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三章 異界の守り石

蛉籃石が呼び寄せるもの

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 三人は《とほつみの道》を辞し、最初に使った入り口から元の道に戻った。往路がずっと下りの階段だったから、帰りは同じ数だけ上りの階段が続いているのかと思ったが、奇妙な事に、つづら折りにごくわずかに上り勾配のフラットな通路が伸びているだけで、段差は見当たらない。
 思わず美蕗の顔を見たが、彼女は涼しい顔でそこに入っていったので、間違ってはいないようだった。
 戻る時も右側の壁を辿って進む。単純に考えれば、行きとは反対側の壁を触っている事になるが、質感に違いは感じられない。一度通った道だという意識が働いたのか、行きよりも短い時間で出口まで行けた気がした。
 それでも、《とほつみの道》から離れるにつれて緊張が解け、どっと疲れが出たのか、通路の終わりで扉を開けて廊下に出た時には、風邪をこじらせたようなひどい倦怠感が体に纏わり付いていた。史岐も隣で重いため息をついている。
「御苦労様」美蕗は事も無げに打掛をひるがえらせて微笑んだ。「わたしの案内はここまで。この先に部屋を取ってあるから、そこでしばらく休みなさい。《とほつみの道》はヒトのことわりでは足を踏み入れる事のかなわない異界。そこに長時間留まった貴方達の存在は、今、とても不安定になっているのよ。
 部屋に鏡はないけれど、もし手鏡を持ってきていても使わない方が賢明だわ。それと、なるべく互いに目を合わせないように。相手の瞳にも自分の顔は映るものね。落ち着いたら、従者を呼んで帰り支度をしなさい」
 まったく気力の衰えを感じさせない、てきぱきとした口調で説明する美蕗に、利玖も史岐もただ無言で頷き、彼女が呼び出した従者に従って通路を先へ進んだ。
 ここまでは純和風の内装で統一されていたのに、途中でいきなり、金属製のドアノブと七夕の日のゼリィみたいな色彩のステンドグラスがついた洋風の扉が現れる。従者はその扉を開いて二人を中へ通した。
 香りの良い青畳が敷かれた和室だったが、部屋の中ほどに大きなベッドが二つ並んでいる。窓が広く、外光がよく射し込んで明るかった。《とほつみの道》にいる間に雨が上がったのか、外はもう晴れているらしい。ベッドの手前にはちゃぶ台があって、ちゃひつと電気ポット、干菓子を盛った皿が準備されていた。
 部屋をぐるりと見回してみたが、確かにどこにも鏡がない。奥に進み、左手に入った所にバスルームがあったが、そこにも設置されていないという徹底ぶりだった。
 ベッドに入ると二度と起き上がる事が出来なくなりそうだったので、利玖も史岐もちゃぶ台の前に腰を下ろす。
 体が不安定になっている、という事はつまり、自分の姿を自分の目で見るのはやめた方が良い、という事だろうか。見た限り、手足は原型をとどめているようだが、もしかしたら顔はひどい有様になっているのかもしれない。熱波に晒されたチョコレートみたいに……。
 そう思った途端、吐き気まで催して、利玖は慌てて想像するのを止めた。
 食欲は無かったが、なんとか精をつけようと熱い茶を淹れ、干菓子を食べた。舌の上でしゅっと溶けるような繊細な口当たりで、素朴な味が疲労困憊の体にちょうど良い。
 二つ食べた所で、少し体が軽くなって、利玖は顔を見ないようにしながら史岐に訊いた。
りょうらんせきって、一体何なのですか?」
「うん……、簡単に言うと、本来、ヒトがいてはいけない場所で、体とか魂を守る為の道具だね。名前の通り、ちゃんと石の形をしていて、アクセサリィや根付に加工して身につけている人が多いよ」
「史岐さんはお持ちではないのですか?」
「そんな、土地神から直々にお礼をされる機会なんてないからね」
「わたしが頂いても持て余してしまいそうですね」利玖は両手で頬杖をついて言う。
「いや、あった方がいいと思うよ」史岐は首を振った。「柏名湖の底が本当に銀箭のねぐらと繋がっていて、彼と渡り合うというのなら……」そこで茶を一口飲む。「そういう場所では、普通、人間は個々の存在として認識されない。誰も彼も『ヒト』として十把一絡げに扱われる。つまり、その領域を支配している妖が、大昔に一悶着あったとかで、人間に対して良くない印象を持っていると、ただ通りがかったというだけでも命を取られる理由になるんだ」
「物騒な話ですね」利玖は鼻に皺を寄せた。「ですが、我々もひとたび蚊と見れば、それが良い蚊か悪い蚊か、などと考えもせずに叩き潰そうとする。きっと、そういう心理に近いものなのでしょうね」
「そうだね」史岐も頷いた。「その例えを借りるなら、僕達には蚊の考えている事なんてわからないし、わかろうともしないけれど、りょうらんせきを身につけていれば、異界に住むモノ達はひと目見ただけで僕らが異質な存在であるとわかるらしい」
「ああ……、なんだか抽象的で、ぴんときませんね」利玖は片手で額を押さえた。「野球のナイタ照明みたいに、わたし達にもびかびかっと光って見えるというなのら、わかりやすいんですが」
「そんな物を持ち歩かなきゃいけないってなったら、また別の意味で危ないよね」
 苦笑だったが、久しぶりに史岐の顔に活気が戻った。利玖は少しほっとする。
「蛉籃石を授けられるのは、ヌシや神格のような高位の妖だけ。自分の霊力をありったけ注ぎ込んで作るから、量産出来ない。それを身につけるという事は、つまり、相当な功績があって妖達に認められた者であるという証明だから、管理者が気に食わないというだけで排斥されて良い対象にはならない」
「異界を、システムのようなものだと仮定すると、ゲスト・アカウントではなく、名前と紐付けられた正規のアカウントを使ってログイン出来るようになる、という事ですか?」
「あ、そうそう、それが近い」史岐が嬉しそうに頷いた。「異界にも、いわゆる権限とか、セキュリティみたいな概念はあって、それが蛉籃石を持っているかどうかで全く違ってくるんだ」
「聞けば聞くほど、美蕗さんがおっしゃっていた『割って共有する』というやり方に不安が募りますね」利玖の声量が、これ以上はない、というくらいにささやかになった。この部屋の持ち主に配慮したのかもしれない。
「それについては、推奨はされていないけど、禁止されているわけでもない、というのが現状かな」史岐は干菓子を取って口に放り込んだ。「石の効力は質量に依存するから、当然、分割すれば一つあたりの加護は弱くなる。だけど、異界は人間のことわりが通用しない場所だから、一人で乗り込む方がよっぽど危ないよ。美蕗も、本当は二人分の蛉籃石を手に入れたかったんだろうけれど、利玖ちゃんへの貸しの清算とヌシの負担を考慮して一人分で手を打ったんだろうね」
 ぽく、ぽくと干菓子が砕ける音を、利玖はしばらくの間、聞くともなしに聞いていた。
 急に黙り込んだ事を、史岐も不審に思っただろう。それでも何も訊かずに、利玖が話し始めるのを待ってくれた。
「わたしは、石を割りたくありません」
 そう口に出す時に、史岐の顔を見る事が出来なかったのは、彼がどう答えるかわかりきっていたからだ。
「割りたくない、か……」史岐はその言葉をくり返して、皮肉っぽく口元を歪めた。
「僕じゃなくて、匠さんと共有したいって言われたらどうするか、そのシミュレートばかりしていた」
「どうお答えになるつもりだったのですか?」
「たぶん、既に似たような道具を持っている。或いは柑乃かのさんが、異界で彼を守る役割を果たしているんじゃないかな」
「ええ……、そうですね」
 利玖は、そこで思い切って体の向きを変え、史岐に正対した。
 畳に手をつき、声を張る為に大きく息を吸い込んで、顔を上げたが、彼と目が合った瞬間、とっさに言葉が出なかった。
「巻き込みたくない、って言うのは無しだよ」史岐の声は、薄曇りの冬の朝のように、しんと冷たく、重かった。「利玖ちゃんが嘘をつく所は見たくない」
「これを嘘とおっしゃるとは、わたしも大概、冷酷だと思われているのですね」
「そういう事を言わせたくない、という意味だし、今、この場で思いやりが欠けているのは僕の方だよ」史岐の片手が利玖の頬にふれる。「ごめんね。その頼みは聞いてあげられない」
「銀箭があなたの存在を知ったら、きっと殺してしまう」利玖は、すがるように、両手で史岐の腕を掴んだ。「銀箭に襲われた時、わたしはもう子どもではなくて、だけど、恋なんてものは知らなくて……、彼が狙ったのは、そういう娘で……。瑠璃さんは、わたしを庇って攫われてしまったけれど、彼はそれでは飽き足らずにわたしを追いかけてきている。それは、わたしがまだ、男性を──」
「利玖ちゃん」ふいに厳しい声で名を呼ばれて、利玖はびくっと体を震わせた。
「何を言いたいのかはわかる。僕もたぶん、それに近い考えを持っている。
 だけど、今の利玖ちゃんの話には、瑠璃さんの事故が起きた時から抱えているトラウマと、僕と関わるようになって自分の生活が大きく変わった事への戸惑いと、今日、美蕗から潮蕊の神々の伝承を聞かされて、銀箭の情報が一気に増えた事による興奮が、い交ぜになっているみたいに思える。今までばらばらの場所にあった光が、急に一箇所に集まって、ハレーションを起こしているような状態。……わかる? 自分でも、そうだと感じ取れる?」
 そう訊かれる頃には、自分の脈と呼吸が、異常な速さになっていた事に気付けるくらいには気分が落ち着き始めていた。
 利玖は汗で湿った前髪をかき上げて、こくん、と頷く。
「うん」史岐は穏やかな表情で、利玖の顔から手を離した。「時間を置こう。今は体も疲れている。ちゃんと眠って、食事を取って、気晴らしをして、余裕が出来てから、もう一度考えよう」
「……はい」
 利玖はうつむき、両手で顔を覆った。
 自分を外から蝕むものを遮る為に、仮面でもつけようとしているみたいだ、と思いながら。
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