宵月桜舞

雪原歌乃

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第八章 娼嫉と憂愁

第五節

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「ただいまー!」
 玄関のドアを開けて挨拶すると、ほどなくして母親の理美が姿を現した。
「おかえりなさい。さ、優奈ちゃんも和海君も上がって上がって!」
 いつもながら、理美は無駄に元気が有り余っていると美咲はつくづく思う。
 南條と優奈は、理美に促されるままに靴を脱いで上がり、美咲もそれに続いた。
 南條から聞いてはいたが、確かに靴がいつもより多い。南條と優奈の靴も入れたら、来客者と思われるものは六足ある。
(ほんとに凄いんだけど……)
 心の中でひとりごちていると、理美がリビングのドアを開いた。それぞれ並んで中に入り、グルリとそこにいる面子を見回した時――美咲の視線が一点で止まった。
「おかえりなさい。みいちゃんに優奈さん」
 美咲を『みいちゃん』と呼ぶのは一人しかいない。自分によく似た、ずっと避け続けてきた少女。
「朝霞さん……?」
 少女の名前を真っ先に口にしたのは優奈だった。
 名前を呼ばれた少女――朝霞は、ニコリともせず、美咲と優奈を真っ直ぐに見つめてくる。
「ほら、美咲も挨拶!」
 理美に背中を強く叩かれ、美咲は我に返った。
「どうしてアサちゃんがここに……?」
 怪訝に思いながら疑問を投げかけると、朝霞は、「色々あって」と淡々と返してきた。
「しばらく、ここでお世話になることになったの。父の了承も得ているわ。もちろん、優奈さんも」
「私も……?」
「ええ」
 優奈に向けて朝霞が頷く。
(ここでお世話になる、って……)
 全く話が見えない美咲は戸惑い、あからさまに眉をひそめてしまった。
「悪いわね。みいちゃんには特に私は招かれざる客だから」
「別にそこまでは……」
 慌てて否定するも、朝霞は「いいのよ」と淡々と続ける。
「私もここに来ていいのかどうか悩んだほどだから。でも、どうしてもあの家に帰りたくなくて……」
 『帰りたくない』と口にした朝霞の表情に、一瞬だけ翳りが差したように見えた。だが、やはり元々感情が出づらいから、やはり気のせいだろうかと美咲は思った。
「朝霞は朝霞で辛い状況に置かれているということだ」
 美咲と朝霞の会話に、貴雄が静かに割り込んでくる。貴雄は眉根を寄せながら微苦笑を浮かべた。
「元凶は兄さんにあるけど、俺と母さんにも責任がないとは言い切れないからね。同時に、幼い頃から朝霞に辛い思いをさせ続けてしまった。兄さんの考えは俺でも計り知れないが、少なくとも、俺と母さんは朝霞に今までの償いをするつもりだ」
「償い……?」
 また、話が見えない。もしかして、分からないのは自分だけだろうか。そう思い、美咲は全員の顔を見比べる。
「まず、順を追って話しましょうか?」
 理美がゆったりと口を開く。そして、朝霞に視線を送ると、理美と目が合った朝霞はコクリと頷いた。
「美咲が桜姫の魂を持っていることが分かった時、アサちゃんが犠牲になりそうになったのよ」
 一瞬、理美が何を言っているのか理解出来なかった。自分のために朝霞が犠牲になりそうになったとはどういうことなのか。
「突拍子もなかったわね」
 呆然としている美咲に、理美はほんのりと笑みを見せる。その微笑みは、どこか哀しみを帯びている。
「アサちゃんが手をかけられそうになった理由は簡単よ。――アサちゃんは、桜姫の双子の姉の魂を持っているから」
「桜姫の……、双子の、姉……?」
 今度は美咲は朝霞に視線を移す。
 朝霞は肯定も否定もせず、ただ、美咲を見つめ返してくる。
 それから、理美は全てを語った。
 桜姫の双子の姉の魂を持つ娘は、桜姫を目覚めさせ、また、最大限にチカラを引き出す役割があること。そのチカラを持つ娘は『ナカダチの姫』と呼ばれ、桜姫が転生する前に産まれてくる、と。
 さらに初めて知ったのが、朝霞には産みの母親が別にいたということだった。しかも、その産みの母親が理美の双子の姉だというのだから、話を聴いていた美咲は混乱する一方だった。
「じゃあ、本家の仏間の遺影は……」
「育てのお母さんね。正妻として本家に嫁がれてきたのだけど、最後まで子供に恵まれなかったから……。結局、その正妻さんもアサちゃんが三つになる前に亡くなっているのよ」
 朝霞の育ての母親は若くして亡くなっている。元々身体が弱かったことは知っていたが、話を聴くうち、それだけではないことははっきりきてきた。
 本家は針のむしろと言ってもいい。子をなすことが出来なかった嫁にとっては、どれほど辛い環境だっただろう。しかも、夫が外で作った子供を押し付けられ、無理矢理育てさせられるなんて、どれほど辛い仕打ちだっただろう。
「――お母さんのお姉さんは……」
 湧き上がる怒りで震える唇で、美咲はようやく言葉を紡いだ。
「他人の旦那さんを奪って平気だったの……? 自分がされたらどれほど傷付くか、全然考えなかったの……?」
「違うわ」
 感情的になっている美咲に静かに声をかけてきたのは、理美ではなく朝霞だった。
 美咲は朝霞を激しく睨む。朝霞が悪いわけじゃない。だが、裏切られた藍田の正妻のことを想うと、憎まずにはいられなかった。
 朝霞はやはり、怒りもしなければ笑いもしない。ただ、穏やかに美咲の心を宥めるように続けた。
「私の産みの母は、決して育ての母を裏切るつもりなんてなかった。むしろ、育ての母以上に被害者と言っていい」
「どうして被害者なの?」
 朝霞は口を噤んだ。多分、貴雄と理美からは全てを聴いているはず。知らないわけがない。
 なかなか口を開かない朝霞に業を煮やした美咲は、朝霞に掴みかかろうとする。と、そこで理美が「やめなさい」とゆったりと、しかし有無を唱えさせない強い口調で諭してきた。
「アサちゃんを責めても何にもならない。それはあんたも分かってるでしょう?」
「なら、どうして言えないの? 疚しいことがあるからじゃないの?」
 感情的になるのは間違っている。それは美咲も充分承知していた。だが、どうしても自分を抑えることが出来ない。
 理美は口を真一文字に結んだまま美咲に視線を注ぎ、やがて、諦めたように小さく溜め息を漏らした。
「――姉は、あの人を愛していたわけじゃないの。それに、自分が子供を持つことを非常に恐れていた。彼女は、私と違ってとても繊細だったから、産まれてくる子が背負う残酷な運命を受け止められなかったのね……」
 理美の言葉は、美咲に重くのしかかる。知らなかったとはいえ、理美にも朝霞にも、ずいぶんと酷なことを言い放ってしまった。
 朝霞が言葉を詰まらせた理由も納得出来た。同時に、本家の暗い蔵の中で藍田に凌辱されかけたことを想い出す。
(伯父さんは、私にしたことをお母さんのお姉さんにもした。ううん、私よりももっと酷いことを……)
 美咲は桜姫を目覚めさせたことによって、未遂で済んだ。だが、理美の姉は抵抗はおろか、誰も助けてはくれなかった。もしかしたら、貴雄や理美が気付いていたらすぐに二人を引き離してくれたかもしれない。いや、分かっていながら目を瞑り、目を塞いでいたのか。
 室内に重苦しい空気が流れる。賑やかなはずが、まるで通夜のように静まり返っている。
「ごめん、一人になりたい……」
 美咲はフラリと立ち上がる。そして、静かにリビングを出た。
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