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一章 冬至の招き

まだ唇に残っている

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 一通り部屋の撮影を終えて、利玖は淹れ立ての緑茶で一服しながら撮った写真を確認した。
 利玖はデジタル・カメラを所有していない。普段、写真を撮る時にはもっぱらスマートフォンの機能を使っている。今まで不便を感じた事はなかったが、これが旅館の紹介記事に載るのかもしれないと思うと、画質の粗さが気になった。
(そういえば……)
 確か、坂城清史が一眼レフを持参していたはず。バンを待っている間も、それを使って駅の周りを撮っていたのだ。
 借りて来ようかと思いかけたが、やめる事にする。軽い気持ちで触っていい価格帯の代物には見えなかった。
 そうすると、清史にここまで来てもらって撮影を依頼する事になるが……。
 利玖はスマートフォンから顔を上げ、部屋を見渡した。
 床の間の掛け軸。まだ新しい畳のぐさ。窓辺に置かれた白椿の一輪挿し。フローリングとの境界に置かれた組子細工の衝立。その向こう、並んだ二つの白いベッド。
 突然、史岐の顔が頭をよぎった。
 静止。
 視線をずらす。
 壁の方に、ゆっくりと。
 深呼吸。
 一度では収まらない。
 絶えず外気を取り込んで体の熱を抑えていないと、はらわたの底をあぶるような激しい怒りと恥ずかしさで全身が引き裂かれそうだった。

 梓葉が自分の顔を見る度に、史岐との間に起きた事を思い出して、辛さを堪えているのではないかと。
 本当はもっと距離を置いていたいのに、鶴真や〈湯元もちづき〉の事を考えて、細やかに自分達の事を気遣ってくれているのではないかと。
 そんな単純な事にさえ気がつかなかったというのに、自分がほんの一瞬でも後ろめたさを覚えるような行動を取ろうという時には、史岐の事を思い出すのか。
 なんて、都合のいい……。

 うまく力の入らない手をゆるゆると持ち上げて、利玖は顔を覆った。
 澱んだ気持ちも、よこしまな思いも、手折られそうな弱々しい感情の揺らぎも、すべて払っていくような鮮烈な柚子の香りが、まだ唇に残っているような気がした。
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