リーリ・チノの弔砲

梅室しば

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終章

芽吹いた種

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 海向こうのクィヤラート王国から来た富裕層が好んで身につける、襟元にロウミという植物の刺繍が入った外套をまとった若い夫婦が、店の軒先で歩みを緩めるのを見て、土産屋の店主は、ふかしていた煙管きせるを足元に置いた。
「へい、いらっしゃい」店主は身を乗り出して、軒先にずらっと並んだ土産物を手で示した。「うちはね、商船に伝手つてがあって、外国の珍しい品なんかも入ってくるんだよ」
 店主は、四本足の竜の置物を手に取って、しげしげとこちらを見ている夫人にそれを差し出した。
「あんたら、クィヤラートの人かね? だったら、これなんか見覚えがあるだろう」
 夫人は、じっと置物を見てから、店主に視線を移した。
「どうして、わたし達がクィヤラートの人間だと思ったんだ?」
 予想外の質問に、店主は目を瞬かせた。
「どうしてって、いや……。髪も瞳も、向こうの人々とおんなじ色をしていらっしゃるし、その、襟の所の刺繍は、ロウミっちゅう植物をかたどったもんでしょう? わたしなんかはよく知りませんが、クィヤラート王国じゃ、たいそう大事にされているそうじゃないですか。向こうから来たお客さんは、よく、その刺繍が入った衣とか、葉や花をかたどった装飾具とか、身につけておられますよ」
 夫人は外套の襟を引っぱって刺繍を眺め、納得したように頷いた。
 それを見ている店主は、内心、少し冷や汗をかいていた。
 不自然に前髪を伸ばしているので、なんとなくそうではないかと疑っていたが、刺繍を見るために顔を傾けた時、夫人が眼帯で右目を覆っているのがはっきりと見えた。病か戦禍で、片目をなくしたのかもしれない。
 だが、店主が緊張を感じている原因は、それだけではなかった。
 喋り方もそうだが、この女にはどこか、辺りをはらうような雰囲気があった。ただの貴族や、裕福な家の娘とは、何かが決定的に違う。どこがどう、とは言えないのだが、自分のような平民が気安く話しかけていい存在だとは思えない、何か、重く冷え冷えとしたものがあった。
 と、彼女の傍らにいた夫が、店主の心を読んだように話しかけてきた。
「いくらなんだい、それ」
 クィヤラート王国民にしては、やや暗い瞳の色をした男だったが、世間せけんれしたようなぞんざいな言動が店主を安堵させた。
「三千八百オルだよ」
 男が眉を上げた。
「ずいぶん高いな」
 それを聞いて、店主の男は、待っていましたとばかりに満面の笑みを浮かべた。
「ちょっとした仕掛しかけがあるんですよ。……ほら、ご覧ください」
 店主が、置物の首の所にある小さな留め具を外すと、竜の左半身が蓋のように開いた。
 中を覗き込んだ夫婦は、目を丸くした。
 竜の体内は、まるで宿屋のようにいくつかの区画に分けられ、さらにそれぞれの部屋には、食器棚や机、寝台といった調度品のこの上なく小さな模型が収まっていた。
 これは、少し前までクィヤラート王国にあった〈たますすぎの賜餐しさん〉という伝承をもとに作られたものだ。クィヤル熱という流行り病で家族を亡くした国民のもとへ王女がおもむき、手ずからロウミの粥を振る舞ったのだという。
 驚くべきは、その移動方法で、なんと王女は──クィヤラート王国では、彼女は〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉と呼ばれていたらしいが──大領主の館よりもなお大きい、一頭の赤竜で、街から街へと渡り歩いたのだという。赤竜の体内には、人が住めるほどの空間があり、〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉は生涯、そこから出る事はなかったそうだ。
 どこまでが真実なのかわからない、この、海向こうの国の伝承には、〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉は不老不死の聖なる乙女である、というおまけまでついていたが、店主はさすがに、その話は信じていなかった。
「これは、すごいな……」
 夫人が吸い込まれるように手を伸ばし、置物を受け取った。それから、あ、と何かに気づいたように目を丸くして、気まずそうに夫の顔を見た。
 夫は、ちょっと笑って頷いた。
「いいよ。今日と明日の食費を切り詰めたら、何とかなる」
 夫人の顔が、ぱあっと明るくなった。
 年相応といったらいいのか、本当に嬉しそうな、無邪気な笑顔だった。
 店主に金を払った後も、二人は軒先にとどまって置物を眺めていた。
 他に客もいないし、それなりに高い品物を買ってもらったのだから、店主も追い払う気はなく、再び煙管を取り出してぷかりぷかりと吸いながら、彼らと世間話をする事にした。
貴方あなたは、この竜を見た事があるのか?」
 夫人に訊かれて、店主は首を振った。
「いや、一度もないよ」そう答えてから、ふと思い出して、付け加えた。「そういや、いつだったか、その赤竜が国王様を乗せて、ダムシヴー帝国まで挨拶に来てくれるっちゅう話があった気もするな。ま、最近は、とんと聞かねえが」
 店主は、肩をすくめた。
「きっと、半端はんぱに上流階級に顔のく目立ちたがり屋が、早とちりして言いふらしたんだろうよ。よくある話さ」
 言い終えると、店主は半ば目を閉じて、煙管の煙を思う存分吸い込むためにうつむいたので、夫人の顔に複雑な表情が浮かんだ事に気づかなかった。
くだんの熱病が、こちらの大陸へも渡ってきたと聞いたが……」
 店主が煙を吐き終えるのを待って、夫人が再び訊いた。
「ああ、クィヤル熱だっけ? そうだな、去年の冬なんかは、いつもより冷えもひどかったし、ここいらの港町でも何人かかかった奴がいたな」
 店主は、当時の事を思い出して、顔をしかめた。
「ありゃあ、確かに普通の風邪とはちげえなあ。びっくりするような高熱が出るし、咳も、何日も続くし……」
「死者が出たのか?」
 買った置物を胸の所で抱きしめて、夫人が青ざめた顔で迫ってきたので、店主は慌てて首を振った。
「いや、いや! 皆、えらい目に遭ったけど、今じゃぴんぴんしてるよ。もうこの辺じゃ、ほとんど流行っちゃいねえし」
 そう聞いた途端、痛々しいほどに張りつめた面持ちをしていた夫人が、ほーっ……、と魂を取り戻したようなため息をついたので、店主はついに好奇心に負けて、訊ねた。
「あんた、なんでそんなにクィヤル熱の事を気になさるんだね。お医者さんかい?」
 夫人の左目がわずかに揺れた。
 それを感じ取ったように、傍らにいる夫が、店主の方へ顔を寄せてきた。
「彼女は医者じゃないよ。だけど、父親が診療所で働いていた。
 あっちは、クィヤル熱の被害がここよりもひどかっただろう? 大勢亡くなったし、医者として出来る事をやっていても、家族ぐるみで恨まれる事も多くてね……」
 彼の視線が、一瞬、眼帯をつけている夫人の右目に向くのを見て、店主は慌てて、それ以上話さなくてもいい、という意味を込めて片手を振った。
「いや、すまん、つい余計な事を訊いちまった」店主は口をすぼめて、煙管を近づけた。「そうか……、そりゃ、気の毒だったなあ。親父さんの診療所にも、ゴタルムの丸薬がんやくがあったら良かったんだが」
 それを聞いた夫人が、はじかれたように顔を上げた。
「ゴタルムの丸薬? ──それは何だ?」
「おや、ご存じないかね」
 店主は目を丸くしたが、そういえば、あの丸薬が市場に出回るようになったのはつい最近になってからだった、と思い出し、
(故郷に住めなくなって、何年もの間、二人だけで逃げ続けていたんなら、知らなくても無理はないわな)
と納得した。
「ええと……、五年か、いや、六年くらい前だったかな。それまではクィヤラート王国の中でしか流行っていなかった熱病が、こっちでも流行り始めたんだ。商船が多く立ち寄る港町から始まって、じわじわと……。
 ダムシヴー帝国は、クィヤラート王国とも交流があったから、それがクィヤル熱らしいって事には、お偉いさん方も早々そうそうに気づいていた。
 だけど、薬がない。何せ未知の熱病だ。自国の患者の面倒を見るだけで手一杯で、医者やら、学者やらを外国に送って、治療法を探らせる余裕もなかった。
 そんな時だよ。ゴタルムっちゅう、クィヤラートの山裾やますその領地から、見た事もねえ薬が送られてきたのは……」

 イゼルギットという名の領主が送ってきた薬には、たおやかな筆づかいで書かれたふみが添えられていた。
 長らく民達の心の支えとなっていた〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉と赤竜を失った後、ゴタルムでは、新たな領主のもと、領民が一丸となってクィヤル熱に対抗するすべを探し続けてきた事。
 この丸薬は、彼らの研究の集大成で、〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉も使っていたロウミという薬草にいくつかの生薬を配合しており、その製薬にあたっては、汞狼こうろうぞくという先住民族から大変貴重な助言を授かった事。
 さらに……、これはおそらく、クィヤラート王国の成り立ちをよく知らない、異国の高官こうかんが読む事を意識して書かれたものだろう。

──汞狼族は、人間とはまったく異なる種族です。彼らの真の姿は狼に似ており、強靱な足と牙、そして高い知性を持っています。クィヤラート王国では、我々とまったく同じ権利を約束された国民であり、よって「製薬にあたって助言を授かった」というさきの一文は、この丸薬に、彼らの血肉や、それに準ずるものが使われている、という意味ではない事を、ゴタルム領主であり、当代の王・ラァゴーの実子である、わたくし、イゼルギットが保証いたします。

 文の最後は、そんな、実直といえばあまりにも実直過ぎる一文で締めくくられていた。

 真剣に店主の話に聞き入っていた夫人が、そのくだりを聞いた途端、こらえかねたように吹き出し、連れ合いに半身を寄りかからせて呵々かか大笑たいしょうした。
「なんと、まあ……! 本人は至って真面目に書いたのだろうが」
 目元に涙まで浮かべ、それを拭っている間も、くつくつ笑っている。店主の男も、つられて笑いそうになりながら、頷いた。
「本当になあ。でも、俺達を安心させたいって気持ちは、よく伝わってきたよ。いくらクィヤル熱に効くっていっても、何が入っているかわからねえ薬を飲むのは、おっかねえもんな」
「違いない」夫人は腕を組み、ようやく笑みを収めて頷いた。「では、今でも、この辺りではゴタルムで作られた薬が出回っているのか?」
 店主はゆっくりと首を振った。
「送られてきた丸薬で、なんとか、最初の危機を脱した頃、また文が届いた。
 そこには、ダムシヴー帝国さえ良ければ、製薬の知識を持った技術者達をゴタルムに招いて、丸薬の作り方をお伝えしたい、と書かれていたのさ」
 店主はうつむいて、煙管をくわえた。
「クィヤラートにしか生えていないロウミの仕入れはともかく、薬の作り方も流通経路も、すべて自分達で握ったままでいれば、莫大な利益を得られただろうに……」
 夫人もまた、足元に目を落とし、無言で潮風に髪をそよがせていた。
 やがて、彼女は外套の頭巾をそっとはねのけると、堤防越しに見える夕暮れ時のテュコナ海峡を振り返った。
「ゴタルムは、たぶん、本当に死力を尽くして薬の開発にあたったのでしょう。……利益の事を考える余裕など、すっかりなくしてしまうくらいに」
 夫人は、店主の顔に目を戻すと、ちらっと笑った。
「だから、案外、それ以外の事はすべて貴方がたにお任せして、自分達は早く肩の荷を下ろしたい、というだけの理由だったのかもしれませんよ」
 店主は煙管をくわえたまま、笑った。
「それでも、感謝の念は変わらねえよ。あの時、ゴタルムが手を差し伸べてくれたおかげで、俺達は大事な人を失わずに済んだ」
 夫人は微笑み、竜の置物を顔の高さまで持ち上げて、深々と頭を下げた。
「良い買い物が出来た。ありがとう。……これを作った職人に会う機会があれば、是非、礼を伝えておいてくれ」


 奇妙な夫婦が店の軒先を離れた後も、店主の男は、なんとなく、白昼夢を見た後のような気持ちが消えず、ぼんやりと煙管をふかしながら彼らの姿を目で追っていた。
 沖の方から雲が流れてきたためか、風向きが変わった。
 その風に乗って、ほんの一瞬だが、夫人の声が明瞭に聞き取れた。
 本当によく出来ている、本物と違って臓腑まであるぞ……、と、その声は言っている気がした。
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