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17話
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鍾乳洞に入った四人は、縦一列になって通路を進む。
先頭を歩く匠が懐中電灯で行く手を照らしているが、最後尾にいる史岐もまた、携行ライトの光を足元に向けていた。すぐ前を芦月が歩いている為である。
芦月は、鍾乳洞に入った後もモノクルを掛けたままだった。度が入ったレンズなのかはわからないが、もしも視力に問題を抱えているのなら、初めて入る暗い場所で心細い思いをしているのではないかと思ったのだ。
この鍾乳洞には、ぞっとするほど透きとおった湧水で満たされた穴や裂け目がそこかしこに開いていて、しかも、その中のいくつかは底なしの地底湖に繋がっている。史岐や匠だったら、引っかかって難を逃れるような隙間でも、芦月のように躰の小さな人間は、すり抜けて、遥か先まで流されてしまうかもしれない。
やんわりとその危険性を説明して、足元を照らす光量が足りているか、介助が必要ではないか、訊いてみたのだが、芦月はいつも微笑んで首をかすかに振るだけで、今以上の事はしてくれなくて良い、という意思だけを史岐に伝えてきた。
実際、芦月は一貫してしっかりとした足取りで歩いている。それどころか、史岐にはただの暗がりにしか見えない場所に、何か心惹かれるものがあるようで、頻繁に足を止めてはじっと見入っているので、気が付くと前を歩く薊彌達とかなり距離が開いてしまっていた。
今も芦月は、マッシュルームを並べたようなフロー・ストーンの前で歩みを止めている。背中側で両手を組み、横顔は、暗くてよくわからないが、微笑んでいるようにも見えた。
史岐は思わず、近づいて、あの、と声をかける。
「何を考えているんですか?」
芦月がこちらを向いた。
彼女の躰が動き、鍾乳洞内に立ち籠めている鮮烈な水のにおいとはまったく違う、キンモクセイに似た花の香気が鼻腔をくすぐる。爪先立ちになって伸び上がるようにして、史岐に急接近してきたのだ。モノクルのフレームについた小さな傷が見えるほどの近さだった。
芦月は人さし指を伸ばし、史岐が片耳に着けている蛉籃石のピアスを示すと、首をかしげてかすかに目を細くした。
「きれいな石」
*
史岐とずいぶん距離が開いている事に気づいて、匠は足を止めた。
懐中電灯の光を後ろに振って、ついて来ている薊彌にもそれを伝える。史岐が引き止めているとは思えないから、芦月が前に進んでいないのである。
「大丈夫でしょうか? 気分が悪いのかな」
薊彌は、黙って芦月を見つめていたが、やがて首を横に振った。
「面白い石を見つけたのでしょう。彼女はそれが専門なんです」
「石? へえ……」ここから宝石でも掘り出すつもりなのか、と匠はさして気にも留めなかった。「じゃあ、僕達は先に行きましょうか。ゆっくりと中をご案内する時間がなくて、心苦しいのですが」
ところが、薊彌はついて来ず、さっきと同じ場所に立ったままなのだ。
仕方なく、匠が引き返して、どうかしましたか、と訊ねると、薊彌は前屈みになって匠の耳元で囁いた。
「パッシマンは相変わらず、良い具合ですか」
「ええ」匠は眉ひとつ動かさずに即答する。「鱗のある水妖を解体するのに使っても、毒蟲を両断しても刃こぼれ一つしない。まったく良く出来た刀です」
そう言った後の短い呼吸で、突発的な動揺をほぼ完全に抑制した。しかし、目の前の男がそれに気づかなかったかどうかは五分五分だ、と匠は内心で臍を噛む。
パッシマンというのは、柑乃に持たせた刀の名前だ。
当初は、彼女も匠も、固有の名など必要としていなかった。料理をする時、包丁に一本ずつ名前をつけたりしないのと同じだ。名工が打ったというような謂れもなく、たまたま刀の形をしているというだけで、どこでどう作られたのか、何が混じっているのかもわからない。
だが、提供元である花筬喰は、他にも様々な刀剣を取り扱っている。彼らとやり取りをする時、汎用名詞だけではどうしても不便に感じる場面が多くて、仕方なく柄に巻かれている糸の色から取ってpersimmonという名前をつけたのだ。
「聞く所によると、瘴気が強過ぎるせいで人間には扱えないものの、血と脂を味わわせるほどに力を増す摩訶不思議な刀だとか。精巧な歯の模型を十六個も作るような高い知能を持つ妖であれば、餌としても申し分ないでしょう」
薊彌はそこで、声をいっそう低くした。
「今回の件、匠様が仕組まれた事ならば、隠蔽に力をお貸しする事もやぶさかではありませんよ」
「は?」匠は口を半開きにする。「何を……」
馬鹿な事を、と言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
妹と、柑乃の年格好はほとんど変わらない。
見た目の話だけではない。拾ったばかりの頃は、まともに喋る事も出来なかった柑乃が、今では、匠以外の人間と関わるようになり、言葉遣いも礼儀作法も、基礎的な教養に至るまで、年頃の娘と同等以上のものを身につけた。
彼女に刀を与え、同胞を斬るように命じる自分が、同じようにして妹も利用する事はないと、どうして言い切る事が出来ようか。
突如として突き上げてきた狼狽を、洞内の暗さに紛れて隠そうとしたのを見抜いたように、薊彌が匠の顔を覗き込んで「おや」と呟いた。
「失礼。邪推が過ぎましたかな」
そう言うと、彼は目顔で背後を示して微笑む。もう、最初に会った時と同じ、浮薄な表情に戻っていた。
「行きましょうか。直に芦月も追いつきます」
先頭を歩く匠が懐中電灯で行く手を照らしているが、最後尾にいる史岐もまた、携行ライトの光を足元に向けていた。すぐ前を芦月が歩いている為である。
芦月は、鍾乳洞に入った後もモノクルを掛けたままだった。度が入ったレンズなのかはわからないが、もしも視力に問題を抱えているのなら、初めて入る暗い場所で心細い思いをしているのではないかと思ったのだ。
この鍾乳洞には、ぞっとするほど透きとおった湧水で満たされた穴や裂け目がそこかしこに開いていて、しかも、その中のいくつかは底なしの地底湖に繋がっている。史岐や匠だったら、引っかかって難を逃れるような隙間でも、芦月のように躰の小さな人間は、すり抜けて、遥か先まで流されてしまうかもしれない。
やんわりとその危険性を説明して、足元を照らす光量が足りているか、介助が必要ではないか、訊いてみたのだが、芦月はいつも微笑んで首をかすかに振るだけで、今以上の事はしてくれなくて良い、という意思だけを史岐に伝えてきた。
実際、芦月は一貫してしっかりとした足取りで歩いている。それどころか、史岐にはただの暗がりにしか見えない場所に、何か心惹かれるものがあるようで、頻繁に足を止めてはじっと見入っているので、気が付くと前を歩く薊彌達とかなり距離が開いてしまっていた。
今も芦月は、マッシュルームを並べたようなフロー・ストーンの前で歩みを止めている。背中側で両手を組み、横顔は、暗くてよくわからないが、微笑んでいるようにも見えた。
史岐は思わず、近づいて、あの、と声をかける。
「何を考えているんですか?」
芦月がこちらを向いた。
彼女の躰が動き、鍾乳洞内に立ち籠めている鮮烈な水のにおいとはまったく違う、キンモクセイに似た花の香気が鼻腔をくすぐる。爪先立ちになって伸び上がるようにして、史岐に急接近してきたのだ。モノクルのフレームについた小さな傷が見えるほどの近さだった。
芦月は人さし指を伸ばし、史岐が片耳に着けている蛉籃石のピアスを示すと、首をかしげてかすかに目を細くした。
「きれいな石」
*
史岐とずいぶん距離が開いている事に気づいて、匠は足を止めた。
懐中電灯の光を後ろに振って、ついて来ている薊彌にもそれを伝える。史岐が引き止めているとは思えないから、芦月が前に進んでいないのである。
「大丈夫でしょうか? 気分が悪いのかな」
薊彌は、黙って芦月を見つめていたが、やがて首を横に振った。
「面白い石を見つけたのでしょう。彼女はそれが専門なんです」
「石? へえ……」ここから宝石でも掘り出すつもりなのか、と匠はさして気にも留めなかった。「じゃあ、僕達は先に行きましょうか。ゆっくりと中をご案内する時間がなくて、心苦しいのですが」
ところが、薊彌はついて来ず、さっきと同じ場所に立ったままなのだ。
仕方なく、匠が引き返して、どうかしましたか、と訊ねると、薊彌は前屈みになって匠の耳元で囁いた。
「パッシマンは相変わらず、良い具合ですか」
「ええ」匠は眉ひとつ動かさずに即答する。「鱗のある水妖を解体するのに使っても、毒蟲を両断しても刃こぼれ一つしない。まったく良く出来た刀です」
そう言った後の短い呼吸で、突発的な動揺をほぼ完全に抑制した。しかし、目の前の男がそれに気づかなかったかどうかは五分五分だ、と匠は内心で臍を噛む。
パッシマンというのは、柑乃に持たせた刀の名前だ。
当初は、彼女も匠も、固有の名など必要としていなかった。料理をする時、包丁に一本ずつ名前をつけたりしないのと同じだ。名工が打ったというような謂れもなく、たまたま刀の形をしているというだけで、どこでどう作られたのか、何が混じっているのかもわからない。
だが、提供元である花筬喰は、他にも様々な刀剣を取り扱っている。彼らとやり取りをする時、汎用名詞だけではどうしても不便に感じる場面が多くて、仕方なく柄に巻かれている糸の色から取ってpersimmonという名前をつけたのだ。
「聞く所によると、瘴気が強過ぎるせいで人間には扱えないものの、血と脂を味わわせるほどに力を増す摩訶不思議な刀だとか。精巧な歯の模型を十六個も作るような高い知能を持つ妖であれば、餌としても申し分ないでしょう」
薊彌はそこで、声をいっそう低くした。
「今回の件、匠様が仕組まれた事ならば、隠蔽に力をお貸しする事もやぶさかではありませんよ」
「は?」匠は口を半開きにする。「何を……」
馬鹿な事を、と言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
妹と、柑乃の年格好はほとんど変わらない。
見た目の話だけではない。拾ったばかりの頃は、まともに喋る事も出来なかった柑乃が、今では、匠以外の人間と関わるようになり、言葉遣いも礼儀作法も、基礎的な教養に至るまで、年頃の娘と同等以上のものを身につけた。
彼女に刀を与え、同胞を斬るように命じる自分が、同じようにして妹も利用する事はないと、どうして言い切る事が出来ようか。
突如として突き上げてきた狼狽を、洞内の暗さに紛れて隠そうとしたのを見抜いたように、薊彌が匠の顔を覗き込んで「おや」と呟いた。
「失礼。邪推が過ぎましたかな」
そう言うと、彼は目顔で背後を示して微笑む。もう、最初に会った時と同じ、浮薄な表情に戻っていた。
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