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一章 佐倉川家の年越し

ほん──を──いただきに。

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 鍾乳洞の中に入る前に、足を滑らせないように靴底の雪を落としてから重い鉄扉を開けた。
 階段をめぐり、地下水流のそばまで降りていく。
 地の底に深々と根を広げている鍾乳洞の中は、外界ほど気温の変化が顕著ではない。雪が積もる事もないから、冬場はかえって暖かく感じる日もあるほどだ。
 季節の移ろいによって辺りの景色が一変するのが当たり前の世界で暮らしていると、一年を通してほとんど変化のないこの洞に入った時、まるで、地球の神秘を覆っているヴェールを一枚めくったような気持ちになる。
 利玖はいつもよりも遅い歩調で、洞窟の隅々にまで目を配らせながら歩いた。
 本は、とりあえず部屋に運ぶだけ運んで、寝る前にでもなってからゆっくりと読めばいい。早々にお節料理の準備を離脱してしまった引け目もあって、書庫の中で汚れが目につく所があったら、後で道具を持って掃除をしに戻って来ようと考えていた。
 注連縄で通路と区切られている、地下水流の上に張り出した岩棚いわだなに目をやったのが、橋に差しかかる前で幸運だった。
 もし橋を渡っている最中に『それ』を見ていたら、驚きに足をもつれさせて、凍るように冷たい水の中へ真っ逆さまに落ちていたかもしれない。
「ほん、を」
 ぼごぼごと、不明瞭に濁った声で、それは喋った。
 擦り切れた古い着物。座布団の上に正座をしているが、上半身は一時も静止せず、前後左右へ揺れている。
 それもそのはずだ。骨がない。
 メスで切り開いたわけでもないのにその事がわかるのは、彼の全身が、寒天のような半透明の物質で出来ているからだった。中身どころか向かいの岩壁の色まで透けてしまっている。
 顔には眼窩も鼻梁も存在しなかった。外からゴムのおもちゃを埋め込んだように、生えそろった歯並びと舌のセットだけがぽつんと真ん中に浮いている。
「ほんを、いただきにまいりました」寒天人間は再び喋った。「おおみそかに、ほん──を──いただきに。まいり、ました」
 そこまで言い終えて、彼はヒトの形を捨てた。
 頭部がきゅうっ……っとすぼまり、紐のような細さになると、空中を探るようにこちらへ向かって伸びてきた。
 そうか、あれは、注連縄しめなわなどお構いなしに追ってくるたぐいの物なのだ……、と悟った瞬間、利玖は身をひるがえし、脇目も振らずに来た道を駆け戻り始めた。
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