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二章 古本を蒐集する妖

ある学術書

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 縁側へは、柊牙の部屋に向かう前に立ち寄った。
 古い紙には臭いが染みつきやすい。自分の服からは四六時中煙草の臭いがしているだろうし、柊牙も喫煙者だから、さして意味のない気遣いかもしれないが、この家で本を粗末に扱うような真似はしたくなかった。
 満月に近い月が、冴え冴えとした光を惜しげもなく下界に投げかけている。
 その光は、地上に届き、雪にふれると、燐光のようなほの青い色を放って、街灯のない庭の一角を静謐な印象で包んでいた。
 少しずつ、少しずつ、月が天頂に上りつめるのを、見るともなしに見ながら、しばらくの間ぼんやりと煙草を吸っていた。
 本なら、史岐も一冊持ってきている。
 古本屋で手に入れた物ではないし、文庫本のようにポケットに入れて持ち歩く事も出来ない。印刷技術については詳しくないので、よくはわからないが、一般的な雑誌と比べると縦幅も横幅も明らかに大きい。たぶん、大判と呼ばれる類の寸法なのではないだろうか。史岐はインターネット上でそれを買い求めたが、もし街中の書店に置かれていたら、きっと棚の下の方の、サイズの揃っていない図録や写真集がでこぼこと並んでいる領域に押し込められているだろう。
 元は、全て英語で書かれた、生物学の特定の分野に関する学術書で、その原本の方は生協の売店にも時々入荷されるのだが、日本語に訳された物は流通量が非常に少なく、それに反比例して価格は高い。
 普通の大学生ではとても手が出せない値段がつけられた、その本を、もしも何かの幸運で手に入れる事が出来たらどうするか、と訊いた時、利玖は、
『そうなったら、神扱いですね』
と答えた。
 神、と復唱すると、深く頷き、
『少なくとも、向こう四年は』
と補足した。
 四年後だったら利玖だって卒業してしまっているじゃないか、と思ったが、彼女がわざわざ後輩に譲らなくても、その本を参考にして書かれたレポートや期末試験の解答用紙、あるいは内容をまとめたノートの写しなどが、誰かしらの手によって電子化されて下の世代に受け継がれていくらしい。利玖が籍を置く生物科学科には、どうも、ずっと前からそういう伝統が存在しているらしかった。
 一世一代の覚悟で彼女に贈った本が、まるで、焼き鳥屋で代々使われる継ぎ足しのタレみたいな扱いをされるのか……、と思うと、やはり、もっと『らしい』プレゼントを選ぶべきかもしれないと決意が揺らぎかけたが、欲しがっているかどうかもわからないアクセサリィをこちらの好みで押しつけるよりも、貴重な学術書を目をきらきらさせて読む利玖の姿を見たい気持ちの方が何倍も強かった。
 慣れない生物学用語に苦戦しながらインターネットを渡り歩き、何とか手に入れたその本は、今、角がつぶれたりページが折れ曲がったりしないように厳重に梱包されて、史岐に貸し与えられた客間のキャリーケースに保管されている。服のかさが増えるせいで大荷物になっても怪しまれないので、今が冬で助かった、と思った。
 どうせクリスマスを過ぎてしまうなら、正月が明けて、大学も始まった後、いつものようにどこかで食事でもした帰りに渡せば良いものを、わざわざ実の親や兄、別海医師までもが集まるこの機会を選んだ理由は、自分でも、よくわからない。
 ただ、潟杜のアパートで荷造りをしていて、ふと、部屋の片隅に置かれたその学術書が目に入った時、これを部屋に残して行ってはいけない、という思いが強く体を縛ったのだ。……そうとしか、説明のしようがない感覚だった。
 利玖は、自分がその本を持っている事すらまだ知らないというのに、本の持ち主はもうとっくに利玖になっていて、自分のような、キキョウとリンドウの見分けもつかない男の部屋にいつまでも置いておくのは、甚だ罰当たりな事のように思えた。
 この地面の下に、膨大な数の書房が作られているという先入観がある為だろうか。本と、それを持つ者との間に生じる不思議な結び目が、この屋敷にいると、確かに存在するもののように感じられる。
 柊牙が柑乃に詩集をすすめたのも、案外、その辺りに理由があったのかもしれない。
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