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三章 恵みの果実を狙う者

フルフェイス・ヘルメットの女

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 首の後ろで風が動いた。
 そう感じた瞬間、考えるより早く、利玖は片腕をはね上げていた。
 肘の先が何かを打った手応えがあったが、力が足りなかったのだろう、相手はひるむ様子も見せず、そのまま利玖の首に腕を巻きつけて床に引き倒した。
 硬い膝頭が胸を押さえつけている。肺を圧迫される苦しさで、すう……っ、と気が遠のいた。
 黒くて丸い、ぴかぴかした物。
 それが、自分を見下ろしている。
 何となく、虫の光沢に似ているな、と思った。
 そうか……、自分は、甲虫に殺されるのか。
 夏に、昆虫標本のスケッチを描いて提出する実習があった時、不注意からクワガタの標本を一つ駄目にしてしまった事を利玖は思い出した。気をつけていたのに、長時間のスケッチで思った以上に疲れていたのか、うっかり道具をぶつけて体を半分つぶしてしまったのだ。立派な顎のある、美しい個体だったのに……。
 彼にならば、
 自分は、恨まれても仕方がないか。
 もやがかかったような頭で、そんな荒唐無稽な事を考えていた時、突然、球体から人の声がした。
「うーん、何で動けるんだろう」
 その声で、利玖は我に返った。
 数度の瞬き。それで、視界が一気にクリアになる。
 自分にのしかかっているのは、黒のフルフェイス・ヘルメットを装着した若い女だった。顔が見えないのにそれらの特徴がわかったのは、彼女が体に吸いつくようなライダー・スーツを着ている為だ。ヘルメットと同じ、光沢のある黒の生地で、素肌が出ている部分はほとんどない。
「あ、そうか、酩酊という概念そのものに耐性があるのか。君、普段からアルコールでも酔わない人?」
 ひそかに息を整えて、気を集中させていた利玖は、女が言葉を切った瞬間、シールドの部分めがけて体をはね起こした。
「うわっ」すんでの所で頭突きをかわして、女が体をのけぞらせる。「ちょっと! やめてよ、これ高かったんだから!」
「……っ」
 頭突きが空振りに終わった反動で、ぐんと肩が落ちる感覚がした。女の言い回しはやたらと癪に障るが、舌戦にかまけていられる余裕はない。
 横倒しになったまま、利玖は上体だけを起こしてペンライトを持った。震える肘は左手でつかんで固定し、シールドで覆われている目の辺りに照準をつけてからスイッチを押した。
 化けの皮が剥がれれば儲けもの。そうでなくても、一時の目くらましにはなる──。そう思っていたが、女は正面から利玖を見すえたまま動かなかった。
「高かったって言ったでしょ」
 女は片手の指で、コツ、とシールドの端を叩く。
「ミラータイプ。顔も見えないし、遮光性も抜群。ま、こっちの世界でも同じ性能を発揮出来るかはわからないけど、『そうだと思い込む事が出来る』って利点は大きいよね」
 その言葉が意味する事に気づいて、利玖は目を見開いた。
「人間、が……、どうして、ここに……」
「企業秘密」
 言うや、女は前に踏み込んで距離を詰め、利玖が反応する間もなく足の先でペンライトを払った。
 力の入らない指で何とか握りしめていたペンライトは、あっけなく社の隅まで吹っ飛び、利玖自身もろくな抵抗が出来ないまま両手をまとめて床に押さえつけられた。
「こら、暴れるない」もがく利玖を容易たやすくいなしながら、女は片手を伸ばして何か探している。「えっと、お酒は……、お、これか。まだ残ってる」
 頭上で束ねられている手首に、ばしゃばしゃと冷たい液体が振りかけられ、水気を含んで重たくなった袖口が鼻先に押し当てられた。
(あ……!)
 女の狙いに気づいて、利玖は必死に息を止めようとしたが、間に合わなかった。
 身が縮むような酒の香気が──今にして思えば、酒にしては不自然な刺激臭の混じったその匂いが鼻腔を満たした途端、がくんっと体から力が抜けた。

 いやな、感覚だった。
 頭を無理やり押さえつけられて、水に沈められるような。

 前に、どこかの誰かさんに薬を盛られた時には、もっと安心していられた、と負け惜しみのような事を考えた。
 あの時、顔のすぐそばで聞こえたメロディが、ふっと意識の表層を撫で……、それを最後に、何もかもが閉じようとした瞬間、唸るような気合とともに鶴真が横から女に体をぶち当てた。
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