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二章 学園祭初日
晴れの日の甘味
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掲示板の前を離れた利玖と史岐は、食堂の東側を通る坂道を上った。
まっすぐに進むと、北門から大学の外に出る事が出来る。その道を途中で左に曲がって、食堂の裏を通る小道に入った。
ここは道幅が狭いので、屋台は出ていない。また、敷地の端にあるので人通りも少なかった。
西門通りでもみくちゃにされている間は茉莉花と会話をする事も出来なかった喧噪も、小道を歩いていると、風が息継ぎをする間に一瞬耳に入ってくる程度だった。
「イラスト、部員にも好評でした。ありがとうございます」
「見せて……。あ、本当。上手く使ってくれてるね」
史岐は、汁粉のイラストを描いて画像データを提供しただけで、ビラのレイアウトは利玖が手がけていた。といっても、春に出した部員勧誘ポスターのデータがパソコンに残っていたので、それをコピーして少しいじっただけである。
「史岐さんのバンドは何人構成ですか?」
「四人だけど、いいよ、これ回すから」
史岐は、もらったビラを振りながらそう答えたが、利玖は眉をひそめて首を振った。
「あまり余らせて帰ると、会長が悲しそうなお顔をされるのです」
会長などと大層な肩書きが付いているが、持ち得る権限はサークル長以上のものではなく、単に集まりの名称が温泉同好「会」なので日本語の基本的な命名規則に従ってそう呼ばれているに過ぎない。
梓葉と付き合いのあった頃に、史岐も人文学部棟で何度か見かけた事があった。哲学科の学部三年生で、寡黙だが、笑うと底抜けに優しい印象のある男である。古今東西あまねく責務を一身に引き受ける事が天命であると悟っているような、どこか修験者じみた趣もある。
たぶん、ビラが捌けなかったら、生真面目に「自分が発注量を見誤った」と反省するのだろうが、それを年下の利玖に気遣われているあたり愛嬌はある人物のようだ。
「じゃあ、四枚……」史岐は、ふと思いついて言い直した。「いったん、まとめてその束の半分くらいもらえる?」
「いいんですか?」利玖は目を丸くした。
「うん。ちょっと、考えがある」
二人でビラを分担して持ち、食堂の建物の影から出た所で道を曲がって、西門通りに戻った。
周囲に人が増えてくると、方方に顔が利く史岐はひっきりなしに声をかけられるようになった。中には、呼び止めるだけでは飽き足らず、傍らにいる利玖をじろじろとねめ回して何か訊きたそうにする輩もいたが、そういう者には史岐がにこやかに汁粉販促のビラを押しつけて黙らせた。
当事者の自覚があるのか、ないのか、利玖は「どんどん減りますね」と言ってビラが捌けていくのを喜んでいる。
「これは、今年度の特別協賛に史岐さんのお名前が入るかもしれません」
「入れてもらうと何か良い事があるの?」
「打ち上げで乾杯する時に『熊野史岐さんありがとうございました』と唱和してもらえます」
「それは……」史岐は困って首をひねる。「ちょっと、遠慮しておこうかな……」
坂道の終わりにある図書館の前で、利玖は足を止め、学園祭のパンフレットを開いた。
出店しているサークルの一覧が載っているページと、西門通りに並ぶ屋台を見比べながら何か探している。
どこか行きたい店があるのか、と訊くと、
「剣道部の皆さんが焼きそばを売っているそうなので、一つ頂こうかと」
と答えた。
利玖は、剣道部員ではないが、今年の夏にとある経緯から縞狩高原で行われた合宿に参加しており、それに同行した史岐も何人かの部員と顔見知りになっていた。
「史岐さんもいかがですか? サービスしてもらえると思いますよ」
史岐は、首を振った。
「悪いけど、僕、今日は屋台の物を食べられない」
「おや。他にご予定がお有りですか」
「そうじゃないんだけど……」
史岐は辺りを見回して、声をひそめた。
「夜にライブがあるんだ。衛生管理を疑っているわけじゃないけど、万が一、食あたりでも起こしたらステージに穴を開ける事になる」
「ああ、なるほど」
利玖は、すっきりとした表情で頷いた。
「飲食物を売る、飲んで騒ぐだけが学園祭ではありませんからね。芸術系サークルの方々にとっては、一年かけて準備した成果を多くの観客の前で披露する貴重な機会です。ましてや、自身が演者としてステージに上がるのであれば、体調にはいくら注意してもし過ぎるという事はありませんね」
「ありがと」史岐は微笑みつつ、上を向いてため息をついた。「でもね、今年は荷が重いよ。大トリになっちゃったから」
「目出度いではないですか」利玖は素早くビラを一枚取って、史岐に渡した。「お祝い事には小豆がぴったりですよ」
まっすぐに進むと、北門から大学の外に出る事が出来る。その道を途中で左に曲がって、食堂の裏を通る小道に入った。
ここは道幅が狭いので、屋台は出ていない。また、敷地の端にあるので人通りも少なかった。
西門通りでもみくちゃにされている間は茉莉花と会話をする事も出来なかった喧噪も、小道を歩いていると、風が息継ぎをする間に一瞬耳に入ってくる程度だった。
「イラスト、部員にも好評でした。ありがとうございます」
「見せて……。あ、本当。上手く使ってくれてるね」
史岐は、汁粉のイラストを描いて画像データを提供しただけで、ビラのレイアウトは利玖が手がけていた。といっても、春に出した部員勧誘ポスターのデータがパソコンに残っていたので、それをコピーして少しいじっただけである。
「史岐さんのバンドは何人構成ですか?」
「四人だけど、いいよ、これ回すから」
史岐は、もらったビラを振りながらそう答えたが、利玖は眉をひそめて首を振った。
「あまり余らせて帰ると、会長が悲しそうなお顔をされるのです」
会長などと大層な肩書きが付いているが、持ち得る権限はサークル長以上のものではなく、単に集まりの名称が温泉同好「会」なので日本語の基本的な命名規則に従ってそう呼ばれているに過ぎない。
梓葉と付き合いのあった頃に、史岐も人文学部棟で何度か見かけた事があった。哲学科の学部三年生で、寡黙だが、笑うと底抜けに優しい印象のある男である。古今東西あまねく責務を一身に引き受ける事が天命であると悟っているような、どこか修験者じみた趣もある。
たぶん、ビラが捌けなかったら、生真面目に「自分が発注量を見誤った」と反省するのだろうが、それを年下の利玖に気遣われているあたり愛嬌はある人物のようだ。
「じゃあ、四枚……」史岐は、ふと思いついて言い直した。「いったん、まとめてその束の半分くらいもらえる?」
「いいんですか?」利玖は目を丸くした。
「うん。ちょっと、考えがある」
二人でビラを分担して持ち、食堂の建物の影から出た所で道を曲がって、西門通りに戻った。
周囲に人が増えてくると、方方に顔が利く史岐はひっきりなしに声をかけられるようになった。中には、呼び止めるだけでは飽き足らず、傍らにいる利玖をじろじろとねめ回して何か訊きたそうにする輩もいたが、そういう者には史岐がにこやかに汁粉販促のビラを押しつけて黙らせた。
当事者の自覚があるのか、ないのか、利玖は「どんどん減りますね」と言ってビラが捌けていくのを喜んでいる。
「これは、今年度の特別協賛に史岐さんのお名前が入るかもしれません」
「入れてもらうと何か良い事があるの?」
「打ち上げで乾杯する時に『熊野史岐さんありがとうございました』と唱和してもらえます」
「それは……」史岐は困って首をひねる。「ちょっと、遠慮しておこうかな……」
坂道の終わりにある図書館の前で、利玖は足を止め、学園祭のパンフレットを開いた。
出店しているサークルの一覧が載っているページと、西門通りに並ぶ屋台を見比べながら何か探している。
どこか行きたい店があるのか、と訊くと、
「剣道部の皆さんが焼きそばを売っているそうなので、一つ頂こうかと」
と答えた。
利玖は、剣道部員ではないが、今年の夏にとある経緯から縞狩高原で行われた合宿に参加しており、それに同行した史岐も何人かの部員と顔見知りになっていた。
「史岐さんもいかがですか? サービスしてもらえると思いますよ」
史岐は、首を振った。
「悪いけど、僕、今日は屋台の物を食べられない」
「おや。他にご予定がお有りですか」
「そうじゃないんだけど……」
史岐は辺りを見回して、声をひそめた。
「夜にライブがあるんだ。衛生管理を疑っているわけじゃないけど、万が一、食あたりでも起こしたらステージに穴を開ける事になる」
「ああ、なるほど」
利玖は、すっきりとした表情で頷いた。
「飲食物を売る、飲んで騒ぐだけが学園祭ではありませんからね。芸術系サークルの方々にとっては、一年かけて準備した成果を多くの観客の前で披露する貴重な機会です。ましてや、自身が演者としてステージに上がるのであれば、体調にはいくら注意してもし過ぎるという事はありませんね」
「ありがと」史岐は微笑みつつ、上を向いてため息をついた。「でもね、今年は荷が重いよ。大トリになっちゃったから」
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