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四章 眠り薬は味噌汁に合うか?
兄のやり方
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時を置かずして、利玖の兄・佐倉川匠が部屋にやって来た。
彼は、実習小屋への物資運搬を代わってくれた妹をねぎらうつもりだったのか、洋菓子店の紙袋を提げていたが、史岐に支えられて床にへたり込んでいる妹の姿を見るや、無言でそれを取り落として大股で歩み寄ってくると、史岐の胸倉を掴んだ。
『兄さんの心配しているような事は何もありません!』という利玖の制止があと数秒遅ければ、今度は史岐が床に伸びていただろう。
利玖が、自分の部屋に史岐がやって来た経緯について一通り説明し終えると、匠はようやく納得して、詫び代わりに三人分の茶を用意した。
「兄さん……」
奇妙な茶会が始まると、利玖は開口一番に恨みの籠もった声を発した。
「あの妖の形態の事、知っていて黙っていましたね」
何の話か分からずに、史岐が兄妹の顔を見比べると、匠は悪びれる様子もなく「いやあ、すまなかったね」と言った。
「でも、おまえ、いい加減にその怖がりは直さなきゃいけないよ。臼内岳の実習では似たような奴を何十匹と同定するんだから」
「段階的に克服していくつもりだったんです」
「あの……、何の話でしょうか」
史岐がおそるおそる訊ねる。
「利玖はね、脚がたくさんついている虫がめっぽう苦手なんだ。近くで見ると硬直して、動けなくなる。ひどいと今日みたいに眩暈を起こして、倒れる事もある」
匠は目を細め、心の底から美味いと感じている顔で茶をすすった。
「クモもゴキブリも平気なのに。変わってるよね」
「はあ……」
史岐は、つとめて平静さを保とうとしたが、赤らんだ頬をむくれさせてマグカップと睨めっこをしている利玖を見ると、耐えきれずに吹き出してしまった。
「あんな、立派な事を言っておいて……、虫が駄目って……」
「ごく一部の虫だけです!」
「まあ、まあ。とにかく、無事に半身を返す事が出来てよかったよ」
憤慨している妹を宥めつつ、匠は史岐に目を向ける。
「──と、僕はそう思ってるけど。いいんだね?」
史岐は、そう問われると、体ひとつ分後ろに下がって床に両手と額をつけた。利玖が驚いて、ちょっとのけぞった。
「うわっ、何ですか急に」
「この度の事は、全て私一人の落ち度。弁明のしようもありません。妹御にしてしまった事への償いは、必ず……」
「いやいや、いいよ、そういうのは」
匠は片手を振って、史岐の話を遮った。
「梓葉さんとの事もまだ片付いていないんだろう? そんな君に責任がどうだの、今言われてもね」
柔らかな声の芯に、鞘から抜いた刀のような、危うく、鋭いものがある。
額に汗が浮くのを感じながら、史岐は、声を絞り出した。
「……おっしゃる通りです。梓葉との婚約については、早急に手を打ちます」
「うん。それがいいだろうね」
匠は湯呑みを机に置き、顎を引いた。
「力になれる事があったら、いつでも連絡してきなさい。
こういう形でも、せっかく結ばれた縁だ。佐倉川の家としても、これからは必要があれば、喜んで曽祖父の智慧を貸そう」
匠の言葉に丁寧に礼を返しながら、史岐は心の中で舌打ちをした。
昨日、行動を共にしていて気が付いたのだが、利玖は旧家同士の繋がりについてほとんど知識を持っていない。それを良い事に、今後も適度な付き合いを続けながら、いずれは友人として佐倉川家の書庫に立ち入る許可を得る心積もりでいたのだが、匠はその思惑を見抜き、先に「家同士」の協力を取り付けてきたのだった。
彼は、実習小屋への物資運搬を代わってくれた妹をねぎらうつもりだったのか、洋菓子店の紙袋を提げていたが、史岐に支えられて床にへたり込んでいる妹の姿を見るや、無言でそれを取り落として大股で歩み寄ってくると、史岐の胸倉を掴んだ。
『兄さんの心配しているような事は何もありません!』という利玖の制止があと数秒遅ければ、今度は史岐が床に伸びていただろう。
利玖が、自分の部屋に史岐がやって来た経緯について一通り説明し終えると、匠はようやく納得して、詫び代わりに三人分の茶を用意した。
「兄さん……」
奇妙な茶会が始まると、利玖は開口一番に恨みの籠もった声を発した。
「あの妖の形態の事、知っていて黙っていましたね」
何の話か分からずに、史岐が兄妹の顔を見比べると、匠は悪びれる様子もなく「いやあ、すまなかったね」と言った。
「でも、おまえ、いい加減にその怖がりは直さなきゃいけないよ。臼内岳の実習では似たような奴を何十匹と同定するんだから」
「段階的に克服していくつもりだったんです」
「あの……、何の話でしょうか」
史岐がおそるおそる訊ねる。
「利玖はね、脚がたくさんついている虫がめっぽう苦手なんだ。近くで見ると硬直して、動けなくなる。ひどいと今日みたいに眩暈を起こして、倒れる事もある」
匠は目を細め、心の底から美味いと感じている顔で茶をすすった。
「クモもゴキブリも平気なのに。変わってるよね」
「はあ……」
史岐は、つとめて平静さを保とうとしたが、赤らんだ頬をむくれさせてマグカップと睨めっこをしている利玖を見ると、耐えきれずに吹き出してしまった。
「あんな、立派な事を言っておいて……、虫が駄目って……」
「ごく一部の虫だけです!」
「まあ、まあ。とにかく、無事に半身を返す事が出来てよかったよ」
憤慨している妹を宥めつつ、匠は史岐に目を向ける。
「──と、僕はそう思ってるけど。いいんだね?」
史岐は、そう問われると、体ひとつ分後ろに下がって床に両手と額をつけた。利玖が驚いて、ちょっとのけぞった。
「うわっ、何ですか急に」
「この度の事は、全て私一人の落ち度。弁明のしようもありません。妹御にしてしまった事への償いは、必ず……」
「いやいや、いいよ、そういうのは」
匠は片手を振って、史岐の話を遮った。
「梓葉さんとの事もまだ片付いていないんだろう? そんな君に責任がどうだの、今言われてもね」
柔らかな声の芯に、鞘から抜いた刀のような、危うく、鋭いものがある。
額に汗が浮くのを感じながら、史岐は、声を絞り出した。
「……おっしゃる通りです。梓葉との婚約については、早急に手を打ちます」
「うん。それがいいだろうね」
匠は湯呑みを机に置き、顎を引いた。
「力になれる事があったら、いつでも連絡してきなさい。
こういう形でも、せっかく結ばれた縁だ。佐倉川の家としても、これからは必要があれば、喜んで曽祖父の智慧を貸そう」
匠の言葉に丁寧に礼を返しながら、史岐は心の中で舌打ちをした。
昨日、行動を共にしていて気が付いたのだが、利玖は旧家同士の繋がりについてほとんど知識を持っていない。それを良い事に、今後も適度な付き合いを続けながら、いずれは友人として佐倉川家の書庫に立ち入る許可を得る心積もりでいたのだが、匠はその思惑を見抜き、先に「家同士」の協力を取り付けてきたのだった。
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