宵月桜舞

雪原歌乃

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第八章 娼嫉と憂愁

第二節

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 ◆◇◆◇◆◇

 朝霞の朝は早い。皆がまだ床に就いている五時には目を覚まし、それから朝食の支度を始める。
 周囲からは淡々としているように見られがちだが、本人はいそいそと動いているつもりだ。少しでも急がないと、さすがに学校に遅刻してしまう。
 本音を言えば、ずっと家にいる綾乃にやってもらいたい気持ちはある。しかし、綾乃は非常に気まぐれな上、父親の藍田以外の指図を受けることを非常に嫌っている。それ以前に、朝霞自身、綾乃に頭を下げることをしたくないと思っているのだが。
 綾乃は心底好きになれない。美咲もそれほど好きではないが、綾乃に比べたらだいぶ素直だし、気性もサッパリしているからまだ良い。
 元々、この家は陰気な雰囲気に包まれていたが、綾乃が来てからさらに酷くなった気がする。唯一、優奈の存在が朝霞のささくれ立った心を癒してくれている。
(けど、あの子が好きなのは……)
 黙々と包丁を動かしていた時だった。
「おはようございます」
 急に背後から声をかけられた。
 朝霞は少し驚き、けれどもすぐに冷静さを取り戻してから首だけ動かして振り返った。
「すみません。ちょっと遅くなってしまって……」
 まさに今、声の主である優奈のことを考えているところだった。
 朝霞は包丁を動かす手を止め、「おはよう」と返した。
「いいのよ、気にしなくて。まだみんな寝ているのだし」
「けど、朝霞さんのお手伝いをするのも私の役目ですから」
 本当に純粋な子だと思う。『類は友を呼ぶ』とはよく言うが、美咲とずっと仲良しなのはとても頷ける。
「何かすることありますか?」
 優奈が朝霞に指示を仰いでくる。やる気満々な優奈に対し、何もしなくていい、と返すのはかえって酷な気がした朝霞は、一度包丁を置いてから冷蔵庫を指差した。
「それじゃあ、冷蔵庫から卵を取ってくれる?」
「人数分でいいですか?」
「ええ。一人二個ね」
「分かりました」
 優奈はそそくさと行動に移す。そして、玉子焼きを作るように言うと、また素直に従い、卵を溶いてフライパンで焼いてゆく。
 その傍らで、朝霞は味噌汁を作りながら、グリルに入れていた鯖の焼き具合を確かめる。一人だったらもっと慌ただしく動いていたが、優奈がいるお陰でだいぶ楽になっている。
「――朝霞さん」
 焼き上がった玉子焼きを皿に取り分けながら、優奈が遠慮がちに声をかけてきた。
 朝霞はグリルの魚をひっくり返してから、優奈に視線を送る。
「私は、ほんとは何のためにここにいるんでしょう?」
 真顔で訊ねられ、朝霞はわずかに目を見開いた。とはいえ、表情の変化が出づらいから、優奈にはいつもと変わらないようにしか映っていないかもしれない。
「何故、私にそんなことを訊くの?」
 首を傾げながら問い返すと、優奈は答えに窮していた。しばらく、あらぬ方向に視線をさ迷わせ、そのうち、諦めたように、「何となく」と言った。
「史孝さんに訊いても答えてくれないでしょうから。――それ以前に、訊けないですけど……」
「気持ちは分かるわ」
 朝霞は優奈から視線を外し、味噌汁の鍋の火を落とした。
「あの人は誰にも自分の本心を明かさないもの。実の娘なはずの私だって、あの人の考えてることなんて分からない。みいちゃんを拉致同然で家に引っ張り込んだのに、迎えが来たとたんにあっさり解放してしまった理由もね」
「――美咲が解放されたこと、納得してませんか?」
「納得するもしないもないわよ」
 この際だと思い、朝霞は優奈に本音を漏らした。
「私はみいちゃんがどうなろうと関係ないと思ってるから。私とみいちゃんが逆の立場だったら、みいちゃんも私と同じように思うんじゃないかしら? お互い、そんなに好意的に思ってないもの」
 朝霞は再び顔を上げ、真っ直ぐに優奈を見つめた。
「私のこと、冷たい女だと思ったでしょう?」
 優奈はジッと朝霞を見つめ返し、やがて、首を横に振った。
「朝霞さんのこと、冷たいだなんて思いません。ほんとはとても心根の優しい人だって知ってますから。って、前にも同じことを言ったような気がしますけど?」
「――そうだったかしら?」
「そうですよ」
 優奈は屈託なく笑い、玉子焼きの皿を盆に載せてゆく。
「ほんとに、朝霞さんは自分を過小評価し過ぎです。もっと自信を持ってもいいのに。少なくとも、私はいつでも朝霞さんの味方ですから」
「――けど、みいちゃんがいたら、みいちゃんの味方になるのでしょう?」
 我ながら、嫌な言い方だと朝霞は思った。だが、考えるよりも先に口から出てしまったのだから取り消しようがない。
 優奈は盆を持ち上げたまま、朝霞を凝視する。
 完全に呆れられただろうか。朝霞は半ば諦めにも近い気持ちを抱いた。
「私は、美咲と朝霞さん、両方の味方ですよ」
 少しの間を置いて、優奈が微かな笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。
「私にとって、美咲と朝霞さんは同じぐらい大切です。美咲は美咲で危なっかしいし、朝霞さんは、とてもしっかりしているようで脆いから。どっちも、放っておけるわけないじゃないですか」
 今度はニッコリと笑い、朝霞に背を向けて食卓へと向かう。
 朝霞はその背中を見つめ続ける。
 誰も信じられない。信じたくない。そうしないと、自分が壊れてしまう。
(彼女の言葉を、信じてもいいの……?)
 朝霞は強く拳を握り締め、ほんの少し、瞼を閉じた。 
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