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三章 裏庭に棲みついたもの

変異

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 利玖が、あ、と声を上げて体を起こすのとほとんど同時に、曲がり角の向こうから史岐が現れた。
 来ても大丈夫だと言われる前に彼に向かって走り出した利玖を見て、柊牙は、
(おいおい……)
と思わず舌打ちしそうになりながら後を追った。しかし、待っている間、触れたら壊れそうな緊張をたたえて青ざめた顔で佇んでいた利玖の姿を思い出すと、とても文句を言う気にはなれなかった。
 脇に本を抱えた史岐は、こちらに気づくと、ちらっと笑ったが、すぐにその笑みを消して壁に寄りかかった。
「おい、大丈夫か?」
 柊牙が声をかけると、無言で頷き、
「気が抜けただけだ」
と答えて、本を渡した。
「お前の詩集、ちゃんとあったよ。良かったな」
「え? ああ……」柊牙は、受け取った本と友人の顔を見比べて瞬きをした。「まあ、いくらでも買い直せる物だから、多少傷ついたって構いやしないが……、ありがとよ」
 史岐はもう一度頷き、利玖に顔を向ける。
「探したんだけど、利玖ちゃんの本は見つからなかった。ごめん」
「何も問題はありません」利玖はきっぱりと首を振り、眉をひそめる。「それよりも、本当にお怪我はないのですか?」
 史岐は何も言わなかった。
 気分が悪いのを取り繕う余裕もなくなってきたのだろう。息を整えるような、わずかな間を挟んでから、
「たぶん、利玖ちゃんの部屋と、僕らが借りている客間は離れているから、別々のつごもりさんが──」
と話を続けようとしたが、背後からばしゃん、と響いた水音に言葉を切った。
 全員が黙り込む。
 間違いなく、それは角の向こうから聞こえた。
 じゃぷ、ぱしゃっ……、と、質量のあるものが水をかき分け、下半身を引きずってこちらに近づいてくる。そんな場面を想起させる音が、ゆっくりではあるが、絶え間なく聞こえてくる。
〈須臾〉が出している音ではなかった。彼は史岐を守るように、その足元に留まっている。
「……今、何か」
 沈黙に耐えかねたように利玖が口を開いた時、史岐が身をひるがえして叫んだ。
「柊牙!」
 柊牙はすでに矢を持った腕を振りかぶっていた。
 角の向こうから、寒天状のヒトの手のようなものが壁をつかんでこちら側へ身を乗り出すのを見てとるや、思いきり腕を振ってそれを放った。
 狙いは外れていなかったが、距離が遠すぎた。矢は、史岐が立っている場所よりもさらに手前で失速し、硬い音を立てて床に落ちる。
「げえっ」
「コントロールが難しいんだよ、それ……!」
 史岐は飛びのき、すぐさま落ちた矢を拾い上げたが、つごもりさんは痛手を負わされた相手の顔を忘れていなかったのだろう。ヒトの形である事すら捨てて、獲物を食らう原生動物のように史岐の背に覆い被さろうとした。
 史岐は退かなかった。歯を食いしばって、襲いかかってくるつごもりさんに向かって矢を振り上げたが、彼の手がつごもりさんに触れる寸前に、あらん限りの力で体をしならせて水面から飛び上がった〈須臾〉が両者の間に割って入った。
 禍々しい赤に変色したつごもりさんと接触した〈須臾〉は、凄まじい悲鳴を噴き上げた。
 何かが焼けただれるような鼻につく臭いが立ち込めたのに気づいて、史岐は息をのんだ。
〈須臾〉の体がシュウシュウと音を立ててどす黒く変色している。強酸を浴びせられたような変化だった。気づかないまま素手で押さえていたら、ただでは済まなかっただろう。
 変貌を遂げたつごもりさんは、巧みに体をくねらせて〈須臾〉から逃れたが、〈須臾〉は体当たりをくり返して、つごもりさんが史岐達の方へ向かうのを防いでいる。
 その様子を見た史岐は、たまらずに手を打ち振って叫んだ。
「もういい、逃げろ!」
 このまま〈須臾〉が傷つき続けたら使役主である別海医師にも被害が及ぶ、と危惧する思いも少しはあったが、自分をかばって身を焼かれていく式神の姿を、これ以上見ていられなかった。
〈須臾〉は、なおもその場に留まろうとしたが、史岐が自分の上着を脱いで手に巻きつけ、無理やりつごもりさんを引き剥がすと、力なく一声上げて水中に姿を消した。
〈須臾〉が逃げてくれた事に安堵する暇もなく、上着が酸に溶かされる感触が手に伝わってくる。
 駆け寄ってきた柊牙と息を合わせてつごもりさんを押さえ、矢を突き立てると、錆を取り込んだような赤黒い体内に、ぱっと光を放ちながら薬液が散った。
 体の隅々にまで薬液が広がった時、つごもりさんの動きが止まった。
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