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四章 史岐の父

梓葉の招き

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 梓葉はフロントに立ち寄ってベルを鳴らした。
 そして、出てきた従業員に、これから朝まで、自分が借りている別館に利玖を滞在させたい事、そして、警察関係者が話を聞きたいと言ってきた場合は、可能な限り内線などの方法で連絡を入れて、事前に心積もりが出来るように取り計らってほしいと頼んだ。
 夜半過ぎに警察が駆け付けるような騒動が起きて、指揮を執るべき支配人も救急搬送され、疲れ切っていただろうに、彼は快く梓葉の依頼を聞き入れてくれた。
「他に、何かご入り用の物はございますか?」
「そうね……」梓葉が振り返る。「利玖さん、お酒は?」
「飲みます」
 利玖が即答するのを見ると、梓葉はふいに、少女のようなあどけない表情になって、ふふ、と笑った。
「強いんだ」


 受付で手続きを終えると、梓葉はロビィをエレベータ・ホールとは反対側に向かって歩き始めた。
 売店を過ぎ、奥にある通路に入って、しばらく歩くと、扉も案内板もなくなって、壁と照明だけが延々と続く。さらに進むと、おそらく、この辺りの土地を題材にした物なのだろう、素朴な筆遣いで田舎の風景を描いた油絵が間をおいて壁に並び始めた。
 通路は末端部で右に折れ、硝子製のドアに突き当たっている。取っ手がないので、おそらくセンサで人間の存在を感知して開くタイプの物だろうが、ロックが掛かっているのか、利玖が近づいても反応しなかった。
 梓葉が鞄から鍵を取り出し、それを壁の鍵穴に入れてひねるとドアはするすると左右に開いた。
「こんな所に出入り口があるのですね」
「本館と違って、別館は、一度入ったら丸々ひと月は外に出なくても過ごせるくらい設備が整っているから、ここを通る機会はほとんどないのよ。チェックインとチェックアウト、あとは、屋上の大浴場を使いたい時くらいね。食事も部屋に運んでもらえるし」
 自動ドアを抜けて先に進む。
 寝ている宿泊客を起こさないように、会話はせず、足音も立てないようにゆっくりと歩いた。
 足元には隙間なく石畳が敷き詰められている。道幅は、軽トラックが一台通れるか、通れないかというぐらい狭い。両側には、立ち聞きを防ぐ為にカーブをつけて膨らませた竹垣を挟んで、常緑樹の生け垣が高く迫っていた。
 途中、生け垣が途切れる箇所があり、覗き込んでみると、奥の方にぽつんと一つだけ灯った電球に照らされた板戸が見えた。別館は、庭付きの一戸建てを貸し切る形で提供されている。あの板戸の先がプライベートな空間に通じているのだろう。
 梓葉の滞在先は最も本館から離れた位置にあって、着いた時には、雪まじりの風でしんしんと体が冷えていた。
「わあ、寒い寒い……」梓葉は体を揺すりながら鍵を開け、柱のスイッチを押して照明をつけた。使い勝手は本当に一軒家と変わらないようだ。「さ。どうぞ、入って」
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