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二章 銀箭に侵された地
静かな朝食
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翌日は雨。頭痛を起こしやすい体質の二人にとってはあまり好ましくないコンディション。昼前になって、ようやく利玖が先に目覚めた。
起きてから、まず換気の為に窓を開けたが、どの方角にも雲が厚く垂れ込めている。時間経過による天気の好転は望めそうにない。
昨日の夜に封を切ったブランディは、結局、三分の一ほどしか中身を減らせなかった。今は、酸化を防ぐ為にしっかりと蓋を閉めた状態で食器棚の下に保管されている。
いつか飲み切る事が出来ればそれで良い、と思えた。
兎に角、雨。それだけで万事気乗りのしない一日の始まりである。
寝室を出た後、利玖はリビングの真ん中で腰に手を当てて「ようし」と口に出し、自分に活を入れた。
キッチンに行き、朝食の準備に取りかかる。いくつかの根菜を切り、スーパで買ってきた鶏つくねをスプーンで団子状に丸めて鍋で煮込んだ。
食欲がなくても、こういう時には、なるべく野菜がたくさん入った食事を取った方が良い。一口でも二口でも食べる事が出来れば、それだけ早く体力も回復する。
そんな思いで調理をしていた為か、予想以上に具沢山の鍋になったので、利玖はキッチンの壁にもたれて、お玉を持ったまま、うたた寝をしそうになるくらい時間をかけて煮込んだ。
味見をし、火が通った事を確かめて、史岐を起こしに行く。利玖がいなくなった事で、冷えがひどくなったように感じられたのか、頭まですっぽりと布団に包まった状態で、何がどこにあるのかさっぱりわからなかった。
「おはようございます」
枕元にかがみ込んで挨拶をする。鉛色の波打ち際を想起させる重々しい溜息が布団の中から返って来た。
「ごはんが出来ましたよ。熱いうちに食べましょう」
「そんな、熱かったら食べられないよ」
寝言を口にしながら、動力不足のねじ巻き人形みたいな動きで史岐が布団の下から出てくる。ベッドの縁に腰掛け、床に両足を下ろした所で一旦動かなくなったが、利玖が鍋の中身を椀によそって運んでくると、テーブルの前まで移動して来ていた。
「頭が痛い」額に片手を当てて史岐が呟く。
「今日はずっと雨みたいですね」利玖は手早く椀と箸を配膳した。「食べ終わってもまだ具合が悪かったら、薬を飲んで横になりましょう。最後にお腹に入れたのが度数の高いお酒のままでは、体に良くありません」
「そうだね……」
史岐は頷き、のっそりと箸を手に取った。
利玖も一緒に食べ始める。野菜が入っているとはいえ、朝から肉料理はヘヴィだったか、と少しの不安があったが、鶏つくねに入った柚子の風味が良い仕事をして、難なく完食する事が出来た。
「美味しいなあ、これ」史岐は、利玖よりも先に食べ終えて、すっかり頬にも血色が戻っている。「お代わりある?」
「あと二人前くらいなら」
「貰ってこよう」史岐は空の椀を持って立ち上がる。「利玖ちゃんは?」
「いえ、わたしはもう十分です」
「じゃあ、ちょっと待ってて。好きな本読んでていいから」史岐は片手を伸ばして、利玖が使い終えた椀と箸を回収した。「ついでにコーヒーも淹れてくる」
史岐のコーヒーはハンド・ドリップ。硝子のポットにフィルタをセットして作る。豆の種類によってはミルで挽く所から始めるので、出来上がるまでには、いつも、少し待つのが普通だった。
前にここへ来た時に読んだ長編ミステリがあったので、続きを開いてみたが、いまいち頭が回っていない感じがして、四ページも読まないうちにマグカップが運ばれてくる。
「コーヒーを淹れていると、色々、思い出す」利玖の向かいに座りながら史岐が言う。「えっと……、そう、《とほつみの道》だっけ。利玖ちゃんは知らないよね?」
「はい。初耳です」利玖は頷いた。「ヒトと妖が交渉をする場のようなものかな、という印象は受けましたが」
「うん、ほぼ、それで合っている」史岐はコーヒーを一口飲む。「じゃあ、匠さんも、何も教えていないんだ」
利玖は再び頷いた。
佐倉川匠は、五つ年が離れた利玖の兄で、潟杜大学理学部の博士課程に在籍している。植物生態学を主とする研究者であり、同時に、世間一般では公にその存在を認められていないもの、つまり、妖、化生、神々、そういった呼び方をされるモノ達に対して、ある程度の知識を持ち、礼儀を弁えた、佐倉川家の嫡子でもある。
「たぶん、わたしには関わってほしくないと判断したのでしょう。だから存在を伏せているのだ思います」
「そうだね」史岐は顔の前で、両手の指を合わせて目を瞑った。「僕だって、出来れば行ってほしくない」
「呼ばれているのはわたしです」
「そうなんだよなあ」史岐は顔をしかめて天井を見上げた。
「何か、危険があるのですか?」
「いや、《とほつみの道》自体は安全だよ。武器を持ち込む事も、呪術の類で傷をつける事も厳しく禁じられている。超人的な力を持つ土地神や神使、妖達と、ヒトが対等に話し合う為の手段として生み出されたものだからね」
「しかし、それが確約されているのは、あくまで《とほつみの道》の中だけ、と……」利玖は呟く。史岐の言いたい事が、何となくわかってきた。
「そう。中で話し合われた事の、その後の穏便な幕引きまでは、《とほつみの道》は保証しない。話だけでも聞いてやろう、と赴いて、自分の手には余る事態だとわかっても、相手がすぐに諦めてくれるとは限らない」
「それって、気軽に使えるものなのですか?」利玖は質問する。「えっと、つまり、柏名山のヌシが《とほつみの道》という手段を示してきた事が、どのくらいの先方の必死さを表しているのか、という意味ですが」
「うーん」史岐は唸る。
「ああ、真剣なんですね」利玖は顎を引いた。「そうか、困ったな……」
「あと、もう一つ障害がある」史岐が指を一本立てた。
「《とほつみの道》は使える人間が決まっているんだ。僕の家系だと、ちょっと伝手がない。匠さんに訊いてみても良いけれど……」
「やめておきましょう」利玖は即答する。「こじれます」
「同意見」史岐は、本人に聞かれるかもしれない、と危惧でもしているような抑えた声で言うと、溜息をついてベッドの縁に手をかけ、体をひねって灰色に煙る窓を見上げた。
「となると、あとは槻本家か」
起きてから、まず換気の為に窓を開けたが、どの方角にも雲が厚く垂れ込めている。時間経過による天気の好転は望めそうにない。
昨日の夜に封を切ったブランディは、結局、三分の一ほどしか中身を減らせなかった。今は、酸化を防ぐ為にしっかりと蓋を閉めた状態で食器棚の下に保管されている。
いつか飲み切る事が出来ればそれで良い、と思えた。
兎に角、雨。それだけで万事気乗りのしない一日の始まりである。
寝室を出た後、利玖はリビングの真ん中で腰に手を当てて「ようし」と口に出し、自分に活を入れた。
キッチンに行き、朝食の準備に取りかかる。いくつかの根菜を切り、スーパで買ってきた鶏つくねをスプーンで団子状に丸めて鍋で煮込んだ。
食欲がなくても、こういう時には、なるべく野菜がたくさん入った食事を取った方が良い。一口でも二口でも食べる事が出来れば、それだけ早く体力も回復する。
そんな思いで調理をしていた為か、予想以上に具沢山の鍋になったので、利玖はキッチンの壁にもたれて、お玉を持ったまま、うたた寝をしそうになるくらい時間をかけて煮込んだ。
味見をし、火が通った事を確かめて、史岐を起こしに行く。利玖がいなくなった事で、冷えがひどくなったように感じられたのか、頭まですっぽりと布団に包まった状態で、何がどこにあるのかさっぱりわからなかった。
「おはようございます」
枕元にかがみ込んで挨拶をする。鉛色の波打ち際を想起させる重々しい溜息が布団の中から返って来た。
「ごはんが出来ましたよ。熱いうちに食べましょう」
「そんな、熱かったら食べられないよ」
寝言を口にしながら、動力不足のねじ巻き人形みたいな動きで史岐が布団の下から出てくる。ベッドの縁に腰掛け、床に両足を下ろした所で一旦動かなくなったが、利玖が鍋の中身を椀によそって運んでくると、テーブルの前まで移動して来ていた。
「頭が痛い」額に片手を当てて史岐が呟く。
「今日はずっと雨みたいですね」利玖は手早く椀と箸を配膳した。「食べ終わってもまだ具合が悪かったら、薬を飲んで横になりましょう。最後にお腹に入れたのが度数の高いお酒のままでは、体に良くありません」
「そうだね……」
史岐は頷き、のっそりと箸を手に取った。
利玖も一緒に食べ始める。野菜が入っているとはいえ、朝から肉料理はヘヴィだったか、と少しの不安があったが、鶏つくねに入った柚子の風味が良い仕事をして、難なく完食する事が出来た。
「美味しいなあ、これ」史岐は、利玖よりも先に食べ終えて、すっかり頬にも血色が戻っている。「お代わりある?」
「あと二人前くらいなら」
「貰ってこよう」史岐は空の椀を持って立ち上がる。「利玖ちゃんは?」
「いえ、わたしはもう十分です」
「じゃあ、ちょっと待ってて。好きな本読んでていいから」史岐は片手を伸ばして、利玖が使い終えた椀と箸を回収した。「ついでにコーヒーも淹れてくる」
史岐のコーヒーはハンド・ドリップ。硝子のポットにフィルタをセットして作る。豆の種類によってはミルで挽く所から始めるので、出来上がるまでには、いつも、少し待つのが普通だった。
前にここへ来た時に読んだ長編ミステリがあったので、続きを開いてみたが、いまいち頭が回っていない感じがして、四ページも読まないうちにマグカップが運ばれてくる。
「コーヒーを淹れていると、色々、思い出す」利玖の向かいに座りながら史岐が言う。「えっと……、そう、《とほつみの道》だっけ。利玖ちゃんは知らないよね?」
「はい。初耳です」利玖は頷いた。「ヒトと妖が交渉をする場のようなものかな、という印象は受けましたが」
「うん、ほぼ、それで合っている」史岐はコーヒーを一口飲む。「じゃあ、匠さんも、何も教えていないんだ」
利玖は再び頷いた。
佐倉川匠は、五つ年が離れた利玖の兄で、潟杜大学理学部の博士課程に在籍している。植物生態学を主とする研究者であり、同時に、世間一般では公にその存在を認められていないもの、つまり、妖、化生、神々、そういった呼び方をされるモノ達に対して、ある程度の知識を持ち、礼儀を弁えた、佐倉川家の嫡子でもある。
「たぶん、わたしには関わってほしくないと判断したのでしょう。だから存在を伏せているのだ思います」
「そうだね」史岐は顔の前で、両手の指を合わせて目を瞑った。「僕だって、出来れば行ってほしくない」
「呼ばれているのはわたしです」
「そうなんだよなあ」史岐は顔をしかめて天井を見上げた。
「何か、危険があるのですか?」
「いや、《とほつみの道》自体は安全だよ。武器を持ち込む事も、呪術の類で傷をつける事も厳しく禁じられている。超人的な力を持つ土地神や神使、妖達と、ヒトが対等に話し合う為の手段として生み出されたものだからね」
「しかし、それが確約されているのは、あくまで《とほつみの道》の中だけ、と……」利玖は呟く。史岐の言いたい事が、何となくわかってきた。
「そう。中で話し合われた事の、その後の穏便な幕引きまでは、《とほつみの道》は保証しない。話だけでも聞いてやろう、と赴いて、自分の手には余る事態だとわかっても、相手がすぐに諦めてくれるとは限らない」
「それって、気軽に使えるものなのですか?」利玖は質問する。「えっと、つまり、柏名山のヌシが《とほつみの道》という手段を示してきた事が、どのくらいの先方の必死さを表しているのか、という意味ですが」
「うーん」史岐は唸る。
「ああ、真剣なんですね」利玖は顎を引いた。「そうか、困ったな……」
「あと、もう一つ障害がある」史岐が指を一本立てた。
「《とほつみの道》は使える人間が決まっているんだ。僕の家系だと、ちょっと伝手がない。匠さんに訊いてみても良いけれど……」
「やめておきましょう」利玖は即答する。「こじれます」
「同意見」史岐は、本人に聞かれるかもしれない、と危惧でもしているような抑えた声で言うと、溜息をついてベッドの縁に手をかけ、体をひねって灰色に煙る窓を見上げた。
「となると、あとは槻本家か」
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