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第八章 娼嫉と憂愁
第八節
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四月も終わりに近付き、日中は暖かさが増してきているが、やはり夜はまだ冷える。
「しっかし、あんたも物好きだな」
朝霞と並んで歩いていた雅通が口を開いた。
「急に散歩しようなんて、一体どういうつもり?」
「どういうつもり、と言われても……」
雅通の問いに対し、朝霞は答えに窮した。散歩をしたいと思ったことに深い意味はない。ただ、何となく外の空気を吸いたかった。少し間を置いてからそう告げると、雅通は、「ふうん」とつまらなそうに返してきた。
「まあ、別にいいけどさ。自分ちじゃないから、何かと気兼ねしちまうんだろうし」
「――すみません……」
「何で謝んの?」
「いえ、なりゆきとはいえ、あなたを無理矢理付き合わせることになってしまったから……。迷惑、だったでしょう……?」
「別に。迷惑なんてちっとも思っちゃいねえよ」
「ほんと、ですか……?」
「俺は嘘吐くの苦手だから。って、江梨子さんにゴリ押しされたから、っつうのも否定出来ねえけどな」
そこまで言うと、雅通は朝霞に向けて白い歯を見せながらニカッと笑った。
まさか、自分に笑顔を向けられるとは思ってもみなかった。あまりに驚き、雅通をまじまじと見つめてしまった。
「おい」
雅通は笑った顔を引っ込め、今度は怪訝そうに朝霞を凝視する。
「俺の顔になんか付いてた?」
「え?」
「あんまりジーッと見てくるからさ。気になるじゃねえか」
「いえ、何も付いてません。――すみません、笑顔を向けられることに慣れてないから……」
雅通はなおも不思議そうに首を捻る。だが、そのうちまた、ほんのりと柔らかな笑みを朝霞に向けてきた。
「あの連中が笑うなんて想像付かねえもんな。笑ったとしても、冷笑か嘲笑だろ?」
一瞬、〈あの連中〉が誰を指すのか分からなかった。だが、少し考えて、本家にいる父親達全員のことを言っているのだと察した。
「私も、笑えません」
何の気なしに朝霞は言ったつもりだった。
だが、雅通は自分が過ぎたことを口にしてしまったと後悔したらしく、「わりい」と謝罪してきた。
「あんたまで否定するつもりはなかった。けど、酷いことを言っちまったな」
「気にしないで下さい」
そう言いながらも、やはり表情を変えることの出来ない朝霞は、真顔のまま続けた。
「笑うことも怒ることも出来ないのは幼い頃からですから。今さらどうにもなりません。こんな顔だから、祖父母にも『可愛くない』とはっきり言われました。――だから、感情を全て表に出せるみいちゃんを、ずっと羨んでいたんです。最低ですよね?」
朝霞は一気に言ってから、強く唇を噛み締めた。
いつまでも消えない、祖父母に対するわだかまり。そして、美咲への嫉妬心。だが、一番憎いのは、未だに成長しない朝霞自身の〈ココロ〉だった。
そういえば、と朝霞ははたと気付く。雅通も美咲と似て、とても表情が豊かだ。しかし、嫉妬や憎悪は不思議と全く湧かない。上辺だけでも、自分に優しく接してくれているからだろうか。
(でも、上辺だけの優しさはいつか消えてしまう……)
孤独を背負いながら生き続けてきた朝霞は、諦めることも覚えている。それなのに、雅通が自分の元をすり抜けてしまうことに淋しさを感じてしまう。
しばらく、二人の間に会話はなかった。朝霞の言葉に、雅通もどう反応していいのか分からなくなってしまったのかもしれない。無理もないことだ。
冷たい夜風が頬を掠める。体温が徐々に奪われ、朝霞は自らの身体を両腕で抱き締めた。
「――あんたは」
沈黙を破るように、雅通が再び口を開いた。
「自分から誰かを愛そうと思ったことはねえの?」
朝霞の心臓が跳ね上がる。まさか、こんなことを言われるとは予想外だった。
「ヒトの愛し方なんて、知りません……」
小さく深呼吸をしてから答える。雅通の顔をまともに見ることが出来なかったが、自分に鋭い視線を注いでいることは何となく察した。
雅通から溜め息が漏れる。それがまた、朝霞の胸に小さな痛みを感じさせた。
「まあ、俺も他人に説教出来るほど立派な人間じゃねえけど」
雅通は、ゆったりと言葉を紡いだ。
「誰かに幸せを与えられるのを待ってるだけじゃ、何にも変わりはしねえよ。どうせ自分なんて、とか、自分は可哀想だ、とか思ってる人間に、誰が寄って来ると思う? 寄って来るわけねえだろ。むしろ、腫物を触るような扱いをされて避けられるだけだ。俺の言ってること、間違ってるか?」
朝霞は恐る恐る顔を上げた。
雅通は、真っ直ぐな視線を朝霞に注いでいる。
「いいえ」
朝霞は首を横に振った。
「あなたの言う通りです。私は、自分で自分を憐れんでいた。他人に自分を否定されることが怖いから、自分を貶めることで自分を慰めていたんです」
初めて、自分の奥底に眠らせていた本心を吐き出した気がした。口に出すどころか、認めることすら怖かったのに、痞えたものが取れたように心が安らかになっている。
やはり、雅通は不思議な人間だ。こんなにも自分の中身を抉られたのに、腹が立つどころか感謝している自分がいる。
「ありがとうございます」
雅通に感謝を述べると、雅通はわずかに目を見開いた。
「改めて礼を言われるのもな……」
照れ隠しなのか、自分の頭を乱暴に掻いている。本当に素直で羨ましい、と朝霞は思った。
「私も、あなたみたいに前向きになれますか?」
「俺はそんなに前向きじゃねえけどなあ」
「そうですか?」
「俺だって普通の人間だ。嫉妬もするし他人を憎んだりもする。ただ、ちょっと考え方を変えてるってだけだ」
「そこが凄いと思います」
「――俺、ほんとにあんまり褒められ慣れてないんだけど……」
雅通はぶっきらぼうに言い放った。だが、そのあとで小さく、「ありがと」と告げてきた。
「よし、そろそろ戻るぞ! 遅くなり過ぎると、また俺が江梨子さんに絞られちまう!」
雅通が朝霞の手を取った。深い意味はなかったかもしれない。だが、初めて触れる異性の手の大きさに朝霞の胸が高鳴った。この正体は、朝霞自身もよく分かっていない。
雅通は足早に朝霞を引いて歩く。強引なのに、どこかさり気ない優しさも感じる。
もっと、雅通と距離を縮めたかった。しかし、これ以上は甘えられないと自制し、代わりに手を強く握り返した。
寒いはずなのに、身体中が熱を帯び続けていた。
【第八章 - End】
「しっかし、あんたも物好きだな」
朝霞と並んで歩いていた雅通が口を開いた。
「急に散歩しようなんて、一体どういうつもり?」
「どういうつもり、と言われても……」
雅通の問いに対し、朝霞は答えに窮した。散歩をしたいと思ったことに深い意味はない。ただ、何となく外の空気を吸いたかった。少し間を置いてからそう告げると、雅通は、「ふうん」とつまらなそうに返してきた。
「まあ、別にいいけどさ。自分ちじゃないから、何かと気兼ねしちまうんだろうし」
「――すみません……」
「何で謝んの?」
「いえ、なりゆきとはいえ、あなたを無理矢理付き合わせることになってしまったから……。迷惑、だったでしょう……?」
「別に。迷惑なんてちっとも思っちゃいねえよ」
「ほんと、ですか……?」
「俺は嘘吐くの苦手だから。って、江梨子さんにゴリ押しされたから、っつうのも否定出来ねえけどな」
そこまで言うと、雅通は朝霞に向けて白い歯を見せながらニカッと笑った。
まさか、自分に笑顔を向けられるとは思ってもみなかった。あまりに驚き、雅通をまじまじと見つめてしまった。
「おい」
雅通は笑った顔を引っ込め、今度は怪訝そうに朝霞を凝視する。
「俺の顔になんか付いてた?」
「え?」
「あんまりジーッと見てくるからさ。気になるじゃねえか」
「いえ、何も付いてません。――すみません、笑顔を向けられることに慣れてないから……」
雅通はなおも不思議そうに首を捻る。だが、そのうちまた、ほんのりと柔らかな笑みを朝霞に向けてきた。
「あの連中が笑うなんて想像付かねえもんな。笑ったとしても、冷笑か嘲笑だろ?」
一瞬、〈あの連中〉が誰を指すのか分からなかった。だが、少し考えて、本家にいる父親達全員のことを言っているのだと察した。
「私も、笑えません」
何の気なしに朝霞は言ったつもりだった。
だが、雅通は自分が過ぎたことを口にしてしまったと後悔したらしく、「わりい」と謝罪してきた。
「あんたまで否定するつもりはなかった。けど、酷いことを言っちまったな」
「気にしないで下さい」
そう言いながらも、やはり表情を変えることの出来ない朝霞は、真顔のまま続けた。
「笑うことも怒ることも出来ないのは幼い頃からですから。今さらどうにもなりません。こんな顔だから、祖父母にも『可愛くない』とはっきり言われました。――だから、感情を全て表に出せるみいちゃんを、ずっと羨んでいたんです。最低ですよね?」
朝霞は一気に言ってから、強く唇を噛み締めた。
いつまでも消えない、祖父母に対するわだかまり。そして、美咲への嫉妬心。だが、一番憎いのは、未だに成長しない朝霞自身の〈ココロ〉だった。
そういえば、と朝霞ははたと気付く。雅通も美咲と似て、とても表情が豊かだ。しかし、嫉妬や憎悪は不思議と全く湧かない。上辺だけでも、自分に優しく接してくれているからだろうか。
(でも、上辺だけの優しさはいつか消えてしまう……)
孤独を背負いながら生き続けてきた朝霞は、諦めることも覚えている。それなのに、雅通が自分の元をすり抜けてしまうことに淋しさを感じてしまう。
しばらく、二人の間に会話はなかった。朝霞の言葉に、雅通もどう反応していいのか分からなくなってしまったのかもしれない。無理もないことだ。
冷たい夜風が頬を掠める。体温が徐々に奪われ、朝霞は自らの身体を両腕で抱き締めた。
「――あんたは」
沈黙を破るように、雅通が再び口を開いた。
「自分から誰かを愛そうと思ったことはねえの?」
朝霞の心臓が跳ね上がる。まさか、こんなことを言われるとは予想外だった。
「ヒトの愛し方なんて、知りません……」
小さく深呼吸をしてから答える。雅通の顔をまともに見ることが出来なかったが、自分に鋭い視線を注いでいることは何となく察した。
雅通から溜め息が漏れる。それがまた、朝霞の胸に小さな痛みを感じさせた。
「まあ、俺も他人に説教出来るほど立派な人間じゃねえけど」
雅通は、ゆったりと言葉を紡いだ。
「誰かに幸せを与えられるのを待ってるだけじゃ、何にも変わりはしねえよ。どうせ自分なんて、とか、自分は可哀想だ、とか思ってる人間に、誰が寄って来ると思う? 寄って来るわけねえだろ。むしろ、腫物を触るような扱いをされて避けられるだけだ。俺の言ってること、間違ってるか?」
朝霞は恐る恐る顔を上げた。
雅通は、真っ直ぐな視線を朝霞に注いでいる。
「いいえ」
朝霞は首を横に振った。
「あなたの言う通りです。私は、自分で自分を憐れんでいた。他人に自分を否定されることが怖いから、自分を貶めることで自分を慰めていたんです」
初めて、自分の奥底に眠らせていた本心を吐き出した気がした。口に出すどころか、認めることすら怖かったのに、痞えたものが取れたように心が安らかになっている。
やはり、雅通は不思議な人間だ。こんなにも自分の中身を抉られたのに、腹が立つどころか感謝している自分がいる。
「ありがとうございます」
雅通に感謝を述べると、雅通はわずかに目を見開いた。
「改めて礼を言われるのもな……」
照れ隠しなのか、自分の頭を乱暴に掻いている。本当に素直で羨ましい、と朝霞は思った。
「私も、あなたみたいに前向きになれますか?」
「俺はそんなに前向きじゃねえけどなあ」
「そうですか?」
「俺だって普通の人間だ。嫉妬もするし他人を憎んだりもする。ただ、ちょっと考え方を変えてるってだけだ」
「そこが凄いと思います」
「――俺、ほんとにあんまり褒められ慣れてないんだけど……」
雅通はぶっきらぼうに言い放った。だが、そのあとで小さく、「ありがと」と告げてきた。
「よし、そろそろ戻るぞ! 遅くなり過ぎると、また俺が江梨子さんに絞られちまう!」
雅通が朝霞の手を取った。深い意味はなかったかもしれない。だが、初めて触れる異性の手の大きさに朝霞の胸が高鳴った。この正体は、朝霞自身もよく分かっていない。
雅通は足早に朝霞を引いて歩く。強引なのに、どこかさり気ない優しさも感じる。
もっと、雅通と距離を縮めたかった。しかし、これ以上は甘えられないと自制し、代わりに手を強く握り返した。
寒いはずなのに、身体中が熱を帯び続けていた。
【第八章 - End】
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