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一章 潮蕊湖を囲む四つの神社
母が最初に産んだ子
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鳥居をくぐった所で、苔むした穴から外に出たように息をするのが楽になった。
石段を下って、野ざらしの自立式灰皿の前で煙草に火を点ける。慣れ親しんだ匂いの煙が、内側から喉を押し広げた。
目をつむったまま一本目を吸い終え、二本目を取り出す頃にはかなり気分が良くなっていた。煙とともに、史岐は安堵の息をつく。
迂闊に神格に近づいたり、積極的に穢れを排除するような機構を備えている場所に立ち入ると、時々、純度の高すぎる霊気にあてられて中毒のような症状を起こす事がある。加えて、生贄の風習があったなどの事情で、無残に命を奪われた者達の無念が溜まっていたりすると、冗談抜きで倒れそうになるほどだ。しかし、これは史岐に限った話ではなく、妖に関わる者であれば、程度の差はあれ誰でも理解出来る事だった。
幼い頃はもっと苦しい思いをしたものだが、『五十六番』を継承し、特注の煙草を吸うようになってからは大分ましになった。
身体が成長して、環境に耐えうるだけの体力がついたという事もあるが、煙草自体に特別な効果がなくても、喉に寄生する『五十六番』が好物を与えられて、機嫌を良くしたついでに毒を和らげてくれる事があるからだ。今回は狙った通りに作用してくれた。
煙草を口に咥えながら、境内に目を戻す。
利玖が、まだ廊の近くにいるのが見えた。端の方に移動して中を覗き込んでいる。
やはり、今日の服はとびきりよく似合っている。
生家に雇われていた医師から贈られた服なのだと聞いた時、史岐は驚き、そして、少しだけ羨ましかった。それは、自分の家では絶対に起こり得ない事だったからだ。
まだ、史岐が生まれる前の事。
母が最初に産んだ子がこの世を去るのを、当時、熊野家に雇われていた医師は止める事が出来なかった。
物事の分別がつく歳になってから自分で色々と調べもしたが、史岐個人の見解としては、当時の処置に問題はなかったと思っている。だが、父と母は激しく医師を責め立て、以来、幾度かの人員交代を経ても、彼らと自分達との間には埋めがたい溝があった。
それほど昔の事ではない。
だからこそ、両親は未だにその時の絶望から抜け出せずにいるのだろう。
しかし、史岐にとっては、文献の中でしか実在を確かめられない遠い日の出来事。
太古に起こったという、生命史の転換点と同じだ。
たぶん、自分の精神がそういう風に解釈したがっているのだろう。
息を吸い、吐くのに合わせて、煙草の先の小さな赤い光が明滅するのを、史岐はぼんやりと眺めていた。
煙草を吸う時、一人でいるか、他に人がいるか、それによって全く意味の違う行為になる。一人で煙をくゆらせている時には、煙に混じって、普段は意識の底で澱みのように眠っているささいな感傷がぽつりぽつりと浮かんでくるものだ。
木陰に立つ史岐の前を、横断歩道の方からやって来た和服の老婦人が横切り、こちらを一瞥して鳥居の方へ歩いて行った。
(そろそろ戻ろう……)
灰皿の上で煙草を叩く。
あと一度か二度は保つだろうか、と思ったが、結局そのまま灰皿に捨てた。
石段を上り、鳥居をくぐった所で立ち止まって、史岐は利玖を探した。
境内は、それほど入り組んではいないが、幹の太い木を伐らずに残してあるので死角は多い。鳥居の所から姿を見つけられなかったので、斜面を少し上っては、また下りるのをくり返しながら、時折、控えめに名前も呼んで探したが、利玖はどこからも現れなかった。
鼓動が速くなる。
境内の外も探してみた方が良いだろうか。いや、それよりもまず先に、神社の社務所を訪ねて、利玖の姿を見なかったか職員に訊いてみるべきだろうか……。迷った末に、史岐は、最後に彼女と別れた廊の所に戻ってきた。
例の立て札の前まで来ると、史岐は、びくっとして足を止めた。
さっき自分の前を通り過ぎていった和服の老婦人が、利玖の肩を抱いて立っていたのだ。
春霞のような淡い紫の着物に帯を締め、つるの両端を細い鎖で繋いだ眼鏡をかけている。目元には皺が刻まれているが、眼差しは鏃のように鋭く、油断がなかった。
髪は白くなっていたが、きちんと手入れがされている事を窺わせるしなやかな光沢があり、それをすっぱりとうなじで切り揃えている。背は、史岐と変わらないくらいに高かった。
老婦人に抱きかかえられている利玖は、たった今世界に放り出されたばかりのように、焦点の定まらない目をさまよわせている。
「あの……」
史岐は、息を切らしながら老婦人に声をかけたが、何と言葉を次いで良いかわからなかった。
自分がこの場を離れていた数分の間に何が起きたのか、怪しまれずに訊き出せないかと悩んでいるうちに、老婦人の方が先に口を開いた。
「利玖さんは、ずっとここにいたさ。少し見えにくくなっていただけだよ」
そう言って、老婦人は利玖の額に手を置いた。彼女の手の下で、利玖はこわばりが解けたように、ほーっ……と息をついた。
老婦人は微笑みを浮かべて史岐を見た。
「声を聞いてわかったよ。お前さんが当代の『五十六番』だね?」
「え……」
とっさに答えに詰まった史岐に向かって、老婦人は強かそうに唇の端を持ち上げた。
「わたしは別海那臣。昔、佐倉川のお屋敷で面倒を見ていただいた、しがない町医者だよ」
石段を下って、野ざらしの自立式灰皿の前で煙草に火を点ける。慣れ親しんだ匂いの煙が、内側から喉を押し広げた。
目をつむったまま一本目を吸い終え、二本目を取り出す頃にはかなり気分が良くなっていた。煙とともに、史岐は安堵の息をつく。
迂闊に神格に近づいたり、積極的に穢れを排除するような機構を備えている場所に立ち入ると、時々、純度の高すぎる霊気にあてられて中毒のような症状を起こす事がある。加えて、生贄の風習があったなどの事情で、無残に命を奪われた者達の無念が溜まっていたりすると、冗談抜きで倒れそうになるほどだ。しかし、これは史岐に限った話ではなく、妖に関わる者であれば、程度の差はあれ誰でも理解出来る事だった。
幼い頃はもっと苦しい思いをしたものだが、『五十六番』を継承し、特注の煙草を吸うようになってからは大分ましになった。
身体が成長して、環境に耐えうるだけの体力がついたという事もあるが、煙草自体に特別な効果がなくても、喉に寄生する『五十六番』が好物を与えられて、機嫌を良くしたついでに毒を和らげてくれる事があるからだ。今回は狙った通りに作用してくれた。
煙草を口に咥えながら、境内に目を戻す。
利玖が、まだ廊の近くにいるのが見えた。端の方に移動して中を覗き込んでいる。
やはり、今日の服はとびきりよく似合っている。
生家に雇われていた医師から贈られた服なのだと聞いた時、史岐は驚き、そして、少しだけ羨ましかった。それは、自分の家では絶対に起こり得ない事だったからだ。
まだ、史岐が生まれる前の事。
母が最初に産んだ子がこの世を去るのを、当時、熊野家に雇われていた医師は止める事が出来なかった。
物事の分別がつく歳になってから自分で色々と調べもしたが、史岐個人の見解としては、当時の処置に問題はなかったと思っている。だが、父と母は激しく医師を責め立て、以来、幾度かの人員交代を経ても、彼らと自分達との間には埋めがたい溝があった。
それほど昔の事ではない。
だからこそ、両親は未だにその時の絶望から抜け出せずにいるのだろう。
しかし、史岐にとっては、文献の中でしか実在を確かめられない遠い日の出来事。
太古に起こったという、生命史の転換点と同じだ。
たぶん、自分の精神がそういう風に解釈したがっているのだろう。
息を吸い、吐くのに合わせて、煙草の先の小さな赤い光が明滅するのを、史岐はぼんやりと眺めていた。
煙草を吸う時、一人でいるか、他に人がいるか、それによって全く意味の違う行為になる。一人で煙をくゆらせている時には、煙に混じって、普段は意識の底で澱みのように眠っているささいな感傷がぽつりぽつりと浮かんでくるものだ。
木陰に立つ史岐の前を、横断歩道の方からやって来た和服の老婦人が横切り、こちらを一瞥して鳥居の方へ歩いて行った。
(そろそろ戻ろう……)
灰皿の上で煙草を叩く。
あと一度か二度は保つだろうか、と思ったが、結局そのまま灰皿に捨てた。
石段を上り、鳥居をくぐった所で立ち止まって、史岐は利玖を探した。
境内は、それほど入り組んではいないが、幹の太い木を伐らずに残してあるので死角は多い。鳥居の所から姿を見つけられなかったので、斜面を少し上っては、また下りるのをくり返しながら、時折、控えめに名前も呼んで探したが、利玖はどこからも現れなかった。
鼓動が速くなる。
境内の外も探してみた方が良いだろうか。いや、それよりもまず先に、神社の社務所を訪ねて、利玖の姿を見なかったか職員に訊いてみるべきだろうか……。迷った末に、史岐は、最後に彼女と別れた廊の所に戻ってきた。
例の立て札の前まで来ると、史岐は、びくっとして足を止めた。
さっき自分の前を通り過ぎていった和服の老婦人が、利玖の肩を抱いて立っていたのだ。
春霞のような淡い紫の着物に帯を締め、つるの両端を細い鎖で繋いだ眼鏡をかけている。目元には皺が刻まれているが、眼差しは鏃のように鋭く、油断がなかった。
髪は白くなっていたが、きちんと手入れがされている事を窺わせるしなやかな光沢があり、それをすっぱりとうなじで切り揃えている。背は、史岐と変わらないくらいに高かった。
老婦人に抱きかかえられている利玖は、たった今世界に放り出されたばかりのように、焦点の定まらない目をさまよわせている。
「あの……」
史岐は、息を切らしながら老婦人に声をかけたが、何と言葉を次いで良いかわからなかった。
自分がこの場を離れていた数分の間に何が起きたのか、怪しまれずに訊き出せないかと悩んでいるうちに、老婦人の方が先に口を開いた。
「利玖さんは、ずっとここにいたさ。少し見えにくくなっていただけだよ」
そう言って、老婦人は利玖の額に手を置いた。彼女の手の下で、利玖はこわばりが解けたように、ほーっ……と息をついた。
老婦人は微笑みを浮かべて史岐を見た。
「声を聞いてわかったよ。お前さんが当代の『五十六番』だね?」
「え……」
とっさに答えに詰まった史岐に向かって、老婦人は強かそうに唇の端を持ち上げた。
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