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三章 異界の守り石

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 そう言い捨てると、女型の妖はヌシを振り返って跪き、熱のこもった調子でまくし立てた。
あるじ、どうかご再考ください。『九番』と言えば親喰らいのばんしゅうで知られたおぞましい獣の神。そのような者の力など借りずとも、我らだけで事を為せるはずです」
「どうするつもりだ」
 ヌシが問うと、彼女は顎を持ち上げて「簡単な事です」と言う。
「あの湖が銀箭を招き寄せているというのなら、なくしてしまえば良い。元々、たいして深さもない、こぢんまりとした湖です。山肌の土をいくらか切り崩して流し込めば、簡単に埋めてしまえるでしょう。水源との繋がりが絶たれれば、銀箭といえど手出しが出来ないはず」
 美蕗が唇を結び、長々と息をついた。呆れたようだ。
「そんな事、本当に出来るのですか?」利玖は小声で彼女に訊く。
「土砂崩れを起こすなんていうのはさすがに極端過ぎるけれど、湖そのものを駄目にしてしまうというのは、あながち見当外れの思いつきでもないわ」美蕗も囁くような声で答えた。「ただ、景観は損なわれるし、ながく生きものが棲めなくなる環境になる可能性もある。妖達にとっては嬉しい話ではないでしょうね」
 美蕗の言葉通り、ヌシを取り囲んでいた妖がにわかにざわめき始めた。何を話しているのかは聞き取れないが、切羽詰まった様子からして、湖を埋めるという強硬手段に反対しているようだ。
 彼らの中にも、あの湖を住処にしているものが少なからずいるだろう。それでなくとも、長年身近にあって親しんできた湖が、邪神の侵攻を阻む為とはいえ、取り返しのつかない形で変貌してしまう事に対して抵抗を感じないはずがない。
 ヌシから一歩引いた位置に、輪を作って囲むように座っていた妖達の中から、やがて何匹かが前に進み出て懇願するように頭を振り始めた。
 ヌシの傍らに控える女型の妖に、苛立った様子で手を打ち振られながらも、ある者は怒りに体を震わせ、ある者はぎょろりと大きな目から涙を流して、必死に何かを訴えている。
 彼らが味わう苦しみの発端となったのは、自分なのだ、と思った時、利玖は抑えようもなく、前のめりに手をついて声を張り上げていた。
「お……、畏れながら! それは、おめしたく存じます」
《とほつみの道》に集まっているモノ達が一斉に利玖を見た。
 それは、あやまって植物の鋭いうぶに触れた時、指先に感じるじくっとした痛みが全身を覆い尽くすような、激しい怒りと蔑視べっしに満ちた視線だった。
「かの者には、まだ交渉する余地があります。柏名湖を埋めるのは、なにとぞお待ちくださいませ」
 女型の妖が何か言いかけ、ヌシがそれを手で制する。
「そなたは、あの湖に特別な思い入れは無いと聞いている。なくなった所で不利益は被らないだろう。無論、ヒトには被害が出ぬようにやる。それでも、我らが湖を埋めるのをよしとせぬとおっしゃるか」
「はい」
「それは、何ゆえか」
 利玖は、すぐに答える事が出来なかった。
 潟杜に住み、生きもののことわりを学んでいるのだ。こういう時に述べるべき言葉はいくらでも浮かんでくる。
 ひとつの森が築かれ、生きものが棲める環境になるまでに、どれほどの時間が必要となるか。また、それを壊してしまった時、完璧に復元する事がどれだけ難しいか……。
 生物多様性、遷移、種分化といった専門用語を使って、理詰めの会話を押し進める事は容易に出来る。
 だが、それらは結局、ヒトが自分達の手で汚してしまった自然を、やはり自分達の手できちんと元通りに直せるのだという事を──自分達は、知識の蓄積と技術の革新によって、世界を思いどおりにする方法を獲得し、十分に使いこなせるのだという事を──示したいというエゴに収束するだけなのではないか。
 勿論、何の見返りも求めずに、生涯を賭して真剣に環境問題に取り組んでいる研究者もいる。それをわかっていてもなお、利玖の中には、一本だけ混ざり込んだ色の違う絹糸のように、諦めと失意と虚しさがい交ぜになった思いが流れ続けているのだった。
 どう言い繕っても、今、最も間近に銀箭の脅威を感じている彼らにとっては、安全な高みにいるからこそ口に出来る綺麗事だと思えるに違いない。
 同じエゴだと括られるのならば、いっそ自分自身のものとして、それを彼らに伝えたかった。
 利玖は目をつぶり、息を吸い込むと、静かに顔を上げてヌシを見た。
「先刻も申し上げた通り、わたしは過去に銀箭と邂逅しております。数年前にくだんの書庫にいた所を襲われたのです。銀箭の封印は、今も解かれていないはずですが、何らかの方法を使って一時的にそこから逃れたか、分身のようなものを使って地下水流から書庫に入り込んだのではないか、と考えられています。
 よほど恐ろしい思いをしたのか、わたしは当時の記憶をほとんど失っています。確かなのは、わたしは五体満足で生還し、代わりにわたしを助けに来てくれた兄の婚約者が、その日を境に目を覚まさなくなってしまったという事です。そして今、再び銀箭が千堂氏を介して、わたしに接触しようとして来た……」
 利玖は再び手をつき、深々と頭を下げた。
「銀箭が潮蕊湖の外にでて人間を惑わし、甘い言葉で籠絡しようとする理由の中に、わずかでもその時の未練が含まれているのだとすれば、わたしは……、足掻あがきたい。たとえそれが、骨の髄まで蝕むような祟りを受ける結果を招いたとしても、誰かに解決を任せるのではなく、自分の身ひとつで、起きている事の最中さなかに飛び込み、彼と対峙したいのです」
 いつしか、妖達の間から殺気立った気配は消えていた。
 ヌシも、彼に嘆願していた種々雑多な妖も、美蕗を罵倒した女型の妖でさえも黙り込み、吸い込まれるように利玖の話に耳を傾けている。
「遥か太古の昔に襲撃した、あの廊で、彼は今でもわたしを待っている。いかにも無防備な姿で湖に近づけば、きっと食いついてくるでしょう。
 ですが、それが良策である保証はありません。柏名山に棲み、山を知り尽くした皆様が編み出された解決策の方が、よほど効果的かもしれない。ですから──山の容貌かたちを変えてしまう事で銀箭の侵攻を阻むのではなく、わたし自身を餌に使ってほしいと願うのは──何の力も持たない、身勝手なひとりの人間の我が儘です」


「それは……」ヌシがやがて、ぽつ、と言った。
「住み慣れた土地を手放したくない、という思いにとらわれて、山を敬う心を喪いかけていた我らの浅ましさに比べれば、はるかに崇高で、誇られるべき御意志です」
 ヌシは、さっと手を振って、周りを囲んでいた妖達を下がらせると、改めて利玖に向き直った。
「確かに我々は、千堂の狙いが貴女である事を知って近づき、彼を半ば罠にかける形で、貴女と銀箭を接触させようと画策した。
 今の銀箭は、我ら土着の妖どもを警戒してか、巧みに水底に身を隠し、一片たりとも居場所を悟らせない。姿も気配も追えぬものを、駆逐する事など出来ぬ。だが、彼とて生きもの、血肉の縛りからは逃れられぬ身。しょくの際には姿をあらわにし、獲物をすっかり平らげる事にかかずらうだろう。その瞬間であれば、我らにもひと太刀浴びせる機が訪れると考えたのだ」
 ヌシは両膝の横に拳を付き、地に額を押しつけるようにして深い礼をした。
「卑怯は重々承知。だが、出来うる限りの助力はする。我らは決して、ヒトをていの良い餌などと考えてはいない。見事、銀箭を追い出してくれた暁には、最大限の礼をさせて頂こう」
「礼とは?」美蕗が訊く。
りょうらんせきをお授けしたいと考えている」
 その途端、妖達の間から、どっとどよめきが起こった。
 利玖には耳慣れない響きだった。何かの鉱石だろうか、と察しはつくが、今は《とほつみの道》全体にただならぬ喧噪が渦巻いていて、美蕗にも史岐にも質問を出来るような空気ではない。
 長い時間がかかって、妖達の動揺がようやく鎮まってきた頃、美蕗が再び口を開いた。
「どうか、失礼とはお取りにならないでくださいね。ヌシ殿のお力を考えれば、蛉籃石を作るというのは決して容易な事ではないはず。本当に、そのようなお約束がして頂けるのでしょうか?」
明日みょうにちにでもすぐに、という訳にはいかないが、一人分であれば何とか工面は出来る」
「わかりました」美蕗は頷いた。「割って共有させる事は出来ます。私には不要の代物ですから、ここにいる、利玖と史岐に与えましょう。うつしと異界を行き来しなければならない、取るに足らない雑事を任せられるようになりますわ。……では、最後に」
 美蕗の赤い唇が蠱惑的なカーヴを描き、そこにそっと封をするように、たおやかな指先が重なった。
「あくまでもヒトの築いた文明の中で生きる者として、一つ助言を。もしも今後、わたくしども以外の人間や妖から、なぜ佐倉川の兄ではなく妹の方を頼ったのか、と訊かれたら、こうお答えになったらよろしいわ。
 あれは銀箭をたおす為なら、湖の一つや二つ、平気で埋めてしまえる男です、と……」
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