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16話
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利玖は五十二分の休憩を取る事が出来た。
そんなに細かく時間を覚えていたのは、炊飯器のスタート・ボタンを押した時、蓋についた液晶画面が点灯して残り時間を表示した為である。
佐倉川家の台所にある五合炊きの炊飯器が二台同時に稼働して、最高効率で米を炊いていた。これらはすべて、おむすびになる段取りである。手が込んだものを作っている余裕はないが、薊彌を入れると成人男性が三人もいるので、とにかく量だけは確保する、という方針だった。
米が炊けるのを待つ間に、利玖はコーヒーを飲み、短編小説集を本棚から取って冒頭の二編を読んだ。
今は、焦った所で出来る事は何もない。仕掛けるのは朝になり、外が明るくなってからの方が良いと薊彌が進言したのだ。
『夜は、物の怪達に力を与えます』薊彌はそう語った。『夜である事、それ自体が特別な影響をもたらすのではありません。獣と違い、夜目が利かぬ我らは、闇の中ではあらゆる物音、気配、音に対して、恐ろしい想像を抱き、忌まわしい事態を思い描かずにいられない。実際には存在しないものが、本当にそこにあるかのように怯え、緻密な醜さを頭の中に描き出す人間の知性が、名も形も定まらぬ物の怪達に、個性と力を与えるのです』
薊彌はその後、匠の案内で書庫に向かった。
佐倉川家の書庫は、ただ母屋の廊下を歩くだけでは辿り着けない。天然の鍾乳洞に手を加え、古今東西、真贋不問にして曾祖父の眼鏡にかなったあらゆる文献を保管する為に造られた、佐倉川家の中枢とも呼べる場所である。
生物学の専門家でありながら異形の存在を愛した曾祖父は──本人にとっては何ら矛盾する事でもなかったのだろうが──彼らに関する資料も多く蒐集し、時には自らの手で編纂も行った。
書庫に保管された、怪異にまつわる数々の記録、そして、薊彌が商売の為に多方面から仕入れる鮮度の高い情報。それらを合わせて、誰が利玖のもとに『十二番』を送ったのかを突き止め、有効な打開策を見つけ出すのが、彼らの目的だった。
ちなみに、熊野史岐もそちらに同行している。薊彌が、芦月も書庫に連れて行きたいと希望した為だ。万が一、書庫の中で敵対するような事になっても、史岐がいれば二対二の局面を維持出来るという目算である。しかし、兄という桁違いの戦力に史岐一人を足した所で、一体何が変わるのか、と疑問を抱かずにはいられない利玖だった。
軽やかな電子音のメロディが流れて炊飯が完了した。
利玖と真波はしゃもじを持って、炊き上がった米をプラスチックのボウルへ移していく。二つでは足りなかったので、三つのボウルへ均等に米が収まった。
「一つは塩むすびで良いとして……」真波が悩ましげに呟く。「残りの二つはどうしようかしら」
どうやら、ボウルごとに違う味つけにするつもりのようだ。
「全部同じで、良いと思いますけれど」利玖は手前のボウルに目分量で塩を振りながら答える。「食べる物があるだけでありがたいですよ」
真波は「ありがとう」と言って微笑んだ。
「でも、こんなにたくさんのおむすびがあるのに、全部同じ味というのは、母の流儀に反するのよ」
それから、真波は腰に両手を当ててぐるっとすべてのボウルを眺めると、
「若菜とそぼろにしましょう」と言った。「それなら冷蔵庫のものですぐ出来るわ」
若菜の漬け物のパックとそぼろの瓶が冷蔵庫から取り出され、後者は真波が蓋を開けて手際良くボウルに中身を混ぜていったが、若菜の漬け物は未開封のまま脇に放置されている。
「柑乃さんに手伝ってもらいますか?」
まだ湯気を立てているボウルまで放ったらかしにされているのが忍びなくて、利玖は何の気なしに提案した。つごもりさんの時と同じような事が起きるかもしれないから、彼女が母屋に残って、見回りをしてくれている事を思い出したのだ。
真波は目を伏せたまま何も答えなかった。
ただ、手だけは休むことなく動かし続け、おむすびをさらに五個ほど増やした所で、
「それは出来ないわ」とぽつりと言った。「あの子は人間じゃないもの」
利玖が、どきっとして目を上げると、真波もこちらを見つめていた。
「柑乃さんは、とても良い子よ。人手が足りなくて困っていると言えば、もちろん手伝ってくれるでしょう。だけど、それが出来るのは、彼女がわたし達に合わせて人間の姿をとってくれているから。わたし達が求めなければ、本来持つ必要のない、無理をして作り出された不自然な姿なのよ。そう……、化ける、という言葉を使うのが、そもそも、何かが決定的に違っている事を示す証拠ともいえるわね」
真波は、おむすびを握っていた両手を開く。
「石鹸で、よく洗った手で、炊きたての米を握ったものは安心して食べられる。それは、柑乃さんには当てはめられない理だわ」
利玖は、徐々に視線を下ろし、自分の指先を見つめていた。
匠に仕え、日本刀を振るう、柑乃の手。一見しただけでは違いはわからない。自分に薬湯を飲ませてくれた手は、間違いなく人間のものだった。
しかし、もっとミクロなレベルで見るなら、その皮膚も、骨も、筋繊維も、何を元にして作り出されているのかは明らかになっていない。ひょっとしたら柑乃自身でさえ、すべてを把握している訳ではないのかもしれない。
彼女が作ったおむすびは、自分や真波が作ったものと変わらないから、安心して食べても良いのだと万人が納得出来る根拠を示す事は難しい。
「このおむすびは、お客様である薊彌さん達も口になさるもの。そうであれば、わたしは佐倉川家の台所を預かる身として、厳し過ぎるくらいの心構えを持っていなければならないの」
真波は、一度息をついてから「利玖」と優しい声で呼びかけた。
「貴女もお兄ちゃんも、ひいおじいさまに似て、妖も、獣や虫や微生物と同じ、生きものという一つの枠に収まる存在だと考えて、分け隔て無く向き合おうとするわね。それは、研究者として素晴らしい素質だと思うわ。だけど、時には、普通の生きものではないから、という理由で怖がって、遠ざけても良いのよ。いくつになっても……。子どもの頃、夜にお化けに怯えたのと同じようにね」
利玖が、こっくりと頷くと、真波は急にわざとらしく眉間に皺を寄せて「まあ、でも……」と呟いた。
「薊彌さんも、芦月さんも、ちょっとやそっとの毒で、どうにかなるような方には見えませんけれど」
と言った。
芝居がかった母の話し方が可笑しくて、つい、気が緩んだ利玖が笑い始めると、真波もにやっと笑みを浮かべて、肘で娘の肩を小突いた。
「さあ、残りも、ちゃっちゃと握っちゃいましょ」
そんなに細かく時間を覚えていたのは、炊飯器のスタート・ボタンを押した時、蓋についた液晶画面が点灯して残り時間を表示した為である。
佐倉川家の台所にある五合炊きの炊飯器が二台同時に稼働して、最高効率で米を炊いていた。これらはすべて、おむすびになる段取りである。手が込んだものを作っている余裕はないが、薊彌を入れると成人男性が三人もいるので、とにかく量だけは確保する、という方針だった。
米が炊けるのを待つ間に、利玖はコーヒーを飲み、短編小説集を本棚から取って冒頭の二編を読んだ。
今は、焦った所で出来る事は何もない。仕掛けるのは朝になり、外が明るくなってからの方が良いと薊彌が進言したのだ。
『夜は、物の怪達に力を与えます』薊彌はそう語った。『夜である事、それ自体が特別な影響をもたらすのではありません。獣と違い、夜目が利かぬ我らは、闇の中ではあらゆる物音、気配、音に対して、恐ろしい想像を抱き、忌まわしい事態を思い描かずにいられない。実際には存在しないものが、本当にそこにあるかのように怯え、緻密な醜さを頭の中に描き出す人間の知性が、名も形も定まらぬ物の怪達に、個性と力を与えるのです』
薊彌はその後、匠の案内で書庫に向かった。
佐倉川家の書庫は、ただ母屋の廊下を歩くだけでは辿り着けない。天然の鍾乳洞に手を加え、古今東西、真贋不問にして曾祖父の眼鏡にかなったあらゆる文献を保管する為に造られた、佐倉川家の中枢とも呼べる場所である。
生物学の専門家でありながら異形の存在を愛した曾祖父は──本人にとっては何ら矛盾する事でもなかったのだろうが──彼らに関する資料も多く蒐集し、時には自らの手で編纂も行った。
書庫に保管された、怪異にまつわる数々の記録、そして、薊彌が商売の為に多方面から仕入れる鮮度の高い情報。それらを合わせて、誰が利玖のもとに『十二番』を送ったのかを突き止め、有効な打開策を見つけ出すのが、彼らの目的だった。
ちなみに、熊野史岐もそちらに同行している。薊彌が、芦月も書庫に連れて行きたいと希望した為だ。万が一、書庫の中で敵対するような事になっても、史岐がいれば二対二の局面を維持出来るという目算である。しかし、兄という桁違いの戦力に史岐一人を足した所で、一体何が変わるのか、と疑問を抱かずにはいられない利玖だった。
軽やかな電子音のメロディが流れて炊飯が完了した。
利玖と真波はしゃもじを持って、炊き上がった米をプラスチックのボウルへ移していく。二つでは足りなかったので、三つのボウルへ均等に米が収まった。
「一つは塩むすびで良いとして……」真波が悩ましげに呟く。「残りの二つはどうしようかしら」
どうやら、ボウルごとに違う味つけにするつもりのようだ。
「全部同じで、良いと思いますけれど」利玖は手前のボウルに目分量で塩を振りながら答える。「食べる物があるだけでありがたいですよ」
真波は「ありがとう」と言って微笑んだ。
「でも、こんなにたくさんのおむすびがあるのに、全部同じ味というのは、母の流儀に反するのよ」
それから、真波は腰に両手を当ててぐるっとすべてのボウルを眺めると、
「若菜とそぼろにしましょう」と言った。「それなら冷蔵庫のものですぐ出来るわ」
若菜の漬け物のパックとそぼろの瓶が冷蔵庫から取り出され、後者は真波が蓋を開けて手際良くボウルに中身を混ぜていったが、若菜の漬け物は未開封のまま脇に放置されている。
「柑乃さんに手伝ってもらいますか?」
まだ湯気を立てているボウルまで放ったらかしにされているのが忍びなくて、利玖は何の気なしに提案した。つごもりさんの時と同じような事が起きるかもしれないから、彼女が母屋に残って、見回りをしてくれている事を思い出したのだ。
真波は目を伏せたまま何も答えなかった。
ただ、手だけは休むことなく動かし続け、おむすびをさらに五個ほど増やした所で、
「それは出来ないわ」とぽつりと言った。「あの子は人間じゃないもの」
利玖が、どきっとして目を上げると、真波もこちらを見つめていた。
「柑乃さんは、とても良い子よ。人手が足りなくて困っていると言えば、もちろん手伝ってくれるでしょう。だけど、それが出来るのは、彼女がわたし達に合わせて人間の姿をとってくれているから。わたし達が求めなければ、本来持つ必要のない、無理をして作り出された不自然な姿なのよ。そう……、化ける、という言葉を使うのが、そもそも、何かが決定的に違っている事を示す証拠ともいえるわね」
真波は、おむすびを握っていた両手を開く。
「石鹸で、よく洗った手で、炊きたての米を握ったものは安心して食べられる。それは、柑乃さんには当てはめられない理だわ」
利玖は、徐々に視線を下ろし、自分の指先を見つめていた。
匠に仕え、日本刀を振るう、柑乃の手。一見しただけでは違いはわからない。自分に薬湯を飲ませてくれた手は、間違いなく人間のものだった。
しかし、もっとミクロなレベルで見るなら、その皮膚も、骨も、筋繊維も、何を元にして作り出されているのかは明らかになっていない。ひょっとしたら柑乃自身でさえ、すべてを把握している訳ではないのかもしれない。
彼女が作ったおむすびは、自分や真波が作ったものと変わらないから、安心して食べても良いのだと万人が納得出来る根拠を示す事は難しい。
「このおむすびは、お客様である薊彌さん達も口になさるもの。そうであれば、わたしは佐倉川家の台所を預かる身として、厳し過ぎるくらいの心構えを持っていなければならないの」
真波は、一度息をついてから「利玖」と優しい声で呼びかけた。
「貴女もお兄ちゃんも、ひいおじいさまに似て、妖も、獣や虫や微生物と同じ、生きものという一つの枠に収まる存在だと考えて、分け隔て無く向き合おうとするわね。それは、研究者として素晴らしい素質だと思うわ。だけど、時には、普通の生きものではないから、という理由で怖がって、遠ざけても良いのよ。いくつになっても……。子どもの頃、夜にお化けに怯えたのと同じようにね」
利玖が、こっくりと頷くと、真波は急にわざとらしく眉間に皺を寄せて「まあ、でも……」と呟いた。
「薊彌さんも、芦月さんも、ちょっとやそっとの毒で、どうにかなるような方には見えませんけれど」
と言った。
芝居がかった母の話し方が可笑しくて、つい、気が緩んだ利玖が笑い始めると、真波もにやっと笑みを浮かべて、肘で娘の肩を小突いた。
「さあ、残りも、ちゃっちゃと握っちゃいましょ」
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