トランスファは何個前? Watch your step.

梅室しば

文字の大きさ
上 下
28 / 36
四章 待ち焦がれた彗星

すべての発端

しおりを挟む
 その日、佐倉川利玖と熊野史岐が帰った後も、千堂が店を開ける事はなかった。
 彗星という特定のモチーフを使い続けていても、それを描いた時の体調、直前に読んでいた本、体の中に入れた物といった種々の要因が有機的な作用をもたらして、絵の出来映えは大きく変わる。単に自然現象を模写しただけだ、としか思えない作品もあれば、何年も前に描いた物なのに、もはや当時の自分がどのような技巧でそれを作り出したのか、分析する事すら出来ない作品もある。
 そういった、傑作と呼べる絵のいくつかに、彼は額装を施していた。決して安く済むものではないので、すべての絵に施す事は出来ない。勲章でも掛けてやるような気持ちだった。
 額装された絵の中から、さらに、持ち運びが容易なサイズの物を探し出し、千堂はホールに戻った。

 初めてこの発光現象を目にした時、彼はカメラを持っていなかった。
 片手に携帯電話を握りしめていたが、それは、柏名湖に娘が転落した事を伝える為に警察に電話を掛けている最中で、撮影機能が使える状態ではなかった。

 早く娘を助けなければ、という焦りと義務感が、初めのうちは確かにあったのだろう。
 だが、何も手がかりが見つからないまま、半日、一週間、一か月と時が過ぎ、周囲の人間が自分に向ける眼差しに徐々に憐憫と諦めが混ざり始めた頃、千堂は、事故の記憶が鮮明に残っているうちに、あの日見た『彗星』の姿を自分の手元に留める事に金と時間を割くようになった。

 痛ましい事故だった、とは思う。
 元気だった頃の娘の姿を思い返すと、心の一片が引きつるような感覚がする時もある。
 だが、娘の無事を願い、吉報を待ち焦がれる気持ちと、もう一度この目で『彗星』を見たいという願望の強さがほとんど拮抗している事には、早い段階で気づいていた。

 千堂はホールの照明を落とし、最も座り心地が気に入っているボックス席に腰を下ろした。目を閉じ、背を丸めるようにして絵を抱え込み、まだ生きて、活動をしている体の隅々を巡る血液の熱さ、そして、間接的にそれに接触している事で、ぬるくなっていく額縁の手ざわりを感じながら、長いこと俯いていた。

 山の向こうに現れた月が緩慢な歩調で天を上り、ホール内の陰影にわずかな変化を与えた。

 どこかから、ノックの音がした。
 控えめな叩き方だった。
 千堂は顔を上げ、いつもの癖で店の入り口の方を振り返る。しかし、そこには誰もいないようだった。
 ソファの背もたれに絵を立てかけて、千堂は席を立ち、入り口に向かって歩き始めた。
 その途中で再び、コン、コンという硬い音がする。
 さっきよりもかなり近い距離でそれが聞こえたので、千堂は、この奇妙な音の発生源が自分の頭上にある事を確信出来た。
 まっすぐに見上げた視線の先に、天窓があった。
 普段は閉店と同時に下ろしているスクリーンが、今日はまだ上がったままになっている。
 自分の為だけに輝く『彗星』が、今日もそこにあった。
 熊野史岐が最初にこの店を訪れた日から『彗星』の輝きは日増しに強くなっていた。あれだけの熱量を一晩中浴び続けていたら、いつかはこの建物も燐光に包まれて、焼け落ちてしまうのではないか、という想像をしてしまうくらいに。
 それだけのエネルギィを投じて『彼』が自分に何を伝えようとしているのかは、もはや、言葉を交わすまでもなく理解出来た。

 あれの正体を、結局、二人には話せずじまいだったな、と千堂は考える。
 彼らはまだ、仕掛けを見破る事が出来ずに悩んでいるのだろうか。いや、もしかしたら、既に独自の結論に辿り着いたのかもしれない。賢そうな若者達だったから……。

 だが、それも今となっては些末な事。
 どんなに素晴らしい頭脳を有していても、慕う相手がいたとしても、『彼』は無慈悲に佐倉川利玖を喰らう。『彼』が認めている利玖の価値はただ一つ、『彼』が利玖の事を、自分の傍らで、自分だけの為に、あらゆる献身をして然るべき存在だと信じ込んでいるからだ。
 なんと原始的で、あからさまな欲望である事か。
 しかし、そういった人知を超えた動機で動く存在であるからこそ、彼が天窓に映し出してくれる『彗星』は──たとえ、その光の強さも、美しさも、実物の十分の一にも満たない模造品であっても──こんなにも自分の心を捉えてやまないのだ。

 入り口の様子を見に行くという目的も忘れて彗星に見入っていた千堂の顔に、突然、影が兆した。自分と彗星の間に何かが割って入ったのだ。
「こんばんは」
 天窓の上から逆さまに店内を覗き込みながら、佐倉川利玖は愛想のない挨拶をした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

マインハールⅡ ――屈強男×しっかり者JKの歳の差ファンタジー恋愛物語

花閂
キャラ文芸
天尊との別れから約一年。 高校生になったアキラは、天尊と過ごした日々は夢だったのではないかと思いつつ、現実感のない毎日を過ごしていた。 天尊との思い出をすべて忘れて生きようとした矢先、何者かに襲われる。 異界へと連れてこられたアキラは、恐るべき〝神代の邪竜〟の脅威を知ることになる。 ――――神々が神々を呪う言葉と、誓約のはじまり。 〈時系列〉 マインハール  ↓ マインハールⅡ  ↓ ゾルダーテン 獣の王子篇( Kapitel 05 )

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

ARIA(アリア)

残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

帝都の守護鬼は離縁前提の花嫁を求める

緋村燐
キャラ文芸
家の取り決めにより、五つのころから帝都を守護する鬼の花嫁となっていた櫻井琴子。 十六の年、しきたり通り一度も会ったことのない鬼との離縁の儀に臨む。 鬼の妖力を受けた櫻井の娘は強い異能持ちを産むと重宝されていたため、琴子も異能持ちの華族の家に嫁ぐ予定だったのだが……。 「幾星霜の年月……ずっと待っていた」 離縁するために初めて会った鬼・朱縁は琴子を望み、離縁しないと告げた。

処理中です...