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四章 待ち焦がれた彗星

千堂が辿った末路

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 不意打ちを食らった千堂がたたらを踏むのを見ると、柊牙は一歩飛び退き、攻撃が当たる間合いから、彼が持っている手斧の大きさ、刃の向き、手を離れた時にどんな軌道で落ちるか、それらを即時に計算した。
 美蕗の駒として働く為に必要な体術は仕込まれていたが、いざ実戦で使う時には、信仰を持っているわけでもないのに念仏を唱えたい気持ちになった。うろ覚えの映画の記憶を辿って、最初に思い付いた言葉、南無三、の三文字を心の中で唱えて回し蹴りを放つ。
 柊牙の踵は、したたかに千堂の手を打った。
 千堂は顔を歪ませて手斧を取り落とし、柊牙はすかさずそれを拾って自分の後ろへ放り投げる。そして、湖の方に向かって、
「お嬢!」
と叫んだ。
 湖の上に、ふわりと浮かんでいる、真っ黒なセーラー服。
 利玖と柊牙も乗せてきた大きな蜈蚣むかでがたの妖の上に、悠然と槻本美蕗が立っていた。
 羽織った着物は深い藍色で、今は夜空よりも暗い。そこだけぽっかりと光の届かないあながあいているかのように、湖にひしめく異界の光から何の影響も受けていなかった。 
 柊牙の声を聞くと、彼女は右手を前に出した。手のひらを上に向け、腰ほどの高さから、すくい上げるように一気に振り抜く。

 次の瞬間、湖面がくぼんだ。

 さじの底面で押し潰したように──否、それにしては周縁部に変化がない──まるで、見えない顎でがっぷりと水をすくったように、り鉢状に変形した湖面の最深部で、一瞬、節のある白い虫のような物体が動いたのを柊牙の目は捉えた。
 しかし、そちらを観察している余裕はない。
 湖が割れるのと同時に、利玖の体が宙を舞った。
 咄嗟に柊牙は息を止めて、彼女が五体満足である事を確かめていた。
 ひどい骨折や、大量の出血を伴う怪我は負っていないようだ。だが、意識を失っているのかぴくりとも手足を動かさない。
 宙の半ばまで舞いあがった所で、ゆるやかに静止し、次の瞬間には千切れた命綱を鞭のようにしならせて落下を始めた彼女の体を、美蕗が蜈蚣の妖を駆って空中で受け止めた。
 妖が湖岸に着き、二人を降ろすと、ゴゴ……、と湖が震え、欠けた部分を埋めるように猛烈な勢いで水が流れ込み始めた。
 不気味な地響きと、刺すように冷たい水しぶきがしばらく続いたが、やがてそれらはゆっくりと止み、湖は再び平らな水面を取り戻した。
 もう、あの恐ろしい光を放っていない。
 柊牙も、異形の気配を感じ取れなかった。
 しかし、静けさが戻った途端、柊牙がうつ伏せにして押さえつけていた千堂が暴れ始めた。体を反らし、足をばたつかせて、何とか拘束から逃れようとする一方で、訳の分からない言葉を口走っている。
「斧はどこ?」美蕗がこちらへ駆け寄って来る。
「そこの、藪……」柊牙は、探し出して教えようとしたが、体勢を保持する事で手一杯だった。千堂の方が若干背が高い。気を抜いたら容易たやすく形勢逆転されてしまう。「悪い、見失った。よく見てなくて……」
 美蕗は立ち止まって、素早く辺りを見回し、すぐに手斧を見つけて戻って来た。柄ではなく、刃の付け根を握っている。柊牙の隣に着くと、
退きなさい」
と言って、素早く柄の部分で千堂の側頭部を打った。
 千堂は声も上げずに昏倒し、前のめりに倒れ込んだ。
 美蕗は斧を脇に挟み、膝を使って彼の躰を押さえつける。片手を柊牙の方に伸ばし、
「縄を……」
と言いかけたが、途中で、はっと千堂の顔に目をやると、いきなり柊牙の首根っこを掴んで共に後ろへ飛び退いた。
「うえっ」
「黙っていなさい」美蕗の着物が柊牙の顔に覆い被さる。「おまえは見ない方が良い。存外に細やかな感性をしているのだもの」

 何かが溶け、削られ、
 つなぎ目の部分から腐り落ちて、
 残ったわずかな肉片と骨片、そして、あらゆる繊維がむさぼり食われる音を、
 柊牙は、夜のとばりの色をした美しい着物の内側で、ただ聞いていた。

 それらの音、そして、千堂に群がっていた「何か」の気配が消え、美蕗が着物を下ろした時、千堂の体があった場所には、彼の服しか残されていなかった。
 髪の毛すら跡形もなく持ち去られ、異臭を放つ液体が地面にどす黒い染みを作っている。羽虫のような妖が数匹、その染みに群がっていたが、美蕗の姿に気づくと、慌てたように飛び立った。
「湖の方に戻って行かない」南東の空に飛び去る虫達を目で追いながら、美蕗が呟く。「こちら側の通り道は完全に閉じたようね」
「ええ……」柊牙も頷き、額に浮かんだ脂汗を手の甲で拭った。「俺も、何も感じません」
 美蕗はしばらく、じっと空を睨んでいたが、妖達の姿が見えなくなると、踵を返して湖畔に横たわっている利玖の方へ歩き始めた。
 その迷いのない足取りに、柊牙はつかの間、ついて行く事を躊躇った。

 今、自分の目の前で、間違いなく人間がひとり死んだ。
 妻と娘はすでにこの世にはいないが、彼自身の親はまだ存命かもしれない。突然、不可解な経緯で消息を絶った息子の行方を、この先、死ぬまで捜し続けるかもしれないのだ。

 だが……。
 孫と息子の両方を──否、もしかしたら、義理の娘さえも──銀箭という神に関わったせいで失ったという事を。
 唯一無二の光を見る、たったそれだけの事を望んだ代償が、生きながらにして体を溶かされ、すすり食われる死に様だったという事を、どうして彼らに話せるだろうか。

 自分では、立ち止まっていたつもりはなかったが、気づいた時には息遣いが感じられるほどの近さに美蕗の顔があった。
「陰気な顔」柊牙にとってはどんな星よりも苛烈に輝く、神秘的な謎を孕んだ瞳が、くすぐるように一度、瞬く。「貴方、どうせまた、親の事でも考えていたのでしょう?」
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