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一章 冬至の招き

命を養う果実

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 いきなり身軽になって、どことなく浮き足立った気持ちを抱えたまま、三人はロビーの隅にある休憩スペースへ移動した。
 喫茶店は別にあるので、ソファと机が置かれているだけの簡素なものだったが、手入れの行き届いた美しいソファは天鵞絨ビロードのような手ざわりで、吸い込まれるように体を預けてしまった。
 早船鶴真が手ずからメニューを持ってきて、温泉同好会の面々にウェルカム・ドリンクの説明をする。コーヒー、日本茶、冷えた果汁など、多彩なラインナップの中でも特に三人を惹き付けたのは柚子茶ゆずちゃだった。柚子の皮を薄切りにして瓶に詰め、その上から果汁と砂糖をたっぷりかけて漬け込んだ物を湯で割って作る飲み物だ。
 駅からここまではバンで運んでもらって楽をする事が出来たが、旧設備のローカル線で長時間揺すられてすり減った体力はまだ回復していない。三人とも、ホットの柚子茶を頼んだ。
 注文を聞き届けると、鶴真は「では、私は車を戻してきます」と一礼してロビーを離れた。
 途中、フロントに立ち寄って、受付の従業員にいくつか指示を出してから外へ出て行く。その後ろ姿を見ていて、利玖はふと、鶴真も何か武道をたしなんでいるのだろうか、と思った。
 剣道の有段者である兄・佐倉川たくみも、時々あんな動きをする事がある。一見するとただ姿勢が良いだけのようにしか見えないが、生身での立ち合いに慣れた体が、日常生活の中でも自然と隙のない体勢を取ってしまうのだ。
 のき沿いを歩いてバンの前に戻った鶴真は、運転席に乗り込むと、手際よくエンジンをかけてロータリーから出て行った。

 数分後には、白い調理服と和帽子を身につけた初老の男が、梓葉の分も含めて四人分の柚子茶を運んで来た。
「いやあ、〈湯元もちづき〉にいらして柚子茶を所望されるとは、さすが梓葉お嬢さんのご友人はお目が高い」
 そう話しながら、机に湯呑みを並べ終えると、男は片膝立ちの姿勢のままよどみのない所作で頭を下げた。
「料理長の能見のうみしょうろうと申します。──まあ、今はもう、ほとんど引退したようなもんですが。忙しい支配人に代わって、今日と明日、皆様のご案内をするよう仰せつかっております」
 顔を上げた能見は、さっと、並べた湯呑みを手で示した。
「まずは是非、そちらを召し上がってください。はるばる潟杜からこんな山奥まで来ていただいて、さぞかし体もお冷えでしょう」
 言われたとおりに、息を吹きかけて冷ましてからひと口すすってみて、利玖は驚いた。
 柚子の皮だけではなく、甘みそのものに深いこくがある。蜂蜜のような上等の蜜を使って作られているのだろうか。こっくりとしたその甘みが、はじけるように爽やかな柚子の香りと調和して、飲むほどに頭が冴えていくような心地がする。
「これは、美味しいですね……」
 利玖が呟くと、能見は目尻に皺を寄せて笑った。
「〈湯元もちづき〉の柚子はね、特別な物なんですよ。神様が年に一度だけ分け与えてくださる、命を養う果実だと考えられているんです」
 神様、と聞いて、利玖の横にいた廣岡充がわずかに顔を上げた。しかし能見はそれに気づかず、「ま、その辺りは明日、ゆっくりとお話しさせていただくとして……」と言って、フロントに向かって合図を送るように手を振った。
 それを見た女性従業員が、革張りのメニュー・ブックを能見の元に持ってくる。能見はにやっと笑って、それを三人の前に開いて見せた。
「うちの旅館で美味いのは、柚子だけじゃ御座いません」
 能見は料理の写真を一つずつ示しながら、今夜の食卓に並ぶ予定の品々について説明を始めた。
 山椒を使ったタレを塗ってこんがりと焼いた鶏肉や、辛味のある青菜と牛肉を一緒に煮込んだ味噌鍋など、想像しただけでぐうっと腹が鳴りそうな料理の説明を聞くうちに、利玖達はいつの間にか湯呑みを握りしめたまま前のめりになって、能見の持つメニュー・ブックに釘付けになっていた。
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