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二章 温泉郷の優しき神

ふるまい酒

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 たまに父や兄と手合わせをすると、とかく囲碁とは終局を見極めるのが難しい競技だと思い知らされるが、オカバ様ほど高位の存在にとってもそれは例外ではないらしい。石を打つ音が絶えた後も、二人は盤を見つめたまま、しばらく微動だにしなかった。
 対局が始まってからおよそ一時間。好奇心にかまけて自滅しそうになった所を助けられた後、利玖がやり遂げた仕事らしい仕事といえば、羽音のけたたましい巨大な虫が一匹飛んで来たので、集中の邪魔にならないように狗面の従者と力を合わせて追い払った事くらいで、あとは、ついさっきまで兄妹らしき二人の子ども──利玖がペンライトを使った所、それらはずっと向こうの木陰に潜んでいるヒト型の妖が、長く伸ばした腕の先にパペットのように幼子の皮を被せているのだと判明したが──が桟の下からこちらを覗いていたが、攻撃を仕掛けてくる様子も、騒ぎ立てる様子もなかったので静観を貫いていると、いつの間にか姿を消していた。
「ここまで、でしょうか」
 沈黙の末、鶴真が呟く。
「異論ない」
 オカバ様も穏やかに同意した。
 鶴真は、続けて何か言おうとしたようだったが、声にならない。うまく息が出来ないように口を開いたまま、瞬きをしているうちに、首筋にみるみる汗の粒が浮き上がってきた。
「……すみません」
 かすれた声で詫びながら、鶴真は懐から手拭いを取り出したが、よほど気を張っていたのだろう、首筋の汗を拭っている間にも次々とこめかみや額から汗が伝い落ちてきて、なかなか二の句を継ぐには至らなかった。
 その様子を見ていたオカバ様が、面の向こうで微笑んだような気がした。
ちちに似て、思慮深く、一度打った石は何としても活かし切ろうとする気勢が御座ござる。加えて、いかな戦況でも乱れぬつよい心。研鑽をたゆまねば、いずれは父御をも凌ぐ打ち手となろう」
「はい……」鶴真はようやく、血の気のない唇に笑みを浮かべた。「ありがとうございます」
 オカバ様はゆったりと頷き、狗面の従者を振り返って「あれを」と命じた。
 狗面の従者が立ち上がり、暖簾をくぐって向こう側へ歩いて行く。すると、鶴真が自分に向かって手招きをしたので、利玖は彼の隣に移動した。
 程なくして、狗面の従者はずっしりと重そうなざるを抱えて戻ってきた。
 朱欒ざぼんによく似た淡い黄色の果物が、惜しげもなく笊いっぱいに盛られている。病も疲労もたちどころに癒すような精気に満ちた爽やかな香りが、すうっと喉から背中へ抜けていくようだった。
 狗面の従者は、同じ経路をもう一往復して、酒壺と杯の乗った盆を運んでくると、笊から実を一つ手に取って小刀で皮を剥き始めた。よく見ると、果肉を切り出そうとしているのではなく、皮の表面だけを少しずつ削り取っている。
 そうして削いだ皮を四つの杯に移して、酒壺の中身を注ぎ入れると、狗面の従者は、オカバ様、鶴真、そして利玖の順に杯を手渡した。
「ふるまい酒です」鶴真が耳打ちする。「苦手でしたら、飲む振りをしていただくだけでも構いません」
「鶴真さんは毎年召し上がっているのですか?」
「ええ。それほど度数も高くありませんから」
 迷った末に、利玖は、香りをたしなむ程度のわずかな量を口にふくんだ。夕食の時にも幾度か酒を飲んだし、万が一にも『こちら側』で酔いつぶれるような事があったら、鶴真一人に迷惑をかけるだけでは済まないだろうと思ったのだ。
 ひと息に杯を空けたオカバ様が、狗面の従者に二杯目を注がせながら、ふと利玖に目をとめた。
「そうか、見ない顔だと思ったが、父御は──」

 そこで、ふいに意識が断絶した。
 ほんの一瞬の事だった、と思う。
 頭の重さでぐらりと後ろに倒れそうになって、とっさに自分が片手を床につく場面を、利玖は、他人の体でも見ているような遠さで感じた。

 目の前がかすむ。
 頭の内側でどろどろと不快な熱が這いずり回って、それが自分をいびつな眠りへ引き込もうとしているのを朧気おぼろげに感じ取る。

 一瞬、夜遅くまで起きていたせいで酔いが早く回ったのだろうか、などと呑気な事を考えたが、目の前でうつ伏せに倒れている鶴真を見た途端、一気に頭の芯が冷たくなった。
 視線を奥へずらすと、狗面の従者も、そして、オカバ様までもが、何かに抗うように碁盤に手をかけた姿勢で倒れている。

 誰も、びくともしない。
 うめき声すら聞こえなかった。
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