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二章 反撃:彼女にとっての生物学
鍾乳洞の秘密
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「地下に図書館が丸ごと一つ埋まっている」とは熊野史岐の言葉である。
なかなか風情のある言い回しだが、その口ぶりからすると詳しい造りまでは知らないのだろう。
確かに地下である事には違いないが、海抜でいえば、書庫の内部は潟杜大とほぼ同じ高さにある。祠から続く通路も、人目を避ける為にいったんは地面の下に入るものの、最終的には上り坂や階段によって、地表近くに戻ってくる造りになっている。
アリの巣を想像してもらえばわかりやすい。鍾乳洞の中にいくつもの岩屋を掘って、それぞれの部屋に本を収め、行き来がしやすいように通路で繋いだ巨大な空間。それが、佐倉川家の書庫の正体だった。
通路の終わりにある鉄扉を開けると、霧まじりの冷気とともに、体を揺るがすような轟音が響き始めた。
扉脇のスイッチを操作して照明を点けると、目で捉えられないほどの高みから、まっすぐに目の前を流れ落ちる滝が浮かび上がった。五十メートルは優にあろうか。鉄扉の向こうに出て、少し階段を下りると、なみなみと澄んだ水をたたえた滝壺に行き当たる。滝壺の水は鍾乳石を削り、透きとおった地下水流となって、右手の奥に伸びていた。
下流に向かって通路を進み、石造りの橋を渡った。分かれ道を左に進んだ先が本のある区画だが、利玖は、それを右に曲がった。
橋のそばに、一か所、岩棚が張り出した所がある。岩棚の上はきっちり平らに均されて、玉砂利が敷き詰められている。そこに、色違いの座布団が二つ、向かい合うように置かれていた。
岩棚の付け根の左右に杭が立てられ、その間にしめ縄が渡されている。ここに無断で立ち入る事は、佐倉川家の実子である利玖でさえ許されていなかった。いつ来ても、誰の訪れもないのに、ただ、何者かを迎えるような準備ばかりがきちんとされているのを見ると、薄ら寒いものを覚えるのは利玖だけではないだろう。ここが日の光の届かない深い穴の中であるという事も、その感覚を増長させる。
岩棚を過ぎると、通路はぐっと左に逸れて岩盤に向かい、短い袋小路に行き当たった。白漆喰のような上塗りがされていて、急にどこかの民家に迷い込んでしまったような、落ち着かない気持ちになる。
袋小路の左側に、二組の襖が間隔をあけて並んでいる。この襖は、それぞれ、別の和室に通じていて、利玖も自由に使う事が許されている。空調設備の他にも、文机や椅子、床の間までしつらえてあって、飲食の心配さえしなければかなりの長居が出来る代物だった。もしかしたら、どこぞから秘密裏に招いた客をもてなすのに使われる事もあるのかもしれない。
バスケットを片脇に抱いたまま、二組の襖の横を通り過ぎて、利玖は袋小路の突き当たりでしゃがみ込んだ。
ここには照明が届かない。冷気の澱のような闇の中に、ひっそりと、穏やかな顔つきの石像が佇んでいた。
利玖はラムネ菓子の蓋を開けると、石像の足元でそれを傾けて、二、三粒ほど地面に落とした。それから、供えられていた猪口の中に入っていた古い水を捨てて、水筒の中身を注ぎ入れ、じっと石像を見つめてから拝礼をした。
何の為に作られ、祀られている像なのか、利玖は知らない。だが、書庫を使う前には必ずこの場所を訪れて挨拶をしていくように言いつけられていた。
特殊な場所に造られた書庫を守ってくれている神様のような存在なのかもしれない、と思っている。
和室に入って、ラムネ菓子を少し食べ、水筒の中に入っていた、桃の香りのするさっぱりとした口当たりの緑茶で腹ごしらえをしてから、利玖は書庫に向かった。
造りこそ隠れ家じみているが、別段、国家を揺るがすような機密が収められているわけではない。蔵書の半分くらいは現在でもオンライン・ショップや町の書店で買える物だし、残りの半分も、ほとんどは、古本屋や大学の目録を地道に辿れば探し当てられる。
それらを差し引いた残りが、何百年も前に出版された当時の状態で現存している書物や、滅んだ文明がかろうじて遺した史書などで、これらは造りに見合う価値があると呼べるかもしれない。
曾祖父が独自に収集を行い、時には自ら筆を執って書き上げ、世に出されないまま眠っている本も、その中に含まれる。潟杜の地に住まう妖について書かれた書物も、多くはここに分類された。
世間一般で『妖』と呼ばれるものと、子ども向けの図鑑に掲載されている動植物の違いを、利玖はあまり明確に意識した事がない。
目には見えないだけできっと妖はいるに違いない、というのではなく、人間の目に見えない物などたくさんあるのだから、妖など存在しないと言い切る事も出来ない、という考え方である。確かに、妖の生態や、その大捕物についての記述は、いかにも読み手の好奇心をくすぐるような突飛な物に偏っているが、近年まで詳しい生態が解明されてこなかった動植物に関しても似たような事が言える。
史岐は『五十六番』と呼んでいた。それが妖の名前なのだろうか? それとも、ある一連のシリーズに、取り扱いやすいように順番に数字を振ったのだろうか。……誰が、いつ、どういう目的で?
兄には劣るが、利玖もかなりの本の虫である。膨大な数の本を前にするとどうしても気持ちが高揚して、調べる予定のなかった事にまで好奇心が向いてしまいそうになるのを制御するのは至難の業だった。
潟杜の妖について書いた書籍を片っ端から読んでみようとしたが、あまりに数が多すぎて、時間が足りなさそうだったので、方針を変えて、妖によって体に不調を来したとされる住民の治療記録を読んでみる事にした。だが、自分と類似する症状はなかなか見つからず、そうこうしているうちに気がつくと十二時になっていた。
いつの間にか、あちこちから持ち出してきた本が、砦のように体の周りに積み上がっている。
読み終えた本を元の場所に戻し、続きを読みたい物には栞を挟むと、利玖は慌ただしく最初に入ってきた鉄扉に向かった。
なかなか風情のある言い回しだが、その口ぶりからすると詳しい造りまでは知らないのだろう。
確かに地下である事には違いないが、海抜でいえば、書庫の内部は潟杜大とほぼ同じ高さにある。祠から続く通路も、人目を避ける為にいったんは地面の下に入るものの、最終的には上り坂や階段によって、地表近くに戻ってくる造りになっている。
アリの巣を想像してもらえばわかりやすい。鍾乳洞の中にいくつもの岩屋を掘って、それぞれの部屋に本を収め、行き来がしやすいように通路で繋いだ巨大な空間。それが、佐倉川家の書庫の正体だった。
通路の終わりにある鉄扉を開けると、霧まじりの冷気とともに、体を揺るがすような轟音が響き始めた。
扉脇のスイッチを操作して照明を点けると、目で捉えられないほどの高みから、まっすぐに目の前を流れ落ちる滝が浮かび上がった。五十メートルは優にあろうか。鉄扉の向こうに出て、少し階段を下りると、なみなみと澄んだ水をたたえた滝壺に行き当たる。滝壺の水は鍾乳石を削り、透きとおった地下水流となって、右手の奥に伸びていた。
下流に向かって通路を進み、石造りの橋を渡った。分かれ道を左に進んだ先が本のある区画だが、利玖は、それを右に曲がった。
橋のそばに、一か所、岩棚が張り出した所がある。岩棚の上はきっちり平らに均されて、玉砂利が敷き詰められている。そこに、色違いの座布団が二つ、向かい合うように置かれていた。
岩棚の付け根の左右に杭が立てられ、その間にしめ縄が渡されている。ここに無断で立ち入る事は、佐倉川家の実子である利玖でさえ許されていなかった。いつ来ても、誰の訪れもないのに、ただ、何者かを迎えるような準備ばかりがきちんとされているのを見ると、薄ら寒いものを覚えるのは利玖だけではないだろう。ここが日の光の届かない深い穴の中であるという事も、その感覚を増長させる。
岩棚を過ぎると、通路はぐっと左に逸れて岩盤に向かい、短い袋小路に行き当たった。白漆喰のような上塗りがされていて、急にどこかの民家に迷い込んでしまったような、落ち着かない気持ちになる。
袋小路の左側に、二組の襖が間隔をあけて並んでいる。この襖は、それぞれ、別の和室に通じていて、利玖も自由に使う事が許されている。空調設備の他にも、文机や椅子、床の間までしつらえてあって、飲食の心配さえしなければかなりの長居が出来る代物だった。もしかしたら、どこぞから秘密裏に招いた客をもてなすのに使われる事もあるのかもしれない。
バスケットを片脇に抱いたまま、二組の襖の横を通り過ぎて、利玖は袋小路の突き当たりでしゃがみ込んだ。
ここには照明が届かない。冷気の澱のような闇の中に、ひっそりと、穏やかな顔つきの石像が佇んでいた。
利玖はラムネ菓子の蓋を開けると、石像の足元でそれを傾けて、二、三粒ほど地面に落とした。それから、供えられていた猪口の中に入っていた古い水を捨てて、水筒の中身を注ぎ入れ、じっと石像を見つめてから拝礼をした。
何の為に作られ、祀られている像なのか、利玖は知らない。だが、書庫を使う前には必ずこの場所を訪れて挨拶をしていくように言いつけられていた。
特殊な場所に造られた書庫を守ってくれている神様のような存在なのかもしれない、と思っている。
和室に入って、ラムネ菓子を少し食べ、水筒の中に入っていた、桃の香りのするさっぱりとした口当たりの緑茶で腹ごしらえをしてから、利玖は書庫に向かった。
造りこそ隠れ家じみているが、別段、国家を揺るがすような機密が収められているわけではない。蔵書の半分くらいは現在でもオンライン・ショップや町の書店で買える物だし、残りの半分も、ほとんどは、古本屋や大学の目録を地道に辿れば探し当てられる。
それらを差し引いた残りが、何百年も前に出版された当時の状態で現存している書物や、滅んだ文明がかろうじて遺した史書などで、これらは造りに見合う価値があると呼べるかもしれない。
曾祖父が独自に収集を行い、時には自ら筆を執って書き上げ、世に出されないまま眠っている本も、その中に含まれる。潟杜の地に住まう妖について書かれた書物も、多くはここに分類された。
世間一般で『妖』と呼ばれるものと、子ども向けの図鑑に掲載されている動植物の違いを、利玖はあまり明確に意識した事がない。
目には見えないだけできっと妖はいるに違いない、というのではなく、人間の目に見えない物などたくさんあるのだから、妖など存在しないと言い切る事も出来ない、という考え方である。確かに、妖の生態や、その大捕物についての記述は、いかにも読み手の好奇心をくすぐるような突飛な物に偏っているが、近年まで詳しい生態が解明されてこなかった動植物に関しても似たような事が言える。
史岐は『五十六番』と呼んでいた。それが妖の名前なのだろうか? それとも、ある一連のシリーズに、取り扱いやすいように順番に数字を振ったのだろうか。……誰が、いつ、どういう目的で?
兄には劣るが、利玖もかなりの本の虫である。膨大な数の本を前にするとどうしても気持ちが高揚して、調べる予定のなかった事にまで好奇心が向いてしまいそうになるのを制御するのは至難の業だった。
潟杜の妖について書いた書籍を片っ端から読んでみようとしたが、あまりに数が多すぎて、時間が足りなさそうだったので、方針を変えて、妖によって体に不調を来したとされる住民の治療記録を読んでみる事にした。だが、自分と類似する症状はなかなか見つからず、そうこうしているうちに気がつくと十二時になっていた。
いつの間にか、あちこちから持ち出してきた本が、砦のように体の周りに積み上がっている。
読み終えた本を元の場所に戻し、続きを読みたい物には栞を挟むと、利玖は慌ただしく最初に入ってきた鉄扉に向かった。
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