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二章 荒天の縞狩高原
馬力のかからない会話
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八月二日の昼前に、利玖と匠は縞狩高原に降り立った。集合時刻よりも十五分ほど早い到着である。
縞狩高原は、潟杜から車で二時間ほどの所にある高原リゾートで、山頂一帯が観光地になっている。なだらかな丘にコテージやレストラン、ホテルなどが点在していた。高度経済成長期の名残を感じさせる古い施設が大半を占めるが、キャンプ場やスキー場の他、湖などの景勝地も多数存在する為、現在でも観光客の利用は多い。
潟杜大の宿舎は、そういった観光施設が集まる場所からはやや外れた一画にあった。
開発時に余った土地を買い取ったのか、すぐ近くに森があって、見晴らしは良くない。しかし、地面を均した運動場や体育館、舗装された駐車場を備えていて、数日滞在するには十分な設備が揃っていた。
潟杜を出発してから徐々に空に雲が増え始め、風も強くなり、嫌な予感はしていたのだが、宿舎に着く頃には高原全体がすっぽりと雲の中に入っていた。ヘッドライトを点けていても低速走行しなければならないほど霧が深く、葦賦岳の山頂がある方角を見上げても、何層にも重なって流れていく灰色の靄しか見えない。
極めつけに、荷物を降ろしている間にぽつぽつと雨が降り始めた。
「これは、ちょっと厳しいね……」
宿舎に荷物を運び入れて、ロビーのソファで一息つきながら、匠は外を見て呟いた。
「どうする? おまえ、バスとタクシーで先に帰るかい?」
利玖は首を振った。
「山の天気は変わりやすいと言うでしょう。待っていれば機会に恵まれるかもしれません」
「天気が不安定な時に山に入るのなんて、なおさら許可できないよ」
「熊野史岐が一緒でも駄目ですか?」
「駄目」
「まあ……、そうですね。すみません、今、自分でも『駄目だな』とわかっていて訊きました」
雨で鬱々とした兄妹が馬力のかからない会話をしている所に、東御汐子が現れた。
潟杜大のロゴが入った黒いジャージ姿で、後ろには、同じ格好をした大柄な男子生徒を一人連れている。
「佐倉川さん、お待たせしてしまって……」
「あ、いえいえ、お構いなく」
汐子は会釈をすると、背後の男子生徒を前に進ませた。
「剣道部部長の梶木智宏です」
梶木智宏は、かえって反っくり返って見えるほど背筋を伸ばし、緊張した面持ちで自己紹介をした。見た目に反して、心根の優しそうな、穏やかな口調だった。
「今回はお忙しい中ご足労いただいて、本当にありがとうございます。自分も含めて、未熟者ばかりですが、どうかご指導のほど、よろしくお願いします」
「あの……、どうか、そんなにかしこまらないで下さい。皆さんの方がずっと熱心に稽古されているんですから」
匠はそこで言葉を切ると、何か探すように辺りを見回した。
「ところで、もう一人来る事になっていると思うんですが」
「史岐さんでしたら、まだいらしていません」
汐子は、そう答えると、岩のように硬直している梶木智宏の肩を叩き、
「先に戻って、食べていて」
と言った。
そして、彼の後ろ姿が見えなくなってから、ちょっと困ったような表情で匠達に向き直った。
「すみません。彼、ちょっと力が入りすぎているんです。仕切る側の合宿って、今回が初めてなものですから」
「汐子さんは?」
「え……」
「汐子さんだって初めてでしょう。緊張しているんじゃないですか?」
汐子は、目を瞬かせていたが、やがて体にくっついていた殻が、ぱりんと砕けたように、気持ちの良い笑い方をした。
「はい……。それは、もう。だけどたった今、解けました」
「それは良かった」匠も微笑む。「食事中だったんですか? 僕達は食べてきましたから、どうぞ汐子さんも戻って下さい」
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘える事にします。
稽古は十三時から始める予定ですので、時間になったら、防具を着けて体育館の方にいらして下さい」
汐子は一礼して、食堂へ戻って行った。
再び兄と二人きりになった利玖は、しばらく、手持ち無沙汰にロビーをうろついたり、手近にあった観光雑誌や新聞を読んだりして時間を潰した後、兄の前に戻ってきた。
「稽古には参加するんですか?」
歩いている途中に浮かんだ疑問を口にする。
「うん。気は進まないけど、竹刀も持たずに上座に座って、あれやこれやと口だけ出す方が慣れないからね。面も着けるよ」
「あれって、紐で縛るんでしょう? 頭が痛くならないんですか?」
「なるさ」匠は顔をしかめる。「こんな雨の日は、特にね。憂鬱だなあ……」
その時、低いエンジン音が玄関の前に近づいてきた。
色の濃いヘッドライトの灯りが、一瞬、硝子越しに利玖達の足元を照らしてすぐに消える。古めかしいモスグリーンの塗装が雨煙の向こうに見えた。
「…………」
匠は、何も言わなかったが、顔には利玖にもわかるくらい大きな字で(憂鬱の種がもう一つ増えた)と書いてあった。
縞狩高原は、潟杜から車で二時間ほどの所にある高原リゾートで、山頂一帯が観光地になっている。なだらかな丘にコテージやレストラン、ホテルなどが点在していた。高度経済成長期の名残を感じさせる古い施設が大半を占めるが、キャンプ場やスキー場の他、湖などの景勝地も多数存在する為、現在でも観光客の利用は多い。
潟杜大の宿舎は、そういった観光施設が集まる場所からはやや外れた一画にあった。
開発時に余った土地を買い取ったのか、すぐ近くに森があって、見晴らしは良くない。しかし、地面を均した運動場や体育館、舗装された駐車場を備えていて、数日滞在するには十分な設備が揃っていた。
潟杜を出発してから徐々に空に雲が増え始め、風も強くなり、嫌な予感はしていたのだが、宿舎に着く頃には高原全体がすっぽりと雲の中に入っていた。ヘッドライトを点けていても低速走行しなければならないほど霧が深く、葦賦岳の山頂がある方角を見上げても、何層にも重なって流れていく灰色の靄しか見えない。
極めつけに、荷物を降ろしている間にぽつぽつと雨が降り始めた。
「これは、ちょっと厳しいね……」
宿舎に荷物を運び入れて、ロビーのソファで一息つきながら、匠は外を見て呟いた。
「どうする? おまえ、バスとタクシーで先に帰るかい?」
利玖は首を振った。
「山の天気は変わりやすいと言うでしょう。待っていれば機会に恵まれるかもしれません」
「天気が不安定な時に山に入るのなんて、なおさら許可できないよ」
「熊野史岐が一緒でも駄目ですか?」
「駄目」
「まあ……、そうですね。すみません、今、自分でも『駄目だな』とわかっていて訊きました」
雨で鬱々とした兄妹が馬力のかからない会話をしている所に、東御汐子が現れた。
潟杜大のロゴが入った黒いジャージ姿で、後ろには、同じ格好をした大柄な男子生徒を一人連れている。
「佐倉川さん、お待たせしてしまって……」
「あ、いえいえ、お構いなく」
汐子は会釈をすると、背後の男子生徒を前に進ませた。
「剣道部部長の梶木智宏です」
梶木智宏は、かえって反っくり返って見えるほど背筋を伸ばし、緊張した面持ちで自己紹介をした。見た目に反して、心根の優しそうな、穏やかな口調だった。
「今回はお忙しい中ご足労いただいて、本当にありがとうございます。自分も含めて、未熟者ばかりですが、どうかご指導のほど、よろしくお願いします」
「あの……、どうか、そんなにかしこまらないで下さい。皆さんの方がずっと熱心に稽古されているんですから」
匠はそこで言葉を切ると、何か探すように辺りを見回した。
「ところで、もう一人来る事になっていると思うんですが」
「史岐さんでしたら、まだいらしていません」
汐子は、そう答えると、岩のように硬直している梶木智宏の肩を叩き、
「先に戻って、食べていて」
と言った。
そして、彼の後ろ姿が見えなくなってから、ちょっと困ったような表情で匠達に向き直った。
「すみません。彼、ちょっと力が入りすぎているんです。仕切る側の合宿って、今回が初めてなものですから」
「汐子さんは?」
「え……」
「汐子さんだって初めてでしょう。緊張しているんじゃないですか?」
汐子は、目を瞬かせていたが、やがて体にくっついていた殻が、ぱりんと砕けたように、気持ちの良い笑い方をした。
「はい……。それは、もう。だけどたった今、解けました」
「それは良かった」匠も微笑む。「食事中だったんですか? 僕達は食べてきましたから、どうぞ汐子さんも戻って下さい」
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘える事にします。
稽古は十三時から始める予定ですので、時間になったら、防具を着けて体育館の方にいらして下さい」
汐子は一礼して、食堂へ戻って行った。
再び兄と二人きりになった利玖は、しばらく、手持ち無沙汰にロビーをうろついたり、手近にあった観光雑誌や新聞を読んだりして時間を潰した後、兄の前に戻ってきた。
「稽古には参加するんですか?」
歩いている途中に浮かんだ疑問を口にする。
「うん。気は進まないけど、竹刀も持たずに上座に座って、あれやこれやと口だけ出す方が慣れないからね。面も着けるよ」
「あれって、紐で縛るんでしょう? 頭が痛くならないんですか?」
「なるさ」匠は顔をしかめる。「こんな雨の日は、特にね。憂鬱だなあ……」
その時、低いエンジン音が玄関の前に近づいてきた。
色の濃いヘッドライトの灯りが、一瞬、硝子越しに利玖達の足元を照らしてすぐに消える。古めかしいモスグリーンの塗装が雨煙の向こうに見えた。
「…………」
匠は、何も言わなかったが、顔には利玖にもわかるくらい大きな字で(憂鬱の種がもう一つ増えた)と書いてあった。
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