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三章 裏庭に棲みついたもの
ハリルロウ
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「ハリ……」利玖がたどたどしく復唱しようとして、舌でも噛みかけたのか、顔をしかめた。「すみません、兄さん、何ですか?」
「ハリルロウ」匠が喋る速さを落としてくり返す。
「成虫は、透きとおった硝子のような翅を持つ事から、玻璃の名がついている。妖の一種だけど、生態は昆虫とよく似ていて、卵から生まれ、脱皮をくり返して大きくなる生きものだよ」話している間も、匠は、休むことなく顎を動かしているハリルロウの幼虫から目を離さなかった。「ただ、あれは本来、水生なんだ」
「水生でも、地上にいたっておかしくはないでしょう」すぐに利玖が言う。「トンボだって羽化する時には陸に上がります」
「いや、ハリルロウは、繁殖も食事も水中だけで完結している。生涯ただの一度も水の外には出ない。地下水脈の底を漂うようにして生きているモノだからね。
それでも、洪水なんかが起きて、生息地ごと外に放り出された時の為に、しばらくは地上でも生きていける術を持っているけれど、それが僕らにとっては非常にまずい」
「まずいって、何が……」
利玖が背伸びをして、男性陣の間からハリルロウの幼虫を覗き見ようとしたので、史岐は体をずらしてそれを阻止した。
「本来、水生だと言っただろう? 地上の環境は、ハリルロウにとっては有害なんだよ。
幼虫期はある程度、耐性があるらしいけれど、成虫の体は脆くて、水の外に出ると特殊な妖気を放出して己の体を守ろうとする。その妖気は、大抵の動植物にとっては猛毒だ」
「え」利玖がかすかに唇を開けたまま固まった。「じゃあ、あんな所で羽化されたら──」
「実家の住所が変わるだけじゃ、ちょっと済まないだろうね」
匠は眼鏡をずらして眉間を揉み、それから、よっこらせ、と億劫そうに背を伸ばした。
「蛹になってしまったら打つ手がないけれど、今ならまだ、説得して、水の中に戻せるかもしれない。話が通じる相手かどうかはわからないけれど、やってみよう」
匠は、散歩でもしているかのような足取りで無造作に距離を詰めていった。
風下の藪には柑乃が潜んでいる。刀の鯉口を切った状態で、合図があればすぐに飛び出せるように膝をためて備えていた。
利玖はなるべく兄の背中を見る事だけに集中して、ハリルロウの姿は視界に入れないようにしていたが、本のページを引きちぎっては咀嚼するパリパリという音が耳に入ってくるのは避けようがなく、奥歯を食いしばって、こみ上げてくる恐怖に耐えなければならなかった。
ある程度の距離まで近づくと、つごもりさんはぴくっと手を止め、二体同時に匠の方へ顔を向けた。
匠は、その瞬間、わずかに半歩ほど下がって間合いを取った。そして、その位置から、つごもりさんに向かって穏やかな口調で挨拶の口上を述べた。
つごもりさんは、初めのうちこそ、いぶかしむように匠を凝視していたが、ただ話しかけてくるだけで手は出してこないとわかると、興味を失ったかのように顔を逸らして再びハリルロウに本を与え出した。
その様子を見て、口をつぐんだ後も、匠はその場に留まって、事態を解決する糸口を探すようにハリルロウや本の山を眺めていたが、やがて、静かにそれらに背を向け、ざく、ざくっと雪を踏みながら戻ってきた。
「どうでしたか?」
戻ってきた匠に利玖が訊ねると、匠は「駄目だな」と首を振った。
「あれに、会話が出来る知性は備わっていない」そう言って、珍しく誰にも断りを入れずに煙草を取り出してくわえる。言葉には出さなくとも、あれだけ近々と複数の妖に向かい合ってひどく神経をすり減らしたのだろう。
「ちなみに今、餌になっていたのは、母さんが取っておいた昔の映画のパンフレット」
「ああ……」利玖は片手を額に当てて嘆いた。「どうしてそう、絶妙に入手機会の少ないものを」
「あの山の中に──」横目でハリルロウの方を窺いながら柊牙が口を開いた。
「図鑑はありませんでしたか? ぎりぎりリュックサックに入るかどうかという大きさで、厚みもある。タイトルは、確かアルファベットのCから始まります」
史岐は危うく声を上げる所だった。
キャリーケースの中から消えた本の事を、匠達には、単に学術書としか説明していない。だが、フルカラー印刷を施された大判の本は、一見しただけでは学術書というよりも図鑑に見える。
生物学専攻の匠と利玖は、タイトルを聞けば、その見た目と結びつけて、容易く何の本なのか特定してしまうだろう。そうなれば当然、生物科学科の学生でもない史岐がどうしてそんな本を持っているのか、という疑問に行き着く。
そう思って、霊視の助けのあるなしにかかわらず、本を見つける為にはより多くの人間の目があった方がいいとわかっていても、匠達には詳細を伏せておく事に決めたのだ。
「いや、そんな大きな物はなかったと思うけど」匠が煙を吸い込みながら首をかしげた。「Cの……、続きは?」
「そうですか」柊牙は即答を避けて、人好きのする笑みを浮かべた。「まあ、あそこにないって事は、あの芋虫の腹の中かもしれないって事で、となると手放しに喜んでいられる状況でもないんですけどね。……あ、タイトルですか? すみません、大体の意味はわかるんですが、綴りは覚えていないんです。発音の方もいまいち自信がなくて……。学術用語って、大抵そんな感じじゃないですか?」
「ハリルロウ」匠が喋る速さを落としてくり返す。
「成虫は、透きとおった硝子のような翅を持つ事から、玻璃の名がついている。妖の一種だけど、生態は昆虫とよく似ていて、卵から生まれ、脱皮をくり返して大きくなる生きものだよ」話している間も、匠は、休むことなく顎を動かしているハリルロウの幼虫から目を離さなかった。「ただ、あれは本来、水生なんだ」
「水生でも、地上にいたっておかしくはないでしょう」すぐに利玖が言う。「トンボだって羽化する時には陸に上がります」
「いや、ハリルロウは、繁殖も食事も水中だけで完結している。生涯ただの一度も水の外には出ない。地下水脈の底を漂うようにして生きているモノだからね。
それでも、洪水なんかが起きて、生息地ごと外に放り出された時の為に、しばらくは地上でも生きていける術を持っているけれど、それが僕らにとっては非常にまずい」
「まずいって、何が……」
利玖が背伸びをして、男性陣の間からハリルロウの幼虫を覗き見ようとしたので、史岐は体をずらしてそれを阻止した。
「本来、水生だと言っただろう? 地上の環境は、ハリルロウにとっては有害なんだよ。
幼虫期はある程度、耐性があるらしいけれど、成虫の体は脆くて、水の外に出ると特殊な妖気を放出して己の体を守ろうとする。その妖気は、大抵の動植物にとっては猛毒だ」
「え」利玖がかすかに唇を開けたまま固まった。「じゃあ、あんな所で羽化されたら──」
「実家の住所が変わるだけじゃ、ちょっと済まないだろうね」
匠は眼鏡をずらして眉間を揉み、それから、よっこらせ、と億劫そうに背を伸ばした。
「蛹になってしまったら打つ手がないけれど、今ならまだ、説得して、水の中に戻せるかもしれない。話が通じる相手かどうかはわからないけれど、やってみよう」
匠は、散歩でもしているかのような足取りで無造作に距離を詰めていった。
風下の藪には柑乃が潜んでいる。刀の鯉口を切った状態で、合図があればすぐに飛び出せるように膝をためて備えていた。
利玖はなるべく兄の背中を見る事だけに集中して、ハリルロウの姿は視界に入れないようにしていたが、本のページを引きちぎっては咀嚼するパリパリという音が耳に入ってくるのは避けようがなく、奥歯を食いしばって、こみ上げてくる恐怖に耐えなければならなかった。
ある程度の距離まで近づくと、つごもりさんはぴくっと手を止め、二体同時に匠の方へ顔を向けた。
匠は、その瞬間、わずかに半歩ほど下がって間合いを取った。そして、その位置から、つごもりさんに向かって穏やかな口調で挨拶の口上を述べた。
つごもりさんは、初めのうちこそ、いぶかしむように匠を凝視していたが、ただ話しかけてくるだけで手は出してこないとわかると、興味を失ったかのように顔を逸らして再びハリルロウに本を与え出した。
その様子を見て、口をつぐんだ後も、匠はその場に留まって、事態を解決する糸口を探すようにハリルロウや本の山を眺めていたが、やがて、静かにそれらに背を向け、ざく、ざくっと雪を踏みながら戻ってきた。
「どうでしたか?」
戻ってきた匠に利玖が訊ねると、匠は「駄目だな」と首を振った。
「あれに、会話が出来る知性は備わっていない」そう言って、珍しく誰にも断りを入れずに煙草を取り出してくわえる。言葉には出さなくとも、あれだけ近々と複数の妖に向かい合ってひどく神経をすり減らしたのだろう。
「ちなみに今、餌になっていたのは、母さんが取っておいた昔の映画のパンフレット」
「ああ……」利玖は片手を額に当てて嘆いた。「どうしてそう、絶妙に入手機会の少ないものを」
「あの山の中に──」横目でハリルロウの方を窺いながら柊牙が口を開いた。
「図鑑はありませんでしたか? ぎりぎりリュックサックに入るかどうかという大きさで、厚みもある。タイトルは、確かアルファベットのCから始まります」
史岐は危うく声を上げる所だった。
キャリーケースの中から消えた本の事を、匠達には、単に学術書としか説明していない。だが、フルカラー印刷を施された大判の本は、一見しただけでは学術書というよりも図鑑に見える。
生物学専攻の匠と利玖は、タイトルを聞けば、その見た目と結びつけて、容易く何の本なのか特定してしまうだろう。そうなれば当然、生物科学科の学生でもない史岐がどうしてそんな本を持っているのか、という疑問に行き着く。
そう思って、霊視の助けのあるなしにかかわらず、本を見つける為にはより多くの人間の目があった方がいいとわかっていても、匠達には詳細を伏せておく事に決めたのだ。
「いや、そんな大きな物はなかったと思うけど」匠が煙を吸い込みながら首をかしげた。「Cの……、続きは?」
「そうですか」柊牙は即答を避けて、人好きのする笑みを浮かべた。「まあ、あそこにないって事は、あの芋虫の腹の中かもしれないって事で、となると手放しに喜んでいられる状況でもないんですけどね。……あ、タイトルですか? すみません、大体の意味はわかるんですが、綴りは覚えていないんです。発音の方もいまいち自信がなくて……。学術用語って、大抵そんな感じじゃないですか?」
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