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梅室しば

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一章 謎を纏った喫茶店

柏名山

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 熊野くまの史岐しきは標高およそ千メートルの駐車帯で煙草を吸っていた。
 他に車は停まっていない。時刻はもうじき午後八時になる。本来であれば、この時間は同じ潟杜かたもり大学に通う後輩の佐倉川さくらがわ利玖りくと郊外のレストランで夕食を共にしているはずだった。
 今朝になり、やむを得ない事情でその予定がふいになったのである。今月中旬から下旬にかけて、大学では、半期の集大成である後期試験が順次実施される予定となっており、利玖の在籍している理学部生物科学科の必修単位の対策が難航している、というのがその理由だった。
 本来、今日の食事会は、その試験勉強の息抜きも兼ねて、という名目でもあったのだが、班で協力して実験結果をまとめなければならない作業の進捗が想像以上に思わしくなく、ここ数日は度々実験室に泊まり込んでいるような有様らしい。電話越しにその説明を聞いている間、利玖の口からはいくつかの学術用語が出たが、情報工学を専攻している史岐にはよく理解できなかった。
 予定が立ち消えても、すっかり運転する気分になっていたので、史岐は夜になってから交通量の少ない市北部へと車を走らせた。しばらく、当てもなく北上を続けた所で、国道からそう離れていないかしわさんを超える峠道の入り口を見つけた。
 柏名山は、お世辞にも「魅力的な景勝地を備えた人気の観光地」とは呼べない。
 山頂近くに小さな湖が一つだけあって、そこに至る道は細く、曲がりくねっている。夏の盛りには、跋扈した雑草で路肩の見通しも良くない。
 山を越えても人口の多い町に通じている訳ではないので、生活道路としての利用もないに等しい。しかし、大学からは離れていないので、自転車部やモータースポーツ同好会の部員が手頃な重力加速度を求めて入り浸っているという噂は聞く。
 今は、まだ雪も融け切っていない一月中旬なので、少なくとも自転車部員の姿はないだろう。ドライブには適したタイミングかもしれない、と考えて史岐はハンドルを切った。
 蛇行する上り坂をいくつも超え、山頂近くのかしわにかかる橋を渡って、さらに進むと、進入禁止を示す標識が掲げられたゲートに突き当たった。
 車を降りて近づいてみると、ゲートの先は道幅が細く、除雪が行き届いていない。看板に書かれた文字を読むと、進入禁止の期間は、ゴールデン・ウィークの一週間ほど前まで続くようだった。
 史岐はUターンをして、ゲートの手前にあった駐車帯に車を停めた。
 エンジンを切って車を降り、ガードレールの手前で煙草に火を点けたのが、今から五分ほど前の事である。
 ガードレールの向こうに目を向けても、ほとんど、真っ黒な木々のシルエットしか見えなかったが、遠くの方にはわずかに街明かりがあった。おそらく潟杜市街だろう。東西を険しい山脈に挟まれた特異な立地にある為か、どことなく哀愁の漂う地方都市の夜景だが、石の割れ目に生まれた結晶のように凝縮されたエネルギィを持っている。
 期末試験が終わるまで、大体、あと三週間。
 それまではたぶん、何度かこういう夜があるのだろう。
 史岐が所属している工学部情報科学科は大学の中でも頭抜けて必修単位の取得が容易だ。高校三年生の進路選択の時、それをまったく意識しなかったと言えば嘘になる。
 一方、利玖のいる理学部生物科学科は、一年生から四年生まで満遍なく、あらゆる季節を通して過酷で、人間の生活リズムなど端から考慮していないのでは、と思うようなカリキュラムも多い。厄介な事に、それは必修科目であるほど顕著な傾向にあって、理学部の中では最も退学者が多い学科だとも聞く。利玖ほど熱心に学問に向き合っている学生でもそれは堪えるだろう、と思うようなエピソードも多々耳にした。
 こうなると、何となくの感覚で、ぐずぐずと張りのない日々を過ごしている自分がどうにも暢気に感じられて焦れったい。
 三本目の煙草に火を点けようとした所で手を止めた。
 そんな風に自虐した気分になった所で、胸がすくのはほんの一瞬で、後に待っているのは、粘っこく体にまとわりつく苛立ちと焦燥感だけだ。
(腹が空いたな……)
 利玖と食べるつもりだったので、夕食はまだ口にしていない。
 せめて何か食べてからマンションに帰ろう、と決めた時、橋の袂に明かりのついた建物があったのを思い出した。特徴的な看板がなかったので、全国展開しているコンビニエンス・ストアでない事だけは覚えている。
 煙草を吸い終えて、車を発進させ、まだ店内に明かりがついている事を確かめてから駐車場に車を入れた。
 端の方に車を停めた史岐は、建物全体を観察しながら、ゆっくりと入り口に向かって歩いて行った。
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