煙みたいに残る Smoldering

梅室しば

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一章 また初夏がやって来る

葦賦岳

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 匠が神保研究室に戻った時、東御汐子は立ち上がって、壁に掛けてあるポスターを眺めていた。
 過去の研究発表会で評価が良かった物や、見栄えが良くわかりやすい仕上がりの物を額に入れて飾っておくと、見学に来た学生が研究室を選ぶ参考になったり、締め切り間際になってもレイアウトが決まらずに頭を抱えている卒論生の助けになったりするのである。
 汐子は、匠の方を振り向くと、見ていたポスターを指さした。
「これも、神保研究室の方が?」
 匠は微笑んだ。数学科の汐子が興味を惹かれるとしたら、そのポスターだろうと思っていたのだ。予想が当たった嬉しさで、ぐずついていた気分が少し持ち直した。
「うん。面白いだろう? 過去の統計と、気候変化を予測したデータを使って、森林の植生変遷をシミュレートしているんだ」
 真剣な様子でポスターを見つめている汐子の元に椅子を運んで来て、腰を下ろすようにすすめた時、ふいに、ぐっと鼻頭を押し戻されるような、きつい香水の匂いを感じた。
 煙草を吸った後でもわかるのだから、相当強い物である。人を見かけで判断するものではないが、汐子の立ち居振る舞いや、身に着けている小物に比べると、どこか噛み合っていない印象を受けた。
 匠の視線に気づいたのか、汐子は一瞬、気まずそうに目を逸らしたが、すぐに顔を上げて「ありがとうございます」と微笑んだ。
 それを見て、匠も香水の件はいったん忘れる事にする。そもそも、出会ったばかりの女性に対して、一方的に印象付けをする事自体が失礼だ、と自分をいさめた。
「そう、この発表の話だけど……、コンピュータの普及と高性能化のおかげだね。ここにあるような旧型でも、研究に必要な計算はごく短時間で完了できる」
「生物科学科の方って、皆さん、外で調査をされてから論文を書かれているのだと思っていました」
「それも、一概に断言するのが難しいんだけどね」匠は唸りながら、脚を組む。「栽培実験だって、今は屋内の装置で事足りる。温度とか光周期とか、条件を色々、好きに設定して栽培出来るほど技術が進んでいるんだ」匠は少し考え、付け足した。「でも利玖は、きっと、フィールドワークに出たいって言うだろうね」
「妹さんも、将来はこちらの研究室に?」
「いやあ、全然。まだ決まっていないよ」
 生物科学科では、学部生が研究室に配属されるのは三年生の後期からである。時には、誰それの下で教えを受けたくて潟杜大を受験した、という猛者が現れる事もあるが、利玖は違った。
 汐子は、植生変遷のシミュレートについて、さらにいくつかの質問を匠にして、一通りの理解を得ると、すっと背筋を伸ばして礼をした。
「今回は、急なお話にも関わらず、お引き受けいただきありがとうございます。利玖さんにも、ここまで案内していただいて……」
「いいよ。どうせ利玖の方から、自分が一緒に行って説明するって言い出したんだろう?」
 汐子は目を丸くした。
「どうして、それを……?」
 匠は口元に笑みを浮かべる。
「合宿場所は縞狩しまかり高原だといったね? すぐ後ろに葦賦岳あしふだけがある」
 要領を得ない顔をしている汐子に、伝わるように説明する言葉を探しながら、匠はコーヒーをすすった。
「ちょっと、僕らの専門の話になるけど……。葦賦岳は、風が強く、冬の降水量が少ないという点では、一見、植物の生育に向いていないように思える。だけど同時に、近隣の火山活動の影響を受ける位置でもあるんだ。そういう特殊な環境では、独自の形質を獲得した固有種が多く見られるんだよ」
「ああ、それで……」汐子は、ふっと眉を開いた。「おかしいなって思ったんです。利玖さんは、剣道の経験がないとおっしゃっていたから」
「十中八九、僕と相部屋で良いから自分も合宿に付いて行きたいって言い出すと思うけど、一人増えても大丈夫?」
 汐子は頷いた。
「問題ありません。宿舎は、潟杜大が管理している施設で、毎年貸し切っているので、部屋には空きがあるんです。ただ、車の空きはないので、そこはお願いする事になりますが……」
「うん、いいよ。僕の車で連れて行くから」
 匠はコーヒーを飲みかけて、ふとそれをやめ、付け足した。
「いや、もしかすると、二人かな……」
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