙草が吸いたくなった。
道路を渡って、反対側にあるコンビニエンスストアに入ると、缶コーヒーを買って、それを片手に喫煙所に行って煙草に火を点けた。朝の九時過ぎという中途半端な時間のせいか、史岐の他に利用者はいない。
駅前に、潟杜大の卒業生が運営している小さなライブハウスがある。そこで、来週の水曜日に他大学のバンドサークルと合同ライブを行う予定があった。
だが、自分はそれを利玖には知らせない気がした。
単に、彼女が、ああいった場に慣れていないだろうと心配する気持ちも少しはある。
だが、本当はもっと利己的な願望によって、自分が利玖を「大勢の観客の中の一人」にしたくないのだと思っている事にも、史岐は気づいていた。
突然に降りかかった理不尽も、身勝手な史岐の要求も、何もかもが彼女の世界では些末な事であるというように、ゆったりと目をつむって自分の歌声をなぞっていた無防備な姿……。間近で感じた息づかいと、あどけない表情が、暗い部屋の壁に寄りかかっていても、煙草を吸う為にベランダに出ていても、長周期で点滅する恒星の光のようにくり返し頭に浮かんできた。
利玖が、ステージに立つ史岐の歌を聞きたいと言ってくれたのと同じように、史岐は、彼女の意識が自分だけに向けられ、近づく事を赦された一瞬を忘れられずにいる。
短くなった煙草を灰皿に捨てて、缶コーヒーの栓を開ける。
金属弁から空気が抜ける音で思考を切り替えた。
そんな願いを口に出来るような立場ではない。──少なくとも、今は。
空を仰ぐと、天の高い所に薄衣のような雲があった。
所々で大気の青さが透けているその雲が、少しずつ東に向かって流れるのを、史岐は少しの間、目で追った。
(週末になったら……)
ふいに、ひどく素直な思いが胸をついた。
(梓葉に会って、謝って……、それから一緒に、お互いの親の所へ、ちゃんと話をしに行こう)
泣かせてしまった幼馴染の赤らんだ目元が、まだ和らがない痛みとともに瞼の裏をつっと刺し、目をつぶって飲み込んだコーヒーのほろ苦さと一つになって喉を滑り落ちていった。
これから兄妹で実家に赴くのだという。利玖は、つい先日行ったばかりだと不満を顕わにしていたが、
『妖が抜けたかどうか、本家の医者に診てもらわないといけないだろう。こういう事はきちんと処理しておかないと、後になって家同士の遺恨になったら面倒臭い』
と匠に諭されて、渋々従った。
トランクに荷物を詰め、先に運転席に乗り込んでエンジンを掛けた匠が、助手席にやって来た利玖に何か声をかけるのが見えた。話している内容までは聞き取れなかったが、利玖は、思わぬ気づきを得たように、あ、という顔で頷くと、アパートの階段下に立っている史岐の所にやって来た。
そして、
「えい」
と気の抜けた掛け声とともに、史岐の腹に正拳突きを入れた。
「うっ」
「すみません。兄に唆されました」
「そんなに真面目くさった顔で、唆された事を自己申告する奴がいてたまるかよ……」
「まあ、まあ。ちょうど、あなたに聞き忘れていた事があったのを思い出しましたので」
史岐は腹をさすりながら、恨めしげに利玖を見下ろす。
「ああもう、痛い……。で、何?」
利玖は、内緒話をするように声をひそめた。
「次にあなたが歌う予定があるのは、どこですか」
そう訊ねた顔に、くすぐったそうな笑みが浮かぶ。
「リクエストに応えていただき、ありがとうございました。わたしは音楽には詳しくないのですが、とても素敵な歌声だったと思います。次は、観客に向けたパフォーマンスとして、あなたの本気の歌を聞いてみたい」
ずんぐりとしたSUVの後ろ姿が、あっという間に銀色の小さな点になり、見えなくなった後も、史岐はその場を動けずにいた。
パンプスの踵を鳴らしながら階段を降りてきて、史岐を見つけた若い女性が、不審者を見る目つきでじろじろと眺め回していかなければ、あと小一時間はそうしていたかもしれない。
匠の車は、濃いグレーの塗装がされていて。
利玖は、出会った夜と同じ、オーバーサイズの黒いジャケットを羽織っていた。
だから余計に、別れ際に一度だけ自分に向かって振られた、その手の白さが目に焼きついていた。
そんなものは、しかし、ただの勘違いだったかもしれない。そんな愛想を、利玖が持ち合わせているとは思えなかった。
シートベルトを締めようとした所を都合良く見間違えたのではないか。あるいは、もっと親しくなれば、その印象も変わるのだろうか。──いや、そんな事よりも、彼女は最後に、自分に何を訊いたのだったか……。
無性に煙草が吸いたくなった。
道路を渡って、反対側にあるコンビニエンスストアに入ると、缶コーヒーを買って、それを片手に喫煙所に行って煙草に火を点けた。朝の九時過ぎという中途半端な時間のせいか、史岐の他に利用者はいない。
駅前に、潟杜大の卒業生が運営している小さなライブハウスがある。そこで、来週の水曜日に他大学のバンドサークルと合同ライブを行う予定があった。
だが、自分はそれを利玖には知らせない気がした。
単に、彼女が、ああいった場に慣れていないだろうと心配する気持ちも少しはある。
だが、本当はもっと利己的な願望によって、自分が利玖を「大勢の観客の中の一人」にしたくないのだと思っている事にも、史岐は気づいていた。
突然に降りかかった理不尽も、身勝手な史岐の要求も、何もかもが彼女の世界では些末な事であるというように、ゆったりと目をつむって自分の歌声をなぞっていた無防備な姿……。間近で感じた息づかいと、あどけない表情が、暗い部屋の壁に寄りかかっていても、煙草を吸う為にベランダに出ていても、長周期で点滅する恒星の光のようにくり返し頭に浮かんできた。
利玖が、ステージに立つ史岐の歌を聞きたいと言ってくれたのと同じように、史岐は、彼女の意識が自分だけに向けられ、近づく事を赦された一瞬を忘れられずにいる。
短くなった煙草を灰皿に捨てて、缶コーヒーの栓を開ける。
金属弁から空気が抜ける音で思考を切り替えた。
そんな願いを口に出来るような立場ではない。──少なくとも、今は。
空を仰ぐと、天の高い所に薄衣のような雲があった。
所々で大気の青さが透けているその雲が、少しずつ東に向かって流れるのを、史岐は少しの間、目で追った。
(週末になったら……)
ふいに、ひどく素直な思いが胸をついた。
(梓葉に会って、謝って……、それから一緒に、お互いの親の所へ、ちゃんと話をしに行こう)
泣かせてしまった幼馴染の赤らんだ目元が、まだ和らがない痛みとともに瞼の裏をつっと刺し、目をつぶって飲み込んだコーヒーのほろ苦さと一つになって喉を滑り落ちていった。
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