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第六章 追憶と誓言
第一節
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ひんやりとした宵闇の中で、薄紅の花びらが風に乗って緩やかに舞う。
この光景は幾度目にしてきただろう。最初の頃は、年が過ぎてゆくのを指折り数えていたはずなのに、あまりに長い時を重ねてゆくうちに、初めて鬼王と出逢った時からどれほどの歳月が流れたかなんて、すでに忘れてしまった。ただ、この世界の桜の美しさは変わらない。いや、この桜は桜であって桜ではない。鬼王が愛おしい者を愛し、悼む心が、この世界の桜をいっそう美しく際立たせている。
「実に愚かだ」
銀色の髪を風に靡かせ、鬼王はひとりごちる。金色の双眸は桜を仰いでいる。実際は桜ではなく、どこか違う所へ想いを馳せている。その想いの先に何があるのか、女――珠璃はよく理解していた。
珠璃は元々ヒトだった。珠璃の母親は〈さる高貴な方〉に見初められ、珠璃を身籠った。しかし、珠璃が産まれるやいなや、人目に付かないとある山荘に母娘共々護送され、そこから外に一歩たりとも出ることを決して許されなかった。そのため、珠璃は外界にどんな世界が広がっているかなど知らずに育った。たまに、気紛れのように珠璃の〈父親〉だと名乗る男が訪れてくるものの、男は珠璃と会話を交わすのはおろか、顔すら合わせることをしない。母親といても、従者を通して珠璃を部屋から出し、珠璃がいない間、母親と逢瀬を重ねていた。
淋しい、とか、恨めしい、といった感情は湧かなかった。ただ、何故、自分は父親に疎まれているのかが不思議で仕方なかった。
一度だけ、母親にそれとなく問い質してみたことがあった。だが、母親は哀しげな笑みを浮かべるだけで、珠璃の問いに答えてくれることは決してなかった。
珠璃が父親に恨みを抱かなかったのは、その分、母親が珠璃にありったけの愛情を注いでくれたからだと信じている。母親は優しくて慈愛に満ちたヒトだった。一人娘の珠璃を目に入れても痛くないほど可愛がり、父親が訪れて来た時以外は、片時も珠璃を側から離そうとしなかった。
ただ、時々フッと淋しそうに顔を曇らせることがあった。そう、珠璃が、父親に避けられる理由をさり気なく訊いた時と同じように。もしかしたら、いや、もしかしなくても、母親は珠璃が生まれた時からすでに、珠璃の生まれ持った〈宿命〉を知っていたのだ。
珠璃が数えで十七を迎えようとした頃、その時は訪れた。
それまで、山荘を訪れても決して顔を見せようともしなかった父親が、初めて自ら珠璃に姿を見せた。しかも、何の前触れもなしに。
珠璃は呆気に取られ、ただ、父親を凝視するのが精いっぱいだった。
その時の父親の表情と、発せられた台詞は忘れられない。父親は口元を不敵に歪め、珠璃に向けて冷ややかに言い放った。
「機は熟した」
言っている意味が分からなかった。半ば救いを求めるような想いで隣に控えていた母親に視線を送るも、母親は狂ったように泣き崩れるばかりだった。
それから、父親は乱暴に珠璃の腕を掴んで立ち上がらせた。従者達に目隠しされ、口も縄で塞がれたかと思ったら、そのままどこかへ連れて行かれた。
「罪深きナカダチの姫、黄泉の国へ行き己の運命を呪い続けるが良い」
その後、珠璃はそのまま激流の中に放り込まれた。水圧で、全身が引きちぎられるのではないかと思えるほどの痛みを感じながら、自分はこのまま死んでしまうのかと、思いのほか冷静に受け止めていた。
ところが、珠璃は生き存えた。どうやって激流の中から助かったのかは憶えていない。だが、おぼろげではあるが、何かが珠璃に救いの手を差し伸べてきたような気はした。
気付いたら、珠璃は鬼王が封じられている世界へと導かれていたのだ。
鬼王のことは、母親から幾度となく聴かされていたから知っていた。むろん、実際に逢うのは初めてであったが。
鬼王はヒトを脅かす亡霊の長。忌むべき存在だと教えられてきた。しかし、珠璃は鬼王に畏怖を抱いたものの、ヒトの方がよほどおぞましいと感じていたから、初めて逢った時も、父親ほどには恐怖心を駆り立てられなかった。むしろ、鬼王と接する毎に、鬼王の真の優しさに触れ、側に仕えていることに幸福感を覚えた。
「ヒトは、自らの力を過信していますから」
鬼王の側に添いながら、珠璃はゆったりと口を開く。
鬼王は一瞬、金色の双眸を珠璃に向けたが、すぐに視線を外し、また桜を仰ぎ見た。
珠璃は黙って鬼王の横顔を見つめる。全てにおいて自信に満ち溢れているはずなのに、どこか縋るように淋しそうに遠くを眺めている。
(やはり、私では役不足というわけね……)
鬼王に新たな命を吹き込まれ、〈珠璃〉という名前を与えられてから鬼王を慕い続けているが、鬼王の心には珠璃の深い想いは決して届かない。ずっと分かっていたことなのに、それでも、ほんの少しでも自分を心に留めてほしいと切願してしまう。
「あの者は、どうあっても桜姫を手放す気はないようです」
珠璃が告げると、それまで何の反応も示さなかった鬼王の眉がピクリと痙攣した。
珠璃は気付かぬふりを装って続けた。
「私はあの者に告げました。我々と手を組む気はないか、と。代わりに、鬼王に桜姫をお返しすることを交換条件として出しましたが。
予想はしていました。やはり、あの者は条件は飲まなかった。あの者の、桜姫――いえ、桜姫の器に対する執着は並々ならぬものがございました」
そこまで言うと、珠璃は鬼王の横顔をジッと覗った。全身に冷たい戦慄が走り、目を逸らしそうになったが、それでも耐え続けた。
「あの者を相当買っているようだな」
珠璃の言葉に静かに耳を傾けていた鬼王が、ゆったりと口を開いた。
「確かに、あの者は違う。あれに手をかけた男の魂を持ってはいるが、あの者はあれを救いたいと切実に願っている。だが……」
鬼王の金の瞳がギラリと強い光を帯びた。
「あの者の側にいては、あれは決して幸せになれぬ。ヒトのココロは季節と同じで変わりゆくもの。今はあれを守ろうと強く思っていても、いつか必ず、あの者はあれの身を滅ぼす。私には分かる。あれはあの者を信じようとして、最期は打ち捨てられてしまった姿を幾度となくこの目で見てきたのだから……」
そこまで言うと、鬼王は、ホウ、と小さく息を吐いた。何か思案に暮れているのか、金色の瞳はゆっくりと伏せられた。
その横顔を、珠璃は口を噤んだままで見つめ続けた。綺麗で、けれども、どこか憂いを感じさせ、見ている珠璃の心も痛いほど締め付ける。
(私に出来るのは、静かに鬼王を見守り続けること……)
珠璃は自分に言い聞かせる。
死の淵から救い出してくれた鬼王。もちろん、新たな命を吹き込まれた瞬間からヒトではなくなったが、それでも、見た目だけでも普通のヒトと同様に呼吸をし、大地を踏み締めている。
(私はいつでも、鬼王の側にあり続けます。ずっと……)
心の中で告げると、珠璃は静かにその場を離れてゆく。
鬼王の望みは、桜姫を自らの元へ呼び寄せること。それならば、どんな手を使ってでも願いを叶えよう。そう強く心に決め、珠璃は闇の中へと溶けていった。
この光景は幾度目にしてきただろう。最初の頃は、年が過ぎてゆくのを指折り数えていたはずなのに、あまりに長い時を重ねてゆくうちに、初めて鬼王と出逢った時からどれほどの歳月が流れたかなんて、すでに忘れてしまった。ただ、この世界の桜の美しさは変わらない。いや、この桜は桜であって桜ではない。鬼王が愛おしい者を愛し、悼む心が、この世界の桜をいっそう美しく際立たせている。
「実に愚かだ」
銀色の髪を風に靡かせ、鬼王はひとりごちる。金色の双眸は桜を仰いでいる。実際は桜ではなく、どこか違う所へ想いを馳せている。その想いの先に何があるのか、女――珠璃はよく理解していた。
珠璃は元々ヒトだった。珠璃の母親は〈さる高貴な方〉に見初められ、珠璃を身籠った。しかし、珠璃が産まれるやいなや、人目に付かないとある山荘に母娘共々護送され、そこから外に一歩たりとも出ることを決して許されなかった。そのため、珠璃は外界にどんな世界が広がっているかなど知らずに育った。たまに、気紛れのように珠璃の〈父親〉だと名乗る男が訪れてくるものの、男は珠璃と会話を交わすのはおろか、顔すら合わせることをしない。母親といても、従者を通して珠璃を部屋から出し、珠璃がいない間、母親と逢瀬を重ねていた。
淋しい、とか、恨めしい、といった感情は湧かなかった。ただ、何故、自分は父親に疎まれているのかが不思議で仕方なかった。
一度だけ、母親にそれとなく問い質してみたことがあった。だが、母親は哀しげな笑みを浮かべるだけで、珠璃の問いに答えてくれることは決してなかった。
珠璃が父親に恨みを抱かなかったのは、その分、母親が珠璃にありったけの愛情を注いでくれたからだと信じている。母親は優しくて慈愛に満ちたヒトだった。一人娘の珠璃を目に入れても痛くないほど可愛がり、父親が訪れて来た時以外は、片時も珠璃を側から離そうとしなかった。
ただ、時々フッと淋しそうに顔を曇らせることがあった。そう、珠璃が、父親に避けられる理由をさり気なく訊いた時と同じように。もしかしたら、いや、もしかしなくても、母親は珠璃が生まれた時からすでに、珠璃の生まれ持った〈宿命〉を知っていたのだ。
珠璃が数えで十七を迎えようとした頃、その時は訪れた。
それまで、山荘を訪れても決して顔を見せようともしなかった父親が、初めて自ら珠璃に姿を見せた。しかも、何の前触れもなしに。
珠璃は呆気に取られ、ただ、父親を凝視するのが精いっぱいだった。
その時の父親の表情と、発せられた台詞は忘れられない。父親は口元を不敵に歪め、珠璃に向けて冷ややかに言い放った。
「機は熟した」
言っている意味が分からなかった。半ば救いを求めるような想いで隣に控えていた母親に視線を送るも、母親は狂ったように泣き崩れるばかりだった。
それから、父親は乱暴に珠璃の腕を掴んで立ち上がらせた。従者達に目隠しされ、口も縄で塞がれたかと思ったら、そのままどこかへ連れて行かれた。
「罪深きナカダチの姫、黄泉の国へ行き己の運命を呪い続けるが良い」
その後、珠璃はそのまま激流の中に放り込まれた。水圧で、全身が引きちぎられるのではないかと思えるほどの痛みを感じながら、自分はこのまま死んでしまうのかと、思いのほか冷静に受け止めていた。
ところが、珠璃は生き存えた。どうやって激流の中から助かったのかは憶えていない。だが、おぼろげではあるが、何かが珠璃に救いの手を差し伸べてきたような気はした。
気付いたら、珠璃は鬼王が封じられている世界へと導かれていたのだ。
鬼王のことは、母親から幾度となく聴かされていたから知っていた。むろん、実際に逢うのは初めてであったが。
鬼王はヒトを脅かす亡霊の長。忌むべき存在だと教えられてきた。しかし、珠璃は鬼王に畏怖を抱いたものの、ヒトの方がよほどおぞましいと感じていたから、初めて逢った時も、父親ほどには恐怖心を駆り立てられなかった。むしろ、鬼王と接する毎に、鬼王の真の優しさに触れ、側に仕えていることに幸福感を覚えた。
「ヒトは、自らの力を過信していますから」
鬼王の側に添いながら、珠璃はゆったりと口を開く。
鬼王は一瞬、金色の双眸を珠璃に向けたが、すぐに視線を外し、また桜を仰ぎ見た。
珠璃は黙って鬼王の横顔を見つめる。全てにおいて自信に満ち溢れているはずなのに、どこか縋るように淋しそうに遠くを眺めている。
(やはり、私では役不足というわけね……)
鬼王に新たな命を吹き込まれ、〈珠璃〉という名前を与えられてから鬼王を慕い続けているが、鬼王の心には珠璃の深い想いは決して届かない。ずっと分かっていたことなのに、それでも、ほんの少しでも自分を心に留めてほしいと切願してしまう。
「あの者は、どうあっても桜姫を手放す気はないようです」
珠璃が告げると、それまで何の反応も示さなかった鬼王の眉がピクリと痙攣した。
珠璃は気付かぬふりを装って続けた。
「私はあの者に告げました。我々と手を組む気はないか、と。代わりに、鬼王に桜姫をお返しすることを交換条件として出しましたが。
予想はしていました。やはり、あの者は条件は飲まなかった。あの者の、桜姫――いえ、桜姫の器に対する執着は並々ならぬものがございました」
そこまで言うと、珠璃は鬼王の横顔をジッと覗った。全身に冷たい戦慄が走り、目を逸らしそうになったが、それでも耐え続けた。
「あの者を相当買っているようだな」
珠璃の言葉に静かに耳を傾けていた鬼王が、ゆったりと口を開いた。
「確かに、あの者は違う。あれに手をかけた男の魂を持ってはいるが、あの者はあれを救いたいと切実に願っている。だが……」
鬼王の金の瞳がギラリと強い光を帯びた。
「あの者の側にいては、あれは決して幸せになれぬ。ヒトのココロは季節と同じで変わりゆくもの。今はあれを守ろうと強く思っていても、いつか必ず、あの者はあれの身を滅ぼす。私には分かる。あれはあの者を信じようとして、最期は打ち捨てられてしまった姿を幾度となくこの目で見てきたのだから……」
そこまで言うと、鬼王は、ホウ、と小さく息を吐いた。何か思案に暮れているのか、金色の瞳はゆっくりと伏せられた。
その横顔を、珠璃は口を噤んだままで見つめ続けた。綺麗で、けれども、どこか憂いを感じさせ、見ている珠璃の心も痛いほど締め付ける。
(私に出来るのは、静かに鬼王を見守り続けること……)
珠璃は自分に言い聞かせる。
死の淵から救い出してくれた鬼王。もちろん、新たな命を吹き込まれた瞬間からヒトではなくなったが、それでも、見た目だけでも普通のヒトと同様に呼吸をし、大地を踏み締めている。
(私はいつでも、鬼王の側にあり続けます。ずっと……)
心の中で告げると、珠璃は静かにその場を離れてゆく。
鬼王の望みは、桜姫を自らの元へ呼び寄せること。それならば、どんな手を使ってでも願いを叶えよう。そう強く心に決め、珠璃は闇の中へと溶けていった。
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