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三章 異界の守り石
とほつみの道
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目の前に、ぽっかりと半球状の空間が開けていた。
足元は木製の階段から、継ぎ目のないタイルのような滑らかな質感の床へと変わっている。今しもその境界を踏み越えた所で、利玖達は今、緞帳も照明も、椅子さえない、宙の隙間のように静まり返ったホールの入り口に立っているのだった。
円形の床と壁が接する部分には、ぽうっと蛍火のような光が灯っていて、この空間を水平方向に縁取る役割を果たしている。頭上に星はないが、天球儀の内側、あるいは大き過ぎるプラネタリウムを彷彿とさせる造りだった。
利玖達が立っている所からは反対側の壁際に、いくつかの影が固まっているのが見える。ざっと見ただけでも、数はこちらの倍を超えていそうだが、個々の大きさには統一性がなかった。
影達の中央には、ひと際厳つい体つきの、白い裃に似た装束を着た男性が座っている。がっしりとした肩と腿、袖口から覗く節くれ立った手が男性的だと感じさせるのだが、断言する事は出来ない。何故ならば、位置から察するに、彼が柏名山のヌシであり、ヒトと同じ性別を持つ存在かどうかすらわからないからだ。
──《とほつみの道》にやって来たのだ。
利玖は、背筋を這い上ってきた震えを飲み込むように、短く息を吸い込んで止めた。
「お招きに応じ参上しました」美蕗がよく通る声で言った。「これなるは《とほつみの道》の仲立ちを務めさせて頂く、槻本家当主の美蕗です」
「柏名山のヌシである」中央の男が床に拳をつき、深々と頭を下げる。彼の声はドーム状の壁に反響し、朗々と利玖達の所まで響いてきた。
「此度はご足労をおかけし申し訳ない。当方は、ヌシといっても名ばかりの、何の信仰も力も持たぬ身ゆえ、かように厄介な人間一人を追い出す事にすら難儀する始末。山に棲む妖どもを使って、幾度か脅しじみた真似してみたものの、彼奴にはまったく効かぬようで……」
ヌシの傍らに座っていた細身の女が立ち上がり、美蕗達も座るように手で示した。髪をきちんと結い、長い袴を身に着けている。その出で立ちも身のこなしも、武人を思わせた。ここは武器の持ち込みが禁じられている場所だが、有事の際には、彼女がヌシを守る役目を務めるのだろう。
「大まかな話は聞き及んでいます」美蕗が打掛の裾を引きながら腰を下ろす。利玖と史岐は、彼女の両脇に正座した。「千堂、といいましたか。かの者を通して、銀箭の力が柏名山に流れ込むのを食い止めたいと……」
美蕗はそこで、ふと言葉を切って上を向き、何かを思案するような間を置いたかと思うと、挑発的な光にぎらつく瞳で妖達を見た。
「しかし、なりふり構わず通りがかった人間に助けを求めた、というのは、些か出来過ぎでしょう」
ヌシがゆっくりと顔を上げて美蕗を見据える。
「それは、どういう事かな」
「この娘は、銀箭と浅からぬ因縁があります」美蕗はそう言って利玖を顎で示した。「それに、彼女が初めて店を訪れるよりも前に、そこに座っている男……、史岐が一人で店を訪れています。利玖よりもずっと体力がありますし、生来、妖の見える体質です。助力を乞うなら、彼の方が適任だったのでは?」
「我々が敢えてその娘を選んだ、とおっしゃりたいのですな」
ヌシの視線が美蕗を外れ、利玖を捉えた。
「いえ、何も、隠し立する事は御座いません。貴女のおっしゃる通りです。なんでも、その娘の血筋は代々、ヒトが見聞きした妖や怪異、果ては神を封じた記録まで、様々な言い伝えを蒐集し、書物に記して守り続けているのだとか」
「ああ、なるほど……」美蕗が突然、喉の奥で笑い声を立てたので、利玖と史岐はぎょっとして彼女の横顔を見た。
「書庫の事を理由にされるおつもりなのですね? 兄がいる事はご存じ? どうして彼ではなく、利玖なのかしら。ヒトと妖の間で日々忙しなく暗躍しているのも、家を継ぐ事が決まっているのも彼の方なのですけれど」
「おい、美蕗……」見かねた史岐が止めようとしたが、彼女は一睨みで彼を黙らせた。
「利玖でなければいけなかったのですね?」美蕗は再びヌシに問う。「銀箭が彼女を手に入れるまで、千堂は決して山を去らないとわかっていた」
「よもや、我々が銀箭と通じているとでもお疑いか」
「いえ、そこまで事態が逼迫しているとは考えておりません」美蕗は首を振った。「ヒト側からも、妖側からも犠牲を出さずに、そして千堂にも危害を加える事なく山から追い払えるのであれば、それが最良。ヌシ殿も、心からそれを望んでおられるはず。どのような素性の者であれ、そこに貴方の意思が働いたとなれば、ヌシたる御身に穢れが及ぶ事は避けられませんから」
「確かに、我は潮蕊の伝説に登場する竜神とは比べものにもならない非力な存在であるが……」無理に作ったような笑いまじりの口調で言った後、ヌシは片方の拳で床をドンツと打ち、声を低くした。
「己が身の清らかさを守るに、咎のないヒトの娘を差し出すほどの下劣さもまた、持ち合わせてはおらぬ」
「存じております」美蕗は頷いた。「ですが、銀箭の手が届くよりも先に、利玖が不慮の事故によって命を落としたとしたら、如何です?」
言い返そうとしたヌシの肩が、びくっと震え、強張った姿勢のまま沈黙した。
「貴方、先ほど、自分はほとんど力を持たない身だとおっしゃいましたけれど、それでも柏名山のヌシを任されているからにはいくらかは融通が利くのでしょう? 山に招き入れた人間を一時的に惑わせて、車道へ飛び出すように仕向ける事も、山中を彷徨わせて、遭難事故に見せかけて沢へ落ちるように仕向ける事も、さほど難しくはないはず。肉体が死した後は、魂もろとも山の奥深くへ封じ込めてしまえば、銀箭に媚びへつらい、彼の言いなりになって供物を差し出したという汚名を被る事もない」
美蕗は体の前に片手をつき、身を乗り出した。
「この所、潟杜周辺で、銀箭が関与したものと思われるきな臭い報告が相次いで寄せられています。潮蕊の神々が自らの威信をかけて封じ込めた邪神、その復活の足掛かりの最初の一歩にはなりたくない……、そんな所でしょうか?」
「口を慎め、小娘が」ヌシの傍らにいた女型の妖がいきり立ったように腰を浮かせた。
「黙って聞いておれば、愚にも付かぬ妄言を滔々と……。柏名山のヌシともあろう御方が、《とほつみの道》を通じて汝らと言の葉を交わそうとした御配慮が伝わらぬのか」
足元は木製の階段から、継ぎ目のないタイルのような滑らかな質感の床へと変わっている。今しもその境界を踏み越えた所で、利玖達は今、緞帳も照明も、椅子さえない、宙の隙間のように静まり返ったホールの入り口に立っているのだった。
円形の床と壁が接する部分には、ぽうっと蛍火のような光が灯っていて、この空間を水平方向に縁取る役割を果たしている。頭上に星はないが、天球儀の内側、あるいは大き過ぎるプラネタリウムを彷彿とさせる造りだった。
利玖達が立っている所からは反対側の壁際に、いくつかの影が固まっているのが見える。ざっと見ただけでも、数はこちらの倍を超えていそうだが、個々の大きさには統一性がなかった。
影達の中央には、ひと際厳つい体つきの、白い裃に似た装束を着た男性が座っている。がっしりとした肩と腿、袖口から覗く節くれ立った手が男性的だと感じさせるのだが、断言する事は出来ない。何故ならば、位置から察するに、彼が柏名山のヌシであり、ヒトと同じ性別を持つ存在かどうかすらわからないからだ。
──《とほつみの道》にやって来たのだ。
利玖は、背筋を這い上ってきた震えを飲み込むように、短く息を吸い込んで止めた。
「お招きに応じ参上しました」美蕗がよく通る声で言った。「これなるは《とほつみの道》の仲立ちを務めさせて頂く、槻本家当主の美蕗です」
「柏名山のヌシである」中央の男が床に拳をつき、深々と頭を下げる。彼の声はドーム状の壁に反響し、朗々と利玖達の所まで響いてきた。
「此度はご足労をおかけし申し訳ない。当方は、ヌシといっても名ばかりの、何の信仰も力も持たぬ身ゆえ、かように厄介な人間一人を追い出す事にすら難儀する始末。山に棲む妖どもを使って、幾度か脅しじみた真似してみたものの、彼奴にはまったく効かぬようで……」
ヌシの傍らに座っていた細身の女が立ち上がり、美蕗達も座るように手で示した。髪をきちんと結い、長い袴を身に着けている。その出で立ちも身のこなしも、武人を思わせた。ここは武器の持ち込みが禁じられている場所だが、有事の際には、彼女がヌシを守る役目を務めるのだろう。
「大まかな話は聞き及んでいます」美蕗が打掛の裾を引きながら腰を下ろす。利玖と史岐は、彼女の両脇に正座した。「千堂、といいましたか。かの者を通して、銀箭の力が柏名山に流れ込むのを食い止めたいと……」
美蕗はそこで、ふと言葉を切って上を向き、何かを思案するような間を置いたかと思うと、挑発的な光にぎらつく瞳で妖達を見た。
「しかし、なりふり構わず通りがかった人間に助けを求めた、というのは、些か出来過ぎでしょう」
ヌシがゆっくりと顔を上げて美蕗を見据える。
「それは、どういう事かな」
「この娘は、銀箭と浅からぬ因縁があります」美蕗はそう言って利玖を顎で示した。「それに、彼女が初めて店を訪れるよりも前に、そこに座っている男……、史岐が一人で店を訪れています。利玖よりもずっと体力がありますし、生来、妖の見える体質です。助力を乞うなら、彼の方が適任だったのでは?」
「我々が敢えてその娘を選んだ、とおっしゃりたいのですな」
ヌシの視線が美蕗を外れ、利玖を捉えた。
「いえ、何も、隠し立する事は御座いません。貴女のおっしゃる通りです。なんでも、その娘の血筋は代々、ヒトが見聞きした妖や怪異、果ては神を封じた記録まで、様々な言い伝えを蒐集し、書物に記して守り続けているのだとか」
「ああ、なるほど……」美蕗が突然、喉の奥で笑い声を立てたので、利玖と史岐はぎょっとして彼女の横顔を見た。
「書庫の事を理由にされるおつもりなのですね? 兄がいる事はご存じ? どうして彼ではなく、利玖なのかしら。ヒトと妖の間で日々忙しなく暗躍しているのも、家を継ぐ事が決まっているのも彼の方なのですけれど」
「おい、美蕗……」見かねた史岐が止めようとしたが、彼女は一睨みで彼を黙らせた。
「利玖でなければいけなかったのですね?」美蕗は再びヌシに問う。「銀箭が彼女を手に入れるまで、千堂は決して山を去らないとわかっていた」
「よもや、我々が銀箭と通じているとでもお疑いか」
「いえ、そこまで事態が逼迫しているとは考えておりません」美蕗は首を振った。「ヒト側からも、妖側からも犠牲を出さずに、そして千堂にも危害を加える事なく山から追い払えるのであれば、それが最良。ヌシ殿も、心からそれを望んでおられるはず。どのような素性の者であれ、そこに貴方の意思が働いたとなれば、ヌシたる御身に穢れが及ぶ事は避けられませんから」
「確かに、我は潮蕊の伝説に登場する竜神とは比べものにもならない非力な存在であるが……」無理に作ったような笑いまじりの口調で言った後、ヌシは片方の拳で床をドンツと打ち、声を低くした。
「己が身の清らかさを守るに、咎のないヒトの娘を差し出すほどの下劣さもまた、持ち合わせてはおらぬ」
「存じております」美蕗は頷いた。「ですが、銀箭の手が届くよりも先に、利玖が不慮の事故によって命を落としたとしたら、如何です?」
言い返そうとしたヌシの肩が、びくっと震え、強張った姿勢のまま沈黙した。
「貴方、先ほど、自分はほとんど力を持たない身だとおっしゃいましたけれど、それでも柏名山のヌシを任されているからにはいくらかは融通が利くのでしょう? 山に招き入れた人間を一時的に惑わせて、車道へ飛び出すように仕向ける事も、山中を彷徨わせて、遭難事故に見せかけて沢へ落ちるように仕向ける事も、さほど難しくはないはず。肉体が死した後は、魂もろとも山の奥深くへ封じ込めてしまえば、銀箭に媚びへつらい、彼の言いなりになって供物を差し出したという汚名を被る事もない」
美蕗は体の前に片手をつき、身を乗り出した。
「この所、潟杜周辺で、銀箭が関与したものと思われるきな臭い報告が相次いで寄せられています。潮蕊の神々が自らの威信をかけて封じ込めた邪神、その復活の足掛かりの最初の一歩にはなりたくない……、そんな所でしょうか?」
「口を慎め、小娘が」ヌシの傍らにいた女型の妖がいきり立ったように腰を浮かせた。
「黙って聞いておれば、愚にも付かぬ妄言を滔々と……。柏名山のヌシともあろう御方が、《とほつみの道》を通じて汝らと言の葉を交わそうとした御配慮が伝わらぬのか」
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