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三章 裏庭に棲みついたもの

別海の薬

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「手なら、ある」別海はそう言うと、柑乃に顔を向けた。「柑乃。例の薬は、つごもりさんにも効きそうかい?」
 柑乃の頬がぴくっと震えた。
 その問いに答える事は容易いが、今、ここで問われた意図を測りかねているような、奇妙な表情で別海を見ていたが、やがて、短く息を整えて答えた。
「有効かと存じます」
「よし」別海は頷き、踵を返す。「毒を吐くと聞かされちゃ、皆、あの虫が気になって仕方がないだろうが、ここは一つ、わたしを信じてついて来てくれないかね。鞄に道具が入っている」
 最後尾にいた別海は、あっという間に残りの五人を引き離して元来た道を戻り始めた。
 まったく迷いのない足取りに、利玖達は訳も分からぬまま、その後をついて行く。
「待ってください」匠が列の端から駆けてきて別海の隣に並んだ。「なんですか、薬というのは。僕は初耳ですよ」
「まあ、平たく言えば老いぼれの酔狂さ」別海が鼻を鳴らした。
「ありがたくいとまを頂戴して檸篠ねじのの家に引っ込んだはいいが、いざ、仕事をせずとも暮らしていける身になると、仕事を持っていた頃には時間が取れなくて進められなかった雑多な研究のあれこれをやり直してみたい気になってね。
 とはいえ、この年になると、もう若い頃のようには体が動かない。駅前まで出て行くのだって一苦労だ。だから、材料の買い出しや簡単な実験なんかは、柑乃に助けてもらっているんだよ」
「まさか、一人で街に行かせているんですか?」
 匠が苦々しげに訊くと、別海は、足を止めて彼を睨んだ。
「電車を使って潮蕊うしべの方まで出れば、美術館も美味い蕎麦屋も、小洒落た喫茶店だってある。ずっと家に押し込めていたんじゃ、いつまで経っても、その土地で心からくつろいで暮らせる日なんてやって来ないよ。
 まあ、安心おし。匠さんが心配されているのは変化の術の事だろう? 確かに以前はつたない所もあったが、毎日研鑽を続けたおかげで格段に精度と安定性が上がっている。最近では丸一日、ほぼ完璧に人間に化けていられるよ」
 別海はそこで史岐と柊牙の方を振り返り、にやっと笑った。
「それにね、四六時中、こんな老いぼれと二人で家に詰めていたら、こんなに可愛らしい娘さんが萎びちまって勿体ないよ。ねえ?」
 史岐はどう答えて良いかわからず、曖昧な笑みを浮かべて誤魔化したが、柊牙は顎をさすりながら頷いた。
「確かに。しかし、それならいっそ、大学に来たらどうです?
 潮蕊からなら電車で通う事も十分可能でしょう。ま、肝心の大学の方が少々駅から離れ過ぎていますが」
 別海は、面食らったように瞬きをした後、ふいに呵々大笑した。
「──ああ、そりゃいい!」
 そして、くつくつというその笑いの音も収まりきらぬうちに、再び史岐達に背を向けて歩き始めた。
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