上 下
9 / 36
一章 謎を纏った喫茶店

すがりついてきたモノ

しおりを挟む
 利玖は初め、藪から野生動物が飛び出してきたのかと思った。濡れた毛並みのような手ざわりを感じたのだ。単なる木っ端や、紙屑がぶつかってきた時とは明らかに違う。
 もし動物が相手だったら、下手に刺激しない方が良い。そう思って、利玖は叫びたいのを必死で我慢した。人間に慣れていない野生動物なら、それで逃げ去っていくはず、と考えたのである。
 しかし、纏わり付いてきた存在は、離れるどころか、逆に利玖の足を遡ってきた。腿まで辿り着いた所で、さながら樹々の間を自在に飛び交うジャングルのサルのように、俊敏に手首に飛び移ってくる。
 さすがの利玖も声を上げそうになったが、それよりも先に、じっとりと粘っこいものに覆われた手首がひとりでに振動し始めて、濁った声が聞こえた。
「……さくらがわ、りくさま……、と、おみうけします」
 爪先から手首に移ってきた事で、その物体の輪郭が、よりはっきりと見えるようになっていた。
 所々に剛毛のような黒っぽい繊維が生えているが、ほとんど、見た目は泥といって良い。呼吸をしているように、表面に小さな気泡がぽつっと膨らんでは、微量のガスを発して潰れる、それが全身の至る所で繰り返されている。潰れた跡の穴からは、雨上がりのような強い土のにおいが漂ってくる気がした。
 次第に、手首から肩にかけて、だるいような痺れが広がり始めた。泥状の物体が、絶えず体を震わせている為だろうか。
 重さに耐えきれなくなって、その場にしゃがみ込んで手をつくと、泥状の物体は驚いたように喋るのをやめた。
「大丈夫です」利玖は低く言う。「続けてください。わたしに何かご用が?」
 泥は、頷くように、ぐっとからだを前に傾けた。
「どうか、われらにおちからをかしていただきたいのです。うしべにふうじられた、ふるきかみ、ぎんせんを……」
(うしべ……、あっ、潮蕊うしべ?)
 心当たりのある地名に、利玖が思わず息をのんだ、その時、弾けるようなドアベルの音を響かせて史岐が外に飛び出してきた。数歩遅れて、千堂も後を追ってくる。
 彼らの姿が見えた途端、手首に感じていた冷たさも重さも、跡形もなく消え失せた。
「お客様……!」
 声をかけたのは千堂が先だった。両手を中途半端な高さで前に出し、狼狽えた表情を浮かべている。
 史岐は黙ったまま、利玖の脇に来て膝をついた。
 利玖は彼に向かって、泥がくっついていた手首を持ち上げてみせる。濡れた後のような、ひんやりとした感覚がまだ残っていたが、服の袖はまったく元通りに戻っていて、皺も染みも見当たらない。
 史岐は利玖の手首をとって、険しい面持ちで見つめていたが、やがて視線を少しだけ持ち上げて首を振った。自分には何も感じ取れない、というサインか、それとも、千堂の前で話すべきではない、という意味か。
 史岐に支えてもらいながら立ち上がり、利玖は千堂に頭を下げる。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。もう、大丈夫です。立って歩けますから」
「すみません。お代は払いますから、何か体の温まる飲みものを作ってもらう事は出来ますか?」史岐が訊いた。
「や、そんな……、お代なんて頂戴しませんよ」千堂は前に出していた両手を、首とともに勢いよく振った。「もちろん、ご用意させて頂きます。お酒でもミルクでも……、あの……」彼は、利玖達に向かって手のひらを広げたまま、落ち着かなげに辺りを見回した。その後、開いたままの店のドアに気づき、萎縮したように横這いでそちらに近づいていく。
「ともかく、一度、中に戻りましょう。ここだと道路が近すぎますし、気温が低くて体に良くない。えっと、そう、明かりはすぐに、全部点けてきます。あ、暖房の設定温度も上げた方がいいかな……」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

【完結】王太子妃の初恋

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
カテリーナは王太子妃。しかし、政略のための結婚でアレクサンドル王太子からは嫌われている。 王太子が側妃を娶ったため、カテリーナはお役御免とばかりに王宮の外れにある森の中の宮殿に追いやられてしまう。 しかし、カテリーナはちょうど良かったと思っていた。婚約者時代からの激務で目が悪くなっていて、これ以上は公務も社交も難しいと考えていたからだ。 そんなカテリーナが湖畔で一人の男に出会い、恋をするまでとその後。 ★ざまぁはありません。 全話予約投稿済。 携帯投稿のため誤字脱字多くて申し訳ありません。 報告ありがとうございます。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

妻のち愛人。

ひろか
恋愛
五つ下のエンリは、幼馴染から夫になった。 「ねーねー、ロナぁー」 甘えん坊なエンリは子供の頃から私の後をついてまわり、結婚してからも後をついてまわり、無いはずの尻尾をブンブン振るワンコのような夫。 そんな結婚生活が四ヶ月たった私の誕生日、目の前に突きつけられたのは離縁書だった。

届かない手紙

白藤結
恋愛
子爵令嬢のレイチェルはある日、ユリウスという少年と出会う。彼は伯爵令息で、その後二人は婚約をして親しくなるものの――。 ※小説家になろう、カクヨムでも公開中。

好青年で社内1のイケメン夫と子供を作って幸せな私だったが・・・浮気をしていると電話がかかってきて

白崎アイド
大衆娯楽
社内で1番のイケメン夫の心をつかみ、晴れて結婚した私。 そんな夫が浮気しているとの電話がかかってきた。 浮気相手の女性の名前を聞いた私は、失意のどん底に落とされる。

処理中です...